停戦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 >  停戦の意味・解説 

てい‐せん【停戦】

読み方:ていせん

[名](スル)交戦中の両軍何らかの目的のため、合意の上一時的に戦闘行為中止すること。「協定結んで—する」「クリスマス—」

「停戦」に似た言葉

停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 21:04 UTC 版)

停戦(ていせん)とは戦争や武力紛争の一時的な停止をいう。


  1. ^ Tony Paterson (2003年12月24日). “WWI Christmas Truce Started By Thousands Of German Soldiers” (英語). Rense.com. 2011年2月11日閲覧。


「停戦」の続きの解説一覧

停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)

ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「停戦」の解説

4月18日、ティホミル・ブラシュキッチ(英語版)はフォイニツァ(英語版)にいる穏健派クロアチア防衛評議会指揮官・スティエパン・トゥカ(Stjepan Tukaに対してドゥシナ(Dusina)を攻撃するよう命令した。しかしトゥカは停戦に期待して、両民族間の平穏状態を保っていたフォイニツァの政策従い攻撃を行わなかった。トゥカ辞任させられることとなったが、その際には地元クロアチア防衛評議会や他の機関から抗議起こった4月19日欧州共同体監視団英語版)は、中央ボスニアにおける情勢急速に悪化しており、国際社会関心スレブレニツァ集まっているすきを縫ってクロアチア人2つの県の支配権奪取動いているとみられる報告した4月20日にはスタリ・ヴィテズの南東ガチツェ(Gaćice)がクロアチア防衛評議会攻撃され直後にヴィテシュカ旅団当直将校は「ガチツェ70パーセント完了した」と報告し同日中にを完全に掌握できる見通しであることを伝えている。 1993年4月21日欧州共同体監視団仲介のもと、クロアチア防衛評議会ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍との間で、停戦および戦力引き離し交渉が行われた。4月25日ザグレブ行われた会合にて、アリヤ・イゼトベゴヴィッチマテ・ボバンとの間で即時停戦が合意された。

※この「停戦」の解説は、「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の解説の一部です。
「停戦」を含む「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事については、「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:18 UTC 版)

西サハラの歴史」の記事における「停戦」の解説

1991年モロッコポリサリオ戦線国際連合解決計画提示した停戦に合意した。更にこの計画の詳細1997年ヒューストン合意具体化され西サハラ地位はサハラウィー人(英語版住民による独立もしくはモロッコとの統合決定する住民投票へモロッコ合意次第となった計画は彼らの民族自決運動決定する投票意図し、これによって西サハラ脱植民地化過程完了しようとしている。国連は停戦と投票への協定監視するためPKOMINURSO派遣した初め1992年計画されていたが、有権者数について揉めているため、住民投票未だ行われていない。二度目国連解決へ試みは、ジェームズ・ベイカーによる2003年ベイカー計画II英語版であったが、ポリサリオ戦線には受け入れられたものの、モロッコ即座に反対した。モロッコこのような国連調停不要だ宣言し投票実施するという合意破ったのであるモロッコ解決計画2003年ベイカー計画英語版)からの脱退は、政治的協議なしにPKO残した。これは更なる戦争再開可能性増大させた。一方では、1990年代の間にモロッコでの政治生活漸進的な自由化が、遅まきながら西サハラ2000年頃に達した。この政治的矛盾モロッコ支配対すデモ始めたその後のサハラウィー人に対す取り締まり逮捕モロッコ支配へのメディアの注目集め、サハラウィー人(英語版ナショナリスト好機獲得した2005年5月デモの波からポリサリオ戦線支持者から独立インティファーダ英語版)と呼ばれる蜂起発生した。これらのデモ翌年まで続いたまた、紛争への新たな関心生み出したポリサリオ戦線国際的な介入要求したが、"弾圧エスカレート"が続けば無為に過ごさない発表した

※この「停戦」の解説は、「西サハラの歴史」の解説の一部です。
「停戦」を含む「西サハラの歴史」の記事については、「西サハラの歴史」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 10:10 UTC 版)

