貞明皇后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/01 14:59 UTC 版)
栄典
家系
父親は九条道孝。孝明天皇の女御である英照皇太后は伯母(父の姉)にあたる。
母の野間幾子(1849-1946、二条家家臣野間頼興娘、京都生まれ)は15歳で九条家に仕え、道孝の側室として、九条道実、菊麿王妃範子、大谷籌子、節子(貞明皇后)をもうけた[82][83]。のちに中川局と呼ばれ、晩年は仏号を浄操院とした[84]。
姉・範子は山階宮菊麿王の妃。同母姉・籌子は西本願寺門主・大谷光瑞の妻。異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な九条武子である。
明治天皇とは義理の従兄妹でもある。
なお、貞明皇后を通して現在の皇室は織田氏、浅井氏、豊臣氏、徳川氏、石田三成の血を受け継いでいる(崇源院#系譜、石田三成#子女参照)。
皇子
夫の大正天皇との間に、4人の皇男子を儲けた。皇女子はなかった。
現行の皇室典範が施行された後の1947年(昭和22年)10月14日にGHQの指令によって伏見宮系の皇族と宮家が皇籍離脱した際、昭和天皇と弟宮の三男子及び各妃とその子女が皇室に留まった。大正天皇・貞明皇后夫妻は、2022年(令和4年)1月時点における皇室典範の定めるところによる皇室構成員の中で生まれながらの皇族であるもの者(徳仁・明仁・全ての親王・内親王・女王)の最近共通祖先となっている。
先述の通り、次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している[20]。
御称号及び諱・身位 | 読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 備考 | |
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迪宮裕仁親王 | みちのみや ひろひと | 1901年〈明治34年〉 4月29日 |
1989年〈昭和64年〉 1月7日(満87歳没) |
第一皇男子 (第1子) |
良子女王(久邇宮家)と結婚(→香淳皇后)。 摂政:1921年(大正10年)11月25日 – 1926年(大正15年)12月25日 昭和天皇(第124代天皇) 子女:2男5女(7人)。 |
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淳宮雍仁親王 | あつのみや やすひと | 1902年〈明治35年〉 6月25日 |
1953年〈昭和28年〉 1月4日(満50歳没) |
第二皇男子 (第2子) |
松平節子と結婚(→雍仁親王妃勢津子)。 雍仁親王(宮号:秩父宮) 子女:無し。 |
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光宮宣仁親王 | てるのみや のぶひと | 1905年〈明治38年〉 1月3日 |
1987年〈昭和62年〉 2月3日(満82歳没) |
第三皇男子 (第3子) |
徳川喜久子と結婚(→宣仁親王妃喜久子)。 宣仁親王(宮号:高松宮) 断絶した有栖川宮家の祭祀を継承。 子女:無し。 |
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澄宮崇仁親王 | すみのみや たかひと | 1915年〈大正4年〉 12月2日 |
2016年〈平成28年〉 10月27日(満100歳没) |
第四皇男子 (第4子) |
高木百合子と結婚(→崇仁親王妃百合子)。 崇仁親王(宮号:三笠宮 ) 子女:3男2女(5人)。 |
皇子及びその妃たちとの関係
「姑として、嫁の香淳皇后には何かにつけて厳しかった」という。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女子で、身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は名門公家藤原氏五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人間から考えられていた。
香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの農家に里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える竹屋津根子皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える竹屋志計子女官長は姉妹であり、「互いに言伝しにくかった」と回想している。
宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、すでに摂政となっていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)と同妃良子(香淳皇后)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった。
一方で3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃(雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がったそうである。特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年3月3日の桃の節句(雛祭り)の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。勢津子妃は、晩年の回想記『銀のボンボニエール』[85]において、そのことを「お子様4人全員が親王様(男子)であったので、毎年お楽しみにされているのでしょう」と語っている。
女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長男の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した。とはいえ決して昭和天皇との母子関係は悪くなく、「皇居内で見かけた鳥の名前について子供染みた我の張り合いをした」というエピソードもある。また第二次世界大戦時においては、戦況の悪化の中でも疎開を拒む母皇太后を気遣ったことが、昭和天皇が最後まで東京を離れなかった一因ともされる。
しかし「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」と囁かれる。貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日(6月25日)であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」とも言われる。上記の雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保の孫である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」と言われる[注釈 8]。
