仏図澄との逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:00 UTC 版)
石邃には子が1人おり、襄国にいた。ある時、仏図澄は石邃へ「小阿(赤子)はやがて病を得るでしょう。これを迎えるべきです」と告げた。石邃が急ぎ向かった所、子は果たして病に罹っていた。太医の殷騰や外国の道士は直す事が出来る言ったが、仏図澄は弟子の法牙へ「聖人が遣わされなければこの病を癒すことは出来ぬ。ましてやあのような輩ではいうまでもない」と語った。3日後にその子は亡くなったが、これにより石邃は仏図澄を次第に信奉するようになった。 石邃は帝位簒奪を図った時、内豎へ向かって「和尚(仏図澄)の神通は広大である。もし発すれば我が謀は敗れるであろう。明日やって来たならばまずこれを除かん」と言った。その夜、仏図澄は石虎に入覲しようとしたが、弟子の僧慧へ「昨夜、天神が我を呼んで『もし明日出入りするならば、人を追い越してはならぬ』と告げた。もし我が人を追い越そうとすれば、汝は我を止めるように」と語った。だが、仏図澄が入るには、必ず石邃を過ぎる必要があった。石邃は仏図澄が到来したと知ると、長らく様子を窺った。仏図澄がまさに南台に昇ろうとすると、僧慧は衣を引っ張ってこれを止めた。仏図澄は「事を止める事は出来ぬ」と言って入ったが、席がまだ定まらぬうちに立ち去ろうとした。石邃は難くこれを留めたが従わなかった。その為、遂にその謀は失敗に終わった。 石邃が誅殺される前、仏図澄は嘆息して「太子が乱を作り、その形は将に成らんとしている。言わんと欲すれば言い難く、忍ばんと欲すれば忍び難いものだ」と語り、機会を見つけて落ち着いた態度で石虎を戒めた。だが、石虎はこれを理解できなかった。幾ばくもなくして石邃の一件が起こると、ようやくその意味を理解したという。
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