レバノン侵攻 (2006年)」の記事における「停戦」の解説

8月5日フランスのドラサブリエール国連大使は、午後開かれた国連安保理で、レバノン情勢に関する決議案提示した6日カタール衛星テレビ・アルジャジーラは、ヒズボライスラエル北部都市キリヤット・シュモナロケット弾攻撃加え12人のIDF兵士死亡、6人が負傷した伝えた。 これ以降ヒズボラによる執拗なゲリラ攻撃により、IDF戦死傷者急激に増加した国連による停戦案はイスラエル寄りアメリカと、アラブ寄りロシア中国の間で、イスラエル撤兵後にレバノン南部展開するレバノン国軍UNIFILが、ヒズボラどのように武装解除するかで衝突したが、アメリカ採決直前武力による強制武装解除の案を取り下げ実質的にヒズボラ兵力温存されることとなった。停戦案は8月11日可決採択された。 8月13日戦闘継続していたが、イスラエル政府国連の停戦決議受諾することを発表した。翌8月14日午前8時、停戦決議に基づきIDFに対して停戦命令下った。ただし、自衛為の攻撃許可されていた為、小規模な空爆戦闘継続したまた、停戦案提示から実現まで、IDF1,800発に及ぶクラスター爆弾ヒズボラ攻撃使用し、その不発弾問題となっている。 これ以降IDF1か月をかけてレバノン国軍UNIFIL占領地明け渡し自国領内撤収したUNIFILレバノン影響力のあるフランス主体となることを、国連アメリカ望んだが、先制攻撃禁じられる上に犠牲強いられる見たフランスは、工兵200程度少数派遣にとどまりイタリアが2,000名以上の兵力派遣することで合意9月レバノン上陸し2007年3月以降イタリア軍指揮権付与されることとなったまた、トルコなども大規模派兵表明している。 10月1日IDF国境沿いの数ヶ所を除きレバノン領内から撤退した。この紛争IDF累計100人以上の戦死者出しながら、ヒズボラ拠点建物地下施設を完全に破壊することは出来ずイスラエル北部軍事的安定はおろか、元々の発端であった拉致兵士2名の解放す実現できなかった。そのため国内でも作戦対す批判高まり政府調査委員会による調査結果エフード・オルメルト首相、アミール・ペレツ国防相ダン・ハルツ参謀総長当時)の責任厳しく指摘されオルメルト政権はその求心力を失う事となった。 対外情報局や軍の情報網把握できていた地点についても、散発的にイスラエル領内への攻撃が行われていることから、IDFによる攻撃十分になされていないことが停戦後判明したこのためIAF機は停戦後も、ヒズボラ監視としてレバノン領空侵犯繰り返している。

※この「停戦」の解説は、「レバノン侵攻 (2006年)」の解説の一部です。
「停戦」を含む「レバノン侵攻 (2006年)」の記事については、「レバノン侵攻 (2006年)」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 19:23 UTC 版)

マリンカの戦い (2015年)」の記事における「停戦」の解説

マリンカ状況は、停戦が定着したため、早朝の間は安定していた。ウクライナ軍は、停戦によりマリンカウクライナ軍の手戻った発言しDPR国防大臣Vladimir Kononovとウクライナ軍欧州安全保障協力機構に対してマリンカウクライナ領であると認めた6月4日AP通信記者は、マリンカ短期間滞在し掃討戦が行われているが、町がウクライナ支配下になったことを確認したマリンカの戦いで、分離派20人と兵士4人が戦死分離派99人と兵士39人が負傷し市民9人が死亡30人以上が負傷した6月4日DPRによれば引き続きウクライナ砲撃迫撃砲ドネツィクを含むDPR支配下複数都市直撃し分離派16人と市民5人が死亡分離派86人と市民38人が死亡した翌日ウクライナ大統領は、分離派勢力追放されウクライナ軍マリンカ奪還しロシア人1人を含む「妨害工作行った12人を捕虜にしたと発表したが、第三者機関により確認されたものではなかった。

