管内で発生した重大事件
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「ロンドン警視庁」の記事における「管内で発生した重大事件」の解説
ロンドン警視庁が捜査を担当、または関わることになった事件・事故のうち、著名かつ重大なものを以下に示す。 1888年 - 1891年:ホワイトチャペル殺人事件:切り裂きジャックがホワイトチャペル地区で少なくとも5人の売春婦を殺害したと疑われたものの、一連の猟奇殺人の被疑者が告発されることはなく、その正体も未だ特定されていない未解決事件。 1911年:シドニー・ストリートの立てこもり事件(英語版):1911年1月2日、宝石強盗を試みたラトビア人暴力団の一味が、強盗に失敗した後に一組の人質を取り、立てこもった事件。後れて現場に到着した内務大臣ウィンストン・チャーチル(当時)は、ロンドン塔から警察を支援するために、スコッツガーズの分遣隊に権限を与えた。 1966年:ブレイブルック・ストリートの大虐殺(英語版):不審車両に乗っていた3人に尋問した3人の警察官が、そのうちの1人ハリー・ロバーツ(英語版)に殺害された。 1969年 - 1997年:IRA暫定派による爆撃(英語版):20世紀最後の四半世紀を通して、IRA暫定派により幾多の爆撃が実行された。それらの爆撃は首都警察管区やロンドン中心部にも仕掛けられた。 1975年:バルカム・ストリート立てこもり事件(英語版):1975年12月6日から12日にかけて、IRA暫定派のメンバーが警察からの逃亡中に一組の人質を取り、立てこもった。一連の出来事はテレビ放映された。 1975年:スパゲティー・ハウス立てこもり事件(英語版):1975年9月18日、黒人解放軍のメンバーとみられる男数人が世間の注目を集める目的で、スパゲティー・ハウス・レストランへ拳銃強盗に押し入ろうとした。しかし、警察によって犯行現場を発見され、強盗するはずだった男たちは、人質を取って立てこもり始めた。 1975年:ムーアゲート地下鉄事故(英語版):ロンドン地下鉄ムーアゲート駅でオーバーランした列車がトンネル出口の車止めに衝突し、43人が死亡。平時におけるロンドン地下鉄史上最大の死者を出した。 1976年:ノッティング・ヒル・カーニバル暴動:1976年8月30日、ロンドン警視庁の警察官がノッティング・ヒル・カーニバル(英語版)の会場でスリの容疑者を逮捕しようとした後、暴動が起こり、100人を超える警官が病院に搬送された。 1978年 - 1983年:マスウェル・ヒル殺人事件:連続殺人犯デニス・ニルセン(英語版)は、5年ほどの間に少なくとも15人の男性と少年を殺害した。彼は性行為のために死体を保存した後、それらを燃やしたり下水に流したりして死体を遺棄することで知られていた。ロンドン警視庁の警察官が彼を逮捕した際、マスウェル・ヒルにある彼の自宅から死体の一部が発見された。 1979年:ブレア・ピーチの死(英語版):1979年4月にサウソールの町役場で行われた、イギリス国民戦線の選挙会合に反対する反ナチ同盟のデモ中に、教員だったピーチ先生は致命傷を負った。彼は翌日、病院で意識を失って死亡した。警察の蛮行は決して彼の死を招く有力な原因にはならなかったことが判明したが、ロンドン警視庁特殊パトロール班(現在は廃止)所属の警官の警察無線から、彼の側から殴りかかり始めたのだとされた。2010年に公表された警察の報告によれば、「どちらが始めたか」について、ロンドン警視庁の警官が「致命的な一撃を与えた」可能性があり、ある無名の警察官に「重大な容疑」がかけられることが発表された。その警官は、2人の同僚と共に事態の隠滅に関わったかもしれないと話している。 1980年:駐英イラン大使館占拠事件:アラブ自由と民主革命運動 (DRMLA) を名乗るテロリスト集団のメンバーがイラン大使館職員を人質に取って大使館を占拠した。ロンドン警視庁の交渉人が交渉任務に当たるなどして事件に大きく関わっていたが、6日目に事態が一変して人質のうちの1名が殺害されると、指揮権はイギリス陸軍に委譲され、特殊部隊SASが大使館ビルに突入した。テロリスト6名のうち5名を射殺し、26名の人質は無事に解放された。 