皇妃たちとは? わかりやすく解説

皇妃たち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 08:42 UTC 版)

イヴァン4世」の記事における「皇妃たち」の解説

イヴァン4世生涯に7回結婚した一説には8回)。これは多くの妻を持ったことで有名なヘンリー8世の6回を上回る数である。 アナスタシヤ・ロマノヴナ・ザハーリナ(婚姻期間1547年 - 1560年 / 死別イヴァン4世との間に3男3女をもうけ、うち次男イヴァン三男フョードル1世2人成人したイヴァン4世が最も深く愛した妻だったと言われる。彼女との結婚は、ロマノフ家がのちにツァーリとなる道を開いたマリヤ・テムリュコヴナ婚姻期間1561年 - 1569年 / 死別イスラーム信仰するチェルケス王族の娘で、受洗前の名はクチェニェイ。 イヴァン4世との間に四男ヴァシーリー1563年3月21日 - 1563年5月3日)を儲けたが、生後1ヶ月夭折したマルファ・ソバーキナ婚姻期間1571年 / 死別ノヴゴロド商人娘。わずか結婚16日目に急死した子女無しアンナ・コルトフスカヤ婚姻期間1572年 - 1575年 / 離別正教会禁じ4度目結婚あたったが、イヴァン4世前妻との婚姻不成立主張し無理に合法化した。不妊理由修道院入れられた。子女無しアンナ・ヴァシリチコヴァ婚姻期間1575年 - 1577年 / 死別)この結婚以降教会法抵触するため、教会祝福与えず私通見なした。 ヴァシリーサ・メレンティエヴァ婚姻期間1577年 - 1580年 / 離別リヴォニア戦争で夫を亡くした下級貴族の妻だった。不貞明るみ出て修道院入れられた。子女無しマリヤ・ナガヤ婚姻期間1580年 - 1584年 / 1608年没)イヴァン4世の死の2年前に五男で末子となる皇子ドミトリー産んだが、教会法では庶子と見なされたドミトリー8歳謎の死遂げたが、動乱時代皇子ドミトリー騙る実力者次々現れると、マリヤ偽ドミトリー1世偽ドミトリー2世本物息子宣言し、彼らの庇護下に入った。 またイヴァン4世イングランドとの友好期待をかけ、1582年に妻のいる身でエリザベス1世イングランド王族との結婚打診したロシア使節白羽の矢立てたのはハンティンドン伯爵英語版)の末娘レディ・メアリー・ヘイスティングス(マーガレット・ポール曾孫)だったが、エリザベス女王はこの縁談進めようとせず、翌1583年には破談とした。イヴァン4世イングランド貿易相手国としてだけでなく、失脚した時の亡命先にしようと考えていた。

※この「皇妃たち」の解説は、「イヴァン4世」の解説の一部です。
「皇妃たち」を含む「イヴァン4世」の記事については、「イヴァン4世」の概要を参照ください。

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