※この「停戦」の解説は、「マリンカの戦い (2015年)」の解説の一部です。
「停戦」を含む「マリンカの戦い (2015年)」の記事については、「マリンカの戦い (2015年)」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 14:52 UTC 版)

ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「停戦」の解説

ロシアかねてから南カフカースでの自国影響力を増すためにCSCE差し置いて独自の和平工作行っていたが、1994年5月5日キルギス首都ビシュケクアゼルバイジャンアルメニアナゴルノ・カラバフ、そしてロシアの代表が停戦協定調印したことによってそれは実を結んだ。この「ビシュケク議定書英語版)」は非公開であるが、その内容には、アゼルバイジャン主権維持した上でナゴルノ・カラバフへの広範な自治権付与ナゴルノ・カラバフ対す安全保障システム難民問題対す調整占領地域からのアルメニア人撤退ラチン回廊及びアゼルバイジャン・ナヒチェヴァン間ルートに関する調整、などが含まれていると分析されている。 6年間の戦闘の末、1994年5月12日午前0時1分に停戦は成立した

※この「停戦」の解説は、「ナゴルノ・カラバフ戦争」の解説の一部です。
「停戦」を含む「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事については、「ナゴルノ・カラバフ戦争」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/14 07:08 UTC 版)

ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年)」の記事における「停戦」の解説

マルケス・デ・ソウザ率い騎兵300人は南東サンタ・テレサ砦(英語版)に進軍した。この砦はポルトガル人建てたが、スペインの手落ちて久しく守備軍の軍力は350人と大砲4門だった。しかし、9月5日にマルケス・デ・ソウザが到着するときには守備軍がすでに引き上げており、要塞周辺家屋放火され、地雷配置され市民追放された後だった。マルケス・デ・ソウザは自軍小隊分けて追撃命じロチャ、カスティーリョス・グランデなどでバンダ・オリエンタル人を捕虜にしたり、馬を数百奪ったりした。 しばらくして平和維持軍サンタ・テレサ到着した短期間滞在したのち10月3日出発したが、ディオゴ・デ・ソウザは出発前に225から250人、大砲7門、臼砲2門、榴弾砲1門を守備のために残した。ディオゴ・デ・ソウザは10月21日にはさしたる抵抗遭わないままマルドナド到着したモンテビデオ港興味持っていたイギリスからの圧力を受け、さらにポルトガル軍追い詰められエリオ10月20日停戦協定締結した停戦協定によりアルティーガスはサルトに、ロンデアウはブエノスアイレス戻った。アルティーガスを追撃していたペドロソはアラペイ(英語版)に退いた。このとき、ディオゴ・デ・ソウザはすでにモンテビデオ近郊まで進軍したため、この報せ仰天した

※この「停戦」の解説は、「ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年)」の解説の一部です。
「停戦」を含む「ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年)」の記事については、「ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年)」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:39 UTC 版)

朝鮮戦争」の記事における「停戦」の解説

詳細は「朝鮮戦争休戦協定」を参照 この後1951年6月23日ソ連ヤコフ・マリク国連大使休戦協定締結提案したことによって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉難航した

※この「停戦」の解説は、「朝鮮戦争」の解説の一部です。
「停戦」を含む「朝鮮戦争」の記事については、「朝鮮戦争」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:35 UTC 版)

冬戦争」の記事における「停戦」の解説

ソ連指導部は、戦争開始から1か月経たないうちにこの戦争落としどころ考え始めていた。死傷者増加戦争の長期化泥沼化は、ソ連国内政治課題ともなっていた。また春の訪れと共にソ連軍森林地帯ぬかるみにはまる危険があった。ソ連攻撃並行して1月12日和平交渉再開フィンランド提案した1月末にはスウェーデン政府経由した和平予備交渉にまで至っていたが、フィンランド政府は、ソ連提示した厳し講和条件躊躇せざるを得なかった。 しかし、スウェーデン王グスタフ5世フィンランド支援の正規軍派遣をしないことを公式表明したことに加えて2月末までにフィンランド軍武器弾薬消耗激しくマンネルヘイム元帥このまま戦争継続した場合敗北必至で、フィンランドの独立さえ危うくなるという政治的判断により、講和による決着考えていた。これを受け政府2月29日より講和交渉再開決定した同日フィンランド第二の都市であり、首都ヘルシンキへの最後防衛拠点であるヴィープリに対してソ連軍殺到しており、フィンランド政府にもはや猶予はなかった。 和平交渉結果両国3月6日停戦協定達した。4か月間の戦闘で、ソ連軍少なくとも127千人死者出していた。ソ連軍戦死者20万人以上ともいわれ、ニキータ・フルシチョフ100万人としている。 フィンランド側は、約2万7千名失い、さらに講和代償決して安いものではなかった。