1981年:ブリクストン暴動(英語版):1980年代初頭、警察官が非行や犯罪の疑いのある人々を止めることを法的に認めた、不審者抑止法に基づく路上犯罪削減のために、ロンドン警視庁はオペレーション・スワンプ(沼地作戦)を実施した。黒人青年が刺殺された後、黒人社会の緊張が高まり、1981年4月11日に大規模な暴動が発生した。 1982年 - 1986年:鉄道強姦事件:ジョン・ダフィーとデビッド・マッケイ(英語版)の二人は、ロンドン近郊とサウス・イースト・イングランドの鉄道駅で、18名の女性および少女に対して強姦行為を犯し、そのうち3名を殺害した。ロンドン警視庁とイギリス鉄道警察の警察官は、近隣の警察と連携して事件解決に向けて臨んだ。ダフィーは1988年に有罪判決を受けたが、マッケイには10年近くの間、刑事罰が下されなかった。 1985年:ブリクストン暴動(英語版):警察が、母親の家に潜伏していると思われていたマイケル・グロウスを、火器の違法使用の疑いで捜査中に、彼の母ドロシー・グロウスを誤射したことを発端として、1985年9月28日に暴動が勃発した。彼はその時、母親の家には不在であった。母ドロシーは撃ち込まれた弾丸によって部分麻痺になった。 1985年:ブロードウォーター・ファーム暴動(英語版):上記のブリクストン暴動の一週間後、黒人社会の緊張状態は依然高く、捜査対象にされていた黒人男性の母親が警察の捜査中に心臓発作で死亡した後で、ロンドン北部のトッテナムで暴動が発生した。暴動の最中、ロンドン警視庁所属のキース・ブレイクロック巡査(英語版)が殺害され、殉職。この殺人事件は未だ解決していない。 1986年:ストックウェル絞殺事件:連続殺人犯ケネス・アースキン(英語版)は、ストックウェルで高齢者の家々に押し入り、高齢の男性および女性の首を絞めて殺人を犯した。多くのケースで、殺害の前には性的暴行が加えられた。2009年、控訴後に責任能力の減退があるとする理由により、アースキンに対する有罪判決は故殺に減軽された。 1987年:キングス・クロス火災:キングス・クロス・セント・パンクラス駅の地下鉄プラットホームから地上へとつながる木製のエレベータの下から出火。炎と煙により、ベテランの消防士を含む31名が死亡。 1988年:クラパムジャンクション鉄道事故(英語版):クラパムジャンクション駅へ満員の通勤電車が欠陥信号を発しながら、別の通勤電車の後方に向かって突進し、さらに別の対向列車の線路に列車を脱線させた。この事故によって35人が死亡、69人がけがをした。 1989年:マーショネス号転覆沈没事故:クルーズ客船マーショネス号が浚渫船と衝突し沈没、51名が死亡した。 1990年:人頭税暴動(英語版):コミュニティ・チャージ(人頭税)に対して増大していた社会不安がきっかけとなった暴動で、早期に実施されていた合法的なデモから発展した。この暴動により、推定で約40万ポンドの損害が生じたとされている。 1993年:ゲイ殺害事件:元軍人のコリン・アイルランド(英語版)が同性愛者の男性5人を拷問の末、殺害した。1993年、アイルランドに終身刑の判決が言い渡され、2012年2月21日に獄中死した。 1993年:スティーヴン・ローレンス殺人事件(英語版):十分な証拠があったにもかかわらず、当時学生であった黒人少年スティーヴン・ローレンスを殺害したとされた容疑者は当初、不起訴となった。マクファーソン判事の審理の結果、ロンドン警視庁は「制度上の人種差別主義者」だとされた。2人の白人の男、ゲイリー・ドブソンとデイヴィッド・ノリスは、ローレンス殺害を担ったとして、2012年1月3日に有罪判決が下された。彼らの裁判は、2007年の再捜査で新たに発見された法医学的証拠に基づいて審理された。その証拠とは、ドブソンのジャケットに付いた極小さなローレンスの血痕と、ノリスのズボンに付いていたローレンスの毛髪であった。ドブソンには禁錮15年2か月以上、ノリスには禁錮14年3か月以上の判決が下された。2013年6月、ロンドン警視庁がスティーヴン・ローレンスの家族と友人の名誉を傷つけるために、おとり捜査官を派遣していたことが暴露された。 1995年:ブリクストン暴動(英語版):警察の拘置所で地元の男性が死亡したことを巡り、ブリクストン警察署の前で大きな抗議集会が開かれ、暴動へと発展した。3人の警察官がけがをし、ブリクストンの周囲半径2マイルが立入禁止区域とされた。