逸話
生涯にわたって数多くの和歌[86][87] を著し、また夫・大正天皇の影響もあり、漢詩にも取り組んだ[88]。
ハンナ・リデルのハンセン病病院回春病院を援助していたが、後にハンセン病全体に関心を持ち、らい予防協会ができ、皇后の没後寄贈された基金をもとに「藤楓協会」というハンセン病援護団体の設立となった[89]。
注釈
- ^ 明治天皇の后昭憲皇太后(一条美子)には子が無く、明治天皇もその他の側室との間に、男子が皇太子嘉仁親王以外いない状況であった。その嘉仁親王も、幼少期から健康状態が不安定だった。なお、禎子女王は山内豊景侯爵に降嫁したが、子は無い。
- ^ 華族女学校校長の細川潤次郎、同校教師の下田歌子が関与する、日比谷大神宮の内部機関[8]。
- ^ 実質的な新婚旅行として皇室ゆかりの地を訪問する習慣は、昭和天皇、上皇(明仁)、今上天皇(徳仁)をはじめ、天皇及び皇族に定着した。
- ^ この際利用した8号御料車は解体され、一部が鉄道博物館に現存する[31]。
- ^ 大規模災害に際し、まず皇室がメッセージを発信し、その後実際に被災地を訪問するというプロセスは、現代も続いているが、天皇の権威が強い大正期の方が「皇后単独で」活躍する余地が大きかった[57]。
- ^ 崩御後に大宮御所で発見された[66]。
- ^ これに伴い京都皇宮内の大宮御所は「京都大宮御所」と改称された。
- ^ 皇室ジャーナリスト河原敏明の複数の著書より
出典
- ^ 『歴代皇后125代総覧』412頁10行目
- ^ 『歴代皇后125代総覧』413頁2行目。(新人物往来社)
- ^ a b 原 2017 p.146
- ^ 原 2017 p.136
- ^ 原 2017 p.141-143
- ^ 原 2017 p.145
- ^ 原 2017 p.132-133
- ^ a b c 住友 2014 p.68
- ^ 原 2017 p.135
- ^ 原 2017 p.150
- ^ 『歴代皇后125代総覧』の413頁
- ^ 原 2017 p.150-151
- ^ 原 2017 p.151-158
- ^ 原 2017 p.161-162
- ^ 原 2017 p.163
- ^ 原 2017 p.164
- ^ 原 2017 p.164-168
- ^ 原 2017 p.168
- ^ a b 原 2017 p.170
- ^ a b 原 2017 p.174
- ^ 原 2017 p.189
- ^ 原 2017 p.184
- ^ 原 2017 p.185
- ^ 原 2017 p.193
- ^ 原 2017 p.193-194
- ^ 原 2017 p.194
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- ^ 原 2017 p.200-201
- ^ 大正5年宮内省告示第3号(『官報』第1090号、大正5年3月23日)(NDLJP:2953200/1/1)
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- ^ 原 2017 p.239-240
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- ^ 原 2017 p.241-242
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- ^ 『官報』第1903号「宮廷録事」、大正7年12月6日(NDLJP:2954017/1/3)
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- ^ 原 2017 p.267-268
- ^ 原 2017 p.270
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- ^ 大正13年宮内省告示第40号(『官報』第3676号、大正13年11月22日)(NDLJP:2955824)
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- ^ 大正15年宮内省告示第33号(『官報』号外、大正15年10月21日)(NDLJP:2956399/1/43)
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- ^ a b 原 2017 p386
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- ^ 昭和5年宮内省告示第21号(『官報』第998号、昭和5年5月1日)(NDLJP:2957465)
- ^ 原 2017 p.388
- ^ 片野真佐子『皇后の近代』、163 - 171頁。(講談社選書メチエ、2003年)
- ^ 軽井沢ニュース2013年8月9日発行 第120号(5)
- ^ 高松宮宣仁親王(朝日新聞社, 1991年)419頁
- ^ 軽井沢ニュース2013年7月12日発行 第119号(5)
- ^ 「在りし日の御日常 不幸な人々に慈しみ 御霊まいりに明け暮れ」『朝日新聞』昭和26年(1951)5月18日1面
- ^ "官報" (HTML). 国立国会図書館. 9 June 1951. p. 18. 2019年12月11日閲覧。
- ^ 「葬儀の方法 宮内庁で協議」『朝日新聞』昭和26年5月18日1面
- ^ “ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事”. 宮内庁ホームページ. 2020年3月25日閲覧。
- ^ 昭和26年法律第317号(『官報』第7488号、昭和21年12月22日)(NDLJP:2964041/1/1)
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『貞明皇后』主婦の友社, 1971、p35
- ^ 産経新聞連載 川瀬弘至「朝けの空に−貞明皇后の66年」第2回
- ^ 『歴代皇后人物系譜総覧』新人物往来社, 2002、p280
- ^ 秩父宮妃勢津子『銀のボンボニエール 親王の妃として』(主婦の友社、1991年、講談社+α文庫、1994年)
- ^ 宮内庁書陵部編『貞明皇后御歌集・御詩集』(和装本3冊組、1960年(昭和35年)、改訂版『貞明皇后御集』 2001年(平成13年))。
- ^ 『貞明皇后御歌集』(全国敬神婦人連合会編、主婦の友社、1988年(昭和63年)、解説筧素彦)
- ^ 西川泰彦『貞明皇后その御歌と御詩の世界 貞明皇后御集拝読』を参照。
- ^ 出雲井晶『天の声 小説・貞明皇后と光田健輔』を参照
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