皇女・皇姉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 17:35 UTC 版)
元文5年(1740年)、桜町天皇と、その正妻女御舎子(のちの青綺門院)の間の嫡出腹の皇女として生まれた。舎子には皇子がなく、典侍定子(姉小路実武の娘)が生んだ皇子・八穂宮(のち茶地宮、遐仁親王、桃園天皇)が、舎子の「実子」として迎えられ、その御所で育てられた。 延享4年(1747年)、父桜町天皇の譲りを受けて異母弟の遐仁親王(桃園天皇)が即位。寛延3年(1750年)3月、11歳となった緋宮に内親王宣下があり「智子」と名付けられたが、翌月に父桜町上皇が崩御した。これにより、母の舎子は10歳の幼い天皇を「実母」として後見する立場となった。同年10月、幕府より青綺門院舎子に1000石の御料増地があり、あわせて智子内親王に300石の御料進献があった。成人前の皇女へ所領が進献されることは稀であり、朝廷は智子内親王を比丘尼御所に入寺させることは考えていなかったようである。
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