のちの報告では、拘置所内で亡くなった男性の死因は心不全だったとし、彼を抑制するのは困難だったと述べられている。 1999年:ロンドン釘爆弾事件:デイヴィッド・コープランド(英語版)は、少数民族地区やゲイ・コミュニティの人々が頻繁に出入りするパブを、憎悪をもって襲撃した。 1999年:反資本主義カーニバル(英語版):シティ・オブ・ロンドンで起こった騒動をもって以前は平穏に終わっていた反資本主義者たちのデモが、特にグローバル資本主義と同一視される企業を中心として、広範囲に損害を与えた。 1999年:ハリー・スタンリー射殺事件:ハリー・スタンリー(英語版)が椅子の脚をカバンに入れていたところを銃身の短い散弾銃を持っていると見間違えられ、自宅近くでロンドン警視庁の武装警察官によって射殺された事件。 2001年:メーデー抗議暴動:群衆を整理する試みの中で、ロンドン警視庁が「ケトリング」(囲い込み)と呼ばれる戦術をとったことで、無実の傍観者らを長時間拘束したとして、非難を浴びた。 2001年:テムズ殺人事件:4歳から7歳くらいと思われる少年のばらばらに切断された死体がテムズ川に浮いていた。確かな身元が不明なこの少年には「アダム」という名が警察によりつけられた。捜査中に警視長と警部はネルソン・マンデラと会談している。事件は解決されていない。 2002年:オペレーション・チベリウス(英語版):「組織犯罪者が汚職警察官を買収して、スコットランドヤードに好きなように潜入することができた」とする内部報告書が見つかった。 2004年:狩猟賛成派の抗議暴動:2004年狩猟法(英語版)の制定に反対する抗議デモの参加者らは、議会前でロンドン警視庁と暴力的な衝突をした。 2005年:ロンドン同時爆破事件:7月7日、4件の自爆テロがロンドン中心部各所で発生した。その後、ロンドン警視庁は重大事件計画に対して連携、指揮、科学捜査及び捜査筋を提供した。 2005年:ロンドン連続爆破テロ未遂事件(英語版)とジェアンシャルレス・ジメネゼスの死(英語版):7月7日の同時爆破テロの2週間後、7月21日に連続爆破テロ未遂事件が発生し、英国在住のブラジル人男性ジェアンシャルレス・ジメネゼスが誤ってテロの容疑者とみなされ、オペレーション・クラトス(英語版)を実行中のロンドン警視庁の警察官に地下鉄車両内で射殺された。 2006年:ロンドン旅客機爆破テロ未遂事件:爆発性の液体を大西洋上を飛行中の航空機内で爆発させるとされた計画とイスラム過激派による他の関連テロリストの活動は、ロンドン警視庁などを含む英国警察によって阻止された。 2006年:オペレーション・モクポ:ケント州ダートフォードで一連の襲撃があった後、オペレーション・トライデントの一環として、ロンドン警視庁で過去最大規模となる数の火器を押収した。 2007年:自動車爆破未遂事件(英語版):ロンドン中心部で自動車爆弾テロ未遂事件があった。ナイトクラブの外に停めた車に設置されていた爆弾は、別件で近隣に出動していたロンドン救急サービス (LAS) の救急救命士が最初に発見、報告した。ロンドン警視庁の爆発物処理班がこの爆弾と別の地下駐車場内に仕掛けられていた爆弾の解体を行った。その後の捜査によって、容疑者に有罪判決が下された。 2008年:イギリス黒人警察官協会(英語版)ボイコット:人種差別の面から警察に反対することを宣言した。イアン・ブレア(英語版)警視総監に反対したタリク・ガファル(英語版)警視監(アジア人警察官としては当時ロンドン警視庁で最も高い階級にあった)による人種差別的な主張を含む、上級の黒人警察官もこの論争に巻き込まれたことで注目を浴びた。 2009年:G20サミット抗議デモ(英語版)とイアン・トムリンソンの死(英語版):ロンドン警視庁はG20サミットへの抗議デモに参加する多くの群衆を整理する手法として「ケトリング」を用いた。抗議行動を傍観していたイアン・トムリンソンは地域支援班の巡査に警棒で殴られた後、地面に叩きつけられたために、内出血を起こして死亡した。トムリンソンの死についての検死陪審では、非合法な殺害であったとの評決が下されたが、トムリンソンを押しつけた警察官は後に故殺の無罪判決を受けた。これとは別に、女性の顔を素手で殴ったり、警棒で脚を打ちつけたりしている映像が撮影された後で、地域支援班の巡査部長がその容疑にかけられたが、後にすべての罪は晴らされた。 