※この「停戦」の解説は、「冬戦争」の解説の一部です。
「停戦」を含む「冬戦争」の記事については、「冬戦争」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 03:01 UTC 版)

第二次バルカン戦争」の記事における「停戦」の解説

ルーマニア軍ソフィアに迫る中、ブルガリアロシア仲介要請したが、ロシアが行動を起こさなかったためブルガリア首相ストヤン・ダネフ(英語版)が辞任した7月17日フェルディナンド1世はヴァシル・ラドスラホフ(英語版)を首相に任命、親独反露政権発足した7月20日セルビア首相ニコラ・パシッチ(英語版)はブルガリア代表セルビアニシュ同盟国との直接交渉招いた。しかし、セルビアギリシャ攻勢出たため講和急がず22日にはフェルディナンド1世ブカレスト駐在イタリア大使通じてカロル1世親書送りルーマニア軍がようやくソフィア前に進軍停止したルーマニアブカレスト交渉を行うことを提案、代表たちは7月24日鉄道ニシュからブカレスト移動した。 そして、各国代表7月30日ブカレスト会合したセルビア代表はパシッチが、モンテネグロ代表はヴコティッチが、ギリシャ代表はヴェニゼロスが、ルーマニア代表はティトゥ・マイオレスク(英語版)が、ブルガリア代表財務大臣ディミトゥル・トンチェフ(ブルガリア語版)が率いた。代表たちは7月31日から5日間の停戦に合意した。しかし、ルーマニアオスマン帝国参加拒否したため、ブルガリアオスマン帝国別個に交渉しなければならなかった。

※この「停戦」の解説は、「第二次バルカン戦争」の解説の一部です。
「停戦」を含む「第二次バルカン戦争」の記事については、「第二次バルカン戦争」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/16 20:33 UTC 版)

停戦前の駆け込み攻勢」の記事における「停戦」の解説

8月8日国連事務総長は停戦について 停戦実施グリニッジ標準時8月20日0300時 両国は停戦実施日から停戦監視団受け入れ 直接交渉8月25日からジュネーヴで行う 以上、3点発表した。 そして8月20日0300時(イラク時間0630時、イラン時間0700時)停戦が発効両軍陣地では白旗揚がり国際連合イラン・イラク軍事監視団が展開を開始した。 停戦は実現した和平交渉難航し、更に数ヶ月時間要することとなる。

※この「停戦」の解説は、「停戦前の駆け込み攻勢」の解説の一部です。
「停戦」を含む「停戦前の駆け込み攻勢」の記事については、「停戦前の駆け込み攻勢」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:51 UTC 版)

ガザ侵攻 (2006年)」の記事における「停戦」の解説

11月16日欧州連合とフランス・イタリア・スペインの3ヶ国は、イスラエルパレスチナ対し和平案を提示した当初イスラエル政府和平案を一蹴したその後態度変化した11月26日パレスチナ暫定自治政府イスラエル政府との間で停戦が合意された。イスラエル軍攻撃によってガザ市民に約400名の死者発生した合意以前イスラエル軍ガザ北部からの撤退完了しており、南部からも撤収した。しかし、パレスチナ過激派一部イスラエル攻撃継続宣言しており、実質的な戦争状態は今後も続くと予想された。 オルメルトは翌27日にも、「真の和平実現引き換え占領地から入植地撤去させ、パレスチナ国家建設承認する」と発表さらには拉致兵士釈放引き換え長期囚を含む政治犯釈放と、ハマース政権成立以来停止していた消費税関税イスラエル代行徴収している)の送金再開する宣言した。この柔軟路線への転換は、ハマース求心力低下と共に11月7日行われた米中選挙共和党敗北しネオコン勢力弱まった事により後ろ盾失ったリクード発言力小さくなったためと考えられる一方ガザ地区でのハマースファタハ攻防激化し11月中には銃撃戦死傷者続出月末には停戦したもの12月には衝突再発2006年末には「内戦状態」と報じられるほどに治安悪化した

