皇子の名の読み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
後醍醐天皇の皇子の名には、通字として「良」が用いられている。その読みは古くから「なが」「よし」の両様に読まれてきた。 江戸時代後期から第二次世界大戦までの時代には「なが」の読みが一般的であった。「なが」説の根拠は、一条兼良が著したと伝える『諱訓抄』の写本で「護良」に「モリナカ」と読み仮名が振ってあることなどがあげられる。 明治維新後の南朝忠臣顕彰の風潮に乗って、南朝関係者を祭神とする神社(建武中興十五社)が次々と建立され、明治2年(1869年)には護良親王を祀る鎌倉宮、明治5年(1872年)に宗良親王を祀る井伊谷宮、明治17年(1884年)に懐良親王を祀る八代宮、明治23年(1890年)に尊良親王を祀る(明治25年(1892年)に恒良親王を合祀)金崎宮の4つの神社が創建されたが、これらの神社では、すべて祭神名を「なが」と読むことで統一している。また、大正4年(1915年)に宮内省書陵部が職員のための内部資料として編纂した『陵墓要覧』でも、たとえば「護良親王墓」に「もりながしんのうはか」との読み仮名を振っている。 一方、大正時代の頃(1920年代)から歴史学者らの研究で「良」を「よし」と読む説が発表されていた。大正9年(1920年)には八代国治、昭和14年(1939年)には、平田俊春が、史料的根拠を示して「よし」と読むべきことを指摘している。その後「よし」説の根拠として挙げられている史料には、八代と平田が指摘したものを含め、次のようなものがある。 『諱訓抄』の写本は多く残されているが、「モリナカ」の読みを載せるものは天和元年(1681年)に写されたものが最古であり「モリナカ」の読み仮名が一条兼良の生きた室町時代まで遡れるものかどうか疑問が残る。 応安4年(1371年)に書写された「帝系図」(国立歴史民俗博物館所蔵)では「後村上院」の名を「義儀」と記してある。これは本来「儀義」であって「のりよし」と読んだものと推測される。 応永15年(1408年)に書写された「人王百代具名記」(茨城県那珂市の常福寺所蔵)では「後村上院」の名を「儀良」と記して「良」の字に「ヨシ」と振り仮名をしている。 後醍醐天皇と政権を争った光厳天皇の曾孫後崇光院自筆の『増鏡』の写本(尊経閣文庫所蔵)では「世良」に「ヨヨシ」「尊良」に「タカヨシ」と振り仮名をしている。 永正年間(1510年前後)に書写された『増鏡』の写本(学習院大学付属図書館所蔵)では「尊良」の名を平仮名で「たかよし」と書いている。 江戸時代初期に書写された『保暦間記』の一写本(内閣文庫所蔵)では「成良」の名を片仮名で「ナリヨシ」と書いている。 寛永初年(1625年前後)に書写された『神皇正統記』の写本(青蓮院本。天理図書館所蔵)では「護良」に「モリヨシ」と振り仮名をしている。 以上の論拠から、戦後の歴史学界においては、「よし」と読んでいたとの説が大勢となっている。各種書籍における記載もこれを反映したものが多い。 代表的な歴史百科事典である『国史大辞典』(吉川弘文館)において、たとえば護良親王の項目では、「もりよししんのう」で記事を立てて解説を記し、「もりながしんのう」の項には「⇒もりよししんのう」と記載している。 平成20年度(2008年度)現在、高等学校の日本史B(高校の日本史の授業には、近現代史のみを扱うAと、古代から現代までの通史を扱うBとがある)の教科書で、文部科学省の検定に合格しているものは11種ある。後醍醐天皇の皇子で、そのすべてに登場しているのは護良親王と懐良親王の2人であるが、11種とも「もりよし」「かねよし」の表記がなされている。そのうち、11種のうち6種は「もりなが」「かねなが」の読みも括弧書きなどにより併記されている。系図などに記されるほかの皇子たちの名の扱いも同様である。
※この「皇子の名の読み」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「皇子の名の読み」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。
- 皇子の名の読みのページへのリンク