2010年:ローマ教皇ベネディクト16世の公式訪英(英語版):2010年9月、ローマ教皇ベネディクト16世はイギリスを公式訪問した初めてのローマ教皇となった。教皇のスコットランドとイングランドへの行幸が首都ロンドンに達したとき、約1万人の人々がロンドンの通りをデモ行進した。 2011年:歳出削減に反対する抗議暴動(英語版):歳出削減案に反対した50万人にも上る人々がロンドン中心部をデモ行進し、201人が逮捕され、警察官31人を含む66人が負傷した。2003年2月15日に行われた反イラク戦争抗議行動(英語版)以降ではイギリス国内最大規模の抗議行動であり、第二次世界大戦後のロンドンにおいて最大規模の労働組合集会となった。 2011年:夜間ストーカー犯に対する有罪判決:12年間にも及んだオペレーション・ミンステッドは、夜間ストーカー犯の有罪判決をもって、2011年3月24日に終結した。デルロイ・グラント(英語版)は、1992年から2009年までの17年間に、ケント州やサリー州等ロンドン南方の地域で、複数の中年女性に強姦、強制わいせつ行為を働いた。グラントには住居侵入罪、強姦罪、性的暴行の罪など29の罪で有罪判決が下されたが、ロンドン警視庁は1990年代から2000年代にかけてさらに別に200件以上の犯罪に関与していたとみている。グラントには4つの終身刑が与えられ、最低27年の懲役を命じられた。 2011年:ウィリアム王子とキャサリン・ミドルトンの結婚式:2011年4月29日にウィリアム王子とキャサリン・ミドルトンの婚礼が執り行われる、ウェストミンスター寺院の警備に当たるため、約5,000人のロンドン警視庁の警察官が配置された。催事に先立ち、警視監リン・オーエンスは「平和的に抗議するためにロンドンに来たい人々はそれを実行するがいい。だが、今日は国家的祝事の日であることを彼らは覚えておかなくてはならない。」と述べた。実際に、明らかに抗議暴動の未然抑止を目的として、およそ100人が式典前に先手を打って逮捕され、式典期間中は罪状なしで拘禁された。式典当日にも逮捕者が出ており、鉄道駅に到着したところを拘禁された抗議者もいた。ロンドン警視庁は結婚式のパレードを観覧するために、現に100万人の人々がロンドンを訪れていると主張した。 2006年 - 2011年:ニューズ・インターナショナル電話盗聴スキャンダル:ロンドン警視庁の一部の警察官が捜査情報と引き換えにジャーナリストから金銭を受け取っていたとする、収賄の疑いの告発を中心とした警察不祥事である。 2011年:全国規模の暴動:ロンドン警視庁の警察官が一般人を射殺した疑いのある事案が発生したことに続いて、トッテナム地区をはじめとする一連の暴動が起こり、多くの警察官が負傷した。ロンドン警視庁は市内の他の多くの地区に広がった暴動、略奪、放火に対する大規模な捜査活動を含む、オペレーション・ウィザーンを発表した。 2012年:ロンドンオリンピック・パラリンピック競技大会:競技大会期間中は、英国史上最大規模となる、10,500人のロンドン警視庁所属の警察官が配置された。 2013年:ランベス奴隷事件(英語版):2013年11月、ロンドン警視庁の人身売買班は、家庭内で30年以上、3人の女性を奴隷のように強制労働させていたとして、2人の容疑者をランベスで逮捕した。 2013年:プロジェクト・ガーディアン(英語版):公共交通機関でのセクハラを減らし、性犯罪の通報を増やすための、イギリス鉄道警察、ロンドン市警察、ロンドン交通局との合同イニシアティブ。 2014年:アリス・グロスの失踪(英語版):ロンドン警視庁は、失踪したアリス・グロスという少女を殺害した人物を捜索すべく、2005年7月7日の爆破テロ事件と2005年7月21日の爆破未遂事件(英語版)以後最大規模となる捜査を展開した。この少女が最後に目撃されたのは、2014年8月28日のグランド・ユニオン運河(英語版)でのことであった。 2017年:ウェストミンスター・テロ攻撃:ウェストミンスター橋とウェストミンスター宮殿の敷地内でテロ攻撃があった。 2017年:ロンドン橋・バラマーケット襲撃テロ:ロンドン橋とバラマーケットでテロ攻撃があった。
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