※この「停戦」の解説は、「ガザ侵攻 (2006年)」の解説の一部です。
「停戦」を含む「ガザ侵攻 (2006年)」の記事については、「ガザ侵攻 (2006年)」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:53 UTC 版)

張鼓峰事件」の記事における「停戦」の解説

停戦合意における協定次の通りである。 ソ連沿海州時間UTC+1011日正午双方戦闘行為中止する 日ソ両軍は、ソ連沿海州時間11日午前零時現在の線を維持する 実行方法現地における双方軍隊代表者間において協議する現地では、11日午後8時ごろ、日本軍表・歩第74連隊長長大佐ソ連極東軍参謀長シュテルン大将と張鼓峰方面ソ連軍陣地内において会見し、停戦が実現した。翌12日午後9時30分、文書をもって次のような現地協定覚書交換した。 張鼓峰稜線北部における現状につき、さしあたり両国政府報告すること。 日ソ両軍指揮官は、軍事行動停止関し両国政府決定により、今後張鼓峰付近においてはいかなる事件も発せざるため、万全処置を取ることを保証す。 1938年8月12日午後8時より、日ソ両軍は張鼓峰稜線北部において、日ソ両軍主力稜線より80m以上の線に後退せしむべし。 現地調査結果ソ連軍日本軍が張鼓峰頂上確保していることを確認し協定通り双方部隊後退完了したこれをもって戦闘状態は終熄した。

※この「停戦」の解説は、「張鼓峰事件」の解説の一部です。
「停戦」を含む「張鼓峰事件」の記事については、「張鼓峰事件」の概要を参照ください。


停戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 05:28 UTC 版)

モザンビーク内戦」の記事における「停戦」の解説

冷戦終結後FRELIMO側はソビエト連邦の崩壊RENAMO側はアパルトヘイト終焉によりそれぞれの支持勢力失った両者ヨーロッパ諸国仲裁によって和平交渉を行うようになり、1992年10月ローマでモザンビーク包括和平協定調印され内戦終結RENAMO政党として認められ、現在は50議席協力する政党40議席)を得てモザンビーク社会定着している。その後軍事的対立続いた水面下では和平交渉続けられ2019年8月1日両者改め和平協定調印し内戦終結後27年続いた軍事的緊張終わりを告げRENAMO軍事部門武装解除されることとなった

※この「停戦」の解説は、「モザンビーク内戦」の解説の一部です。
「停戦」を含む「モザンビーク内戦」の記事については、「モザンビーク内戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「 停戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

停戦

出典:『Wiktionary』 (2021/11/11 03:22 UTC 版)

名詞

ていせん

  1. 交戦国同士合意により戦闘行為一時的に停止すること。

関連語

動詞


「 停戦」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「 停戦」の関連用語

 停戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



 停戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの停戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラシュヴァ渓谷の民族浄化 (改訂履歴)、西サハラの歴史 (改訂履歴)、レバノン侵攻 (2006年) (改訂履歴)、マリンカの戦い (2015年) (改訂履歴)、ナゴルノ・カラバフ戦争 (改訂履歴)、ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年) (改訂履歴)、朝鮮戦争 (改訂履歴)、冬戦争 (改訂履歴)、第二次バルカン戦争 (改訂履歴)、停戦前の駆け込み攻勢 (改訂履歴)、ガザ侵攻 (2006年) (改訂履歴)、張鼓峰事件 (改訂履歴)、モザンビーク内戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA) and/or GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblioに掲載されている「Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ)」の記事は、Wiktionaryの停戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA)もしくはGNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS