皇子及びその妃たちとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:20 UTC 版)
「貞明皇后」の記事における「皇子及びその妃たちとの関係」の解説
「姑として、嫁の香淳皇后には何かにつけて厳しかった」という。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女子で、身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は名門公家藤原氏五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人間から考えられていた。 香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの農家に里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える竹屋津根子皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える竹屋志計子女官長は姉妹であり、「互いに言伝しにくかった」と回想している。 宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、すでに摂政となっていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)と同妃良子(香淳皇后)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった。 一方で3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃(雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がったそうである。特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年3月3日の桃の節句(雛祭り)の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。勢津子妃は、晩年の回想記『銀のボンボニエール』において、そのことを「お子様4人全員が親王様(男子)であったので、毎年お楽しみにされているのでしょう」と語っている。 女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長男の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した。とはいえ決して昭和天皇との母子関係は悪くなく、「皇居内で見かけた鳥の名前について子供染みた我の張り合いをした」というエピソードもある。また第二次世界大戦時においては、戦況の悪化の中でも疎開を拒む母皇太后を気遣ったことが、昭和天皇が最後まで東京を離れなかった一因ともされる。 しかし「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」と囁かれる。貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日(6月25日)であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」とも言われる。上記の雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保の孫である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」と言われる。
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