仏図澄の重用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
かつて、天竺の僧である仏図澄は石勒に付き従い、成敗を予言して幾度も言い当てた事により、石勒から篤く敬われた。石虎もまた彼を奉じて甚だ恭敬していたので、綾錦を衣として与え、彫輦(皇帝の乗る車の一種)に乗らせ、朝会の日に入殿する際には、常侍以下に仏図澄の輿を担がせ、太子・諸公がこれを扶けて上がらせた。また、代表の者が「大和尚」と唱えると、衆はみな立ち上がって仏図澄へ尊敬の意を表したという。 さらに、朝と夕には司空李農を仏図澄の住居へ訪問させ、太子・諸公には5日に1度訪問させる事など、その尊敬ぶりは比肩するものがなかった。国の人もこれに従い、多くの者が仏図澄に師事し、彼のいる方向で唾を吐いたり鼻水を垂らす者は独りもいなかった。これにより、後趙では仏教が広く信奉され、寺廟は争って造営され、多くの民が削髮して出家するようになった。だが、賦役を逃れる為だけに出家するような悪党も少なからずいたので、石虎はその真偽が入り混じっていた事から、詔を下して中書へ「仏とは国家の奉じる所である。里閭(村里)の小人は官爵もないのに、仏に仕えるべきと思うかね」と不満を漏らした。 著作郎王度らは議して「王者の祭祀というのは全て礼に則しているものです。仏とは外国の神に過ぎず、天子・諸華の祠を奉って応じるべきではありません。漢の初めに仏教の道は伝来しましたが、当時はただ西域の人のみが都邑(都市と村)に寺を建てて奉じる事を認めたに過ぎず、漢人はみな出家しませんでした。魏の時代においてもまた然りです。ですが、今や公卿以下が寺を詣でて焼香・礼拝を行っている有様であり、これは禁じるべきであります。趙人の中で沙門(仏法を修める事)を為す者については、還俗させるべきです」と述べると、朝士の中ではこの上奏に同意する者が多かった。だが、石虎は仏図澄のために書を下して「朕は辺境の地に生まれながら、恥ずかしも諸夏の君となり、こうして祭祀をするまでに至った。その本俗には従うべきであるが、夷・趙の百姓で仏に仕えることを望む者については、特別にこれを聞き入れるものとする」と述べた。
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