桜田門外の変 経過

桜田門外の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 09:15 UTC 版)

経過

外桜田門と彦根藩邸の距離は600m

安政5年(1858年4月、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題日米修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。

まず、病弱で世子が見込めない第13代将軍徳川家定の後継をめぐって、南紀派会津藩主・松平容保高松藩主・松平頼胤ら、溜間詰の大名を中心とした一派)と一橋派(前水戸藩主・徳川斉昭福井藩主・松平慶永ら、大広間や大廊下の大名を中心とした一派)が争った将軍継嗣問題があった。数年前の嘉永6年(1853年)に起きていた黒船来航など対外危機[注釈 2]を慮った一橋派は、英明で知られた当時21歳の一橋慶喜を推挙していたが[注釈 3]、それに対し南紀派は、家定の従弟で当時12歳の紀州藩主・徳川慶福を推し、結局、慶福が養子と決められた。これは血縁を重視する慣例と現将軍・家定の内意[注釈 4]に沿い、直弼を大老に推した南紀派を満足させたが、「時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい」とした朝廷の意に反するものであった。

もう一つの懸案である修好通商条約の締結については、孝明天皇の勅許が得られず、攘夷派の反対論が勢いを増していた。直弼は基本的には無勅許条約調印に反対であったが、止むを得ない場合調印してよいかとの下田奉行井上清直の問いに、その際は仕方がないと許可している。そこで、早期締結要求も強まる中、清直らは同年6月19日、勅許を得ないままに日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った。これは、そもそも「鎖国」は朝廷とは無関係に始められたものであり、慣例上、条約締結に勅許は必ずしも必要ではなかったからである。

6月22日、諸大名に条約の締結が公表され、翌23日御三卿による将軍への公式な面会日だったため一橋慶喜が登城し、条約締結を違勅として直弼を詰問した。さらに、翌24日に徳川斉昭をはじめ、斉昭の長男の水戸藩主・徳川慶篤、一橋派であった尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永が、規則外の不時登城を行って無勅許の条約締結を違勅と非難した。直弼は慶永一人を身分が違うから、と別室に移して気勢を削ぎ、他の諸侯の詰問へは平身低頭を繰り返した。翌25日、慶福が将軍・家定の養子と発表された。7月5日、家定の命として、登城した一橋派諸侯へ処分が下される。その直後、6日に家定が没し、慶福は第14代将軍となり家茂を名乗った。

ここに一橋派は江戸城内での活動を制限されたが、一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は、かねて藩士・西郷隆盛京都に遣わして内勅降下運動を行い、藩兵5,000人[6]を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、7月16日、斉彬は死去した。

勅許を得ない条約調印と斉昭・春嶽の排斥は、攘夷論の強かった公家たちに喧伝され、孝明天皇も幕府の行いに対し憤慨した。天皇は、同年8月、幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ下した。また、幕府寄りとされた関白九条尚忠内覧を解いて朝政から遠ざけた[注釈 5]。水戸藩は密勅の写しを雄藩に廻送する様に添書きで指示を受けていたが、藩内抗争の激化により、廻送することがかなわず、攘夷派公家を通して縁戚の諸大名へは廻されたものの、幕府権威がいまだに強かった当時、各藩は関わりを恐れ相手にしなかった。しかし、朝廷が幕府を介さずに大名へ直接指令するという事態は、江戸幕府開闢以来前代未聞であったため、幕閣は狼狽した。

直弼は、密勅が天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、反論者への徹底弾圧を決心した。まず、老中に再任させた間部詮勝を京都に送り、新たに京都所司代に任命した酒井忠義にこれを補佐させた。間部は、着京後、即日密勅首謀者として水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門幸吉父子の京都西町奉行所への出頭を命じて捕縛しつつ、対朝廷では、 態度不鮮明のまま「病臥」と称して参内を延期し、長野主膳島田左近と連日協議した。これは、先年、入洛早々に参内して条約勅許の獲得に失敗した老中・堀田正睦の轍を踏まぬため、十分な準備を図って慎重に行動したものである。詮勝は、直弼の指示を受けて、一橋派らと関係を深めていた公卿の家人たちを捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、幕政を批判する政治運動に関わった諸藩の藩士を捕らえていった。いわゆる安政の大獄である。一方で、孝明天皇は、いずれは鎖国に復帰するという条件のもとで、条約調印が切羽詰まった措置であったという直弼の弁明に一通りの理解を内々に示した。朝廷内も「公武一和」のため幕府の行いを認めたことで、幕府に批判的な一派は勢いを挫かれた。しかしこの時、朝廷との折衝に当たった詮勝は再攘夷の準備段階と説明したため、幕閣はこの内容を公表し辛くなった[7]。他方、直弼による粛清対象は日を追うごとに増加し、皇族公家大臣僧侶藩主幕臣浪人学者名主町人等々に及んでいき、最終的に安政の大獄へ関係して罪を得た者、または社会的に失脚、迫害された者は100名以上にのぼった。

水戸では、密勅への対応をめぐって藩論は紛糾した。返納阻止派の藩士らは、密勅の下された安政5年の9月、街道の本陣のある小金宿 [注釈 6]に結集し、武装した農民部隊まで加わった(第一次小金屯集)。この屯集が収まりを見せる頃、直弼による安政の大獄は本格的になり、京都では密勅降下に関わった鵜飼吉左衛門父子らが拘禁された。やがて江戸表でも家老安島帯刀ら水戸藩改革派の重鎮が拘禁され、これに反発した水戸藩士民は、安政6年(1859年5月、再び小金宿等に屯集した(第二次小金屯集)。一方、水戸藩士金子孫二郎は、高橋多一郎と計り関鉄之助、矢野長九郎、住谷寅之介らを西へ向かわせ、密勅の写しを諸藩へ回達させようとした。彼らは西南雄藩との連合を目指し、数か月間に渡り諸藩を遠遊した。また、弘道館内の鹿島神社神官・斎藤監物も神官3名を西国へ向かわせ、諸国神官職の者達へその写しを回覧させた[8]8月27日夜半、水戸藩関係者への刑が執行された。水戸藩家老安嶋帯刀を切腹、水戸藩奥祐筆茅根伊予之介、水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門を斬首、水戸藩京都留守居役助役鵜飼幸吉を獄門に処する等、御三家の家老格重鎮への処分としては、異例のものであった。また、前水戸藩主・徳川斉昭は国許の水戸に永蟄居処分を受けた。さらに、幕政から『戊午の密勅』の朝廷への返還を求められ、主君の処分解除のためには、水戸藩は幕府へ恭順を示さねばならなくなった。しかし、断固返納反対の立場をとる藩士らの勢いも止まず、藩内の膠着状態となった。幕府は自ら返還を促す勅命の草案を作って天皇の同意を得る方針に転換し、12月、藩主・徳川慶篤に勅書返納の朝旨を伝達した。水戸藩庁では斉昭・慶篤間での協議により返納論が主流となりつつあったが、密勅返納阻止の運動は却って激化した。返納反対派は密かに密勅が運ばれることを警戒し、藩境の長岡[注釈 7]で集まり水戸街道を封鎖して返納に抵抗した(長岡屯集)。安政7年(1860年)1月15日、幕閣は江戸城へ登った慶篤に対し、重ねて密勅の返納を催促、同年1月25日を期限とし、もし遅延したら違勅の罪として同藩を改易する可能性まで述べた[9]。慶篤は返納に肯定的であったが、水戸藩内の返納反対論者の勢いは強く、幕府に猶予を願い出続けた。水戸で永蟄居中の斉昭は事態を危惧し、密勅を水戸城内の祖廟の元へ納めさせ、またさらに水戸より六里(約23.56キロメートル)北で、歴代藩主の墓のある瑞龍山の廟へ移した。2月14日、返納容認論者の藩士・久木直次郎が江戸で、夜半何者かに襲撃された。また2月18日、水戸城下の魂消橋で、返納反対派の藩士と容認派の藩屏が衝突、負傷者を出し、水戸城下は騒ぎとなった。2月24日、藩士・斎藤留次郎が水戸城・大広間で割腹自殺したため、返納は延期された[注釈 8][10]。長岡屯集は、水戸藩上層部からの工作により懐柔されたことと、活動の主要人物の一部が直弼暗殺計画のため江戸へ移って地下に潜行したことにより解散した。

一方、以前より尊攘激派の藩士・高橋多一郎金子孫二郎らと、薩摩藩の在府組である有村次左衛門らは、双方の藩に仕えた日下部伊三治 (大獄により獄死)を介して結合を維持していた。この水戸藩士に薩摩藩士を加えた攘夷激派は、江戸での井伊大老への襲撃と同時期に、薩摩藩主・島津斉彬が率兵上京により天皇の勅書を得、それにより幕政を是正しようと図った[11]。しかし、薩摩藩では斉彬及び斉興の死後に実権を握った島津久光が、江戸での大老襲撃を黙認しつつも、自藩の直接関与を抑制する方策をとった。久光の息子である藩主・島津茂久が、直書で志士の「精忠」を賞賛するとともに、後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという異例の対応で、攘夷激派を沈静化させた。ここに率兵上京の計画は頓挫した。しかし、薩摩藩から尊攘急進派の水戸藩士らへこの事は知らされなかった[要出典][注釈 9]

しかし、幕政是正のためには大老井伊直弼の排除が不可欠と考えた尊王攘夷急進派の水戸藩士達は、単独でも実行する方針を固め、直弼暗殺計画の準備を進めていた[注釈 10]


注釈

  1. ^ ただし、本画像では両端が一部しか掲載されていない。
  2. ^ 中国)では既に阿片戦争が1840年から2年後まで行われ、不平等条約を欧米列強と結ばされていた。
  3. ^ 徳川斉昭の七男。御三卿一橋家へ養子に入り、当主となっていた。慶喜自身は将軍家襲封に乗り気ではなかったとされ、「骨が折れるので、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうが大きく勝っている」という内容の手紙を父・斉昭へ送っていた(徳川ミュージアム蔵))。徳川慶喜の項を参照。
  4. ^ 家定は病弱で知能障害の説もあるが、松平春嶽が家定を酷評しているのに対し、井伊直弼は「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」としており、将軍継嗣問題の煽りで暗愚と評されたとの説もある[4]
  5. ^ 関白を辞めさせるには幕府の了解が必要とされる。江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度によった。
  6. ^ 千葉県松戸市小金。
  7. ^ 茨城町長岡。
  8. ^ その後、桜田門外の変が起きて密勅は水戸藩領内に留まった。
  9. ^ 後に、この約のもと上京した水戸浪士らは孤立した形となった。さらに、事件後の水戸浪士・関鉄之助が薩摩藩へ向かった折、薩摩入藩を拒否された。薩摩藩・精忠組の一部はこれに一時反発した。
  10. ^ この水戸藩士単独決行の考えは、『斬奸趣意書』の中にも見られる。
  11. ^ 茨城県水戸市紺屋町
  12. ^ これら数名は後から江戸に出て襲撃に加わる手筈であり、道路梗塞もあって江戸へやって来た者が少数となったという[12]
  13. ^ 安藤信正は直弼の側近として安政の大獄の片棒を担いでいたので、攘夷志士から奸賊と見做されていた。安藤は水戸藩士から後に坂下門外の変で襲撃された。
  14. ^ a b 高松松平家彦根井伊家と共に江戸城溜間詰の大名であり、頼胤は直弼と思想的な親交もあったため、条約調印問題や将軍継嗣問題ではどちらも南紀派についた。一方で、高松松平家は水戸徳川家御連枝であり、加えて前藩主・松平頼恕徳川斉昭の異母兄、頼胤の養嗣子・頼聰はその頼恕の実子であった。頼聰は直弼の娘・弥千代と結婚し、水戸藩士らの不評を買っていた。なお、安政の大獄の際、頼胤は本家(水戸家)を監督できなかったとして譴責を受けている。
  15. ^ ただし、前述の様、薩摩藩による京都義挙計画は破綻していた。
  16. ^ 現在の憲政記念館辺り。
  17. ^ 現在の警視庁辺り。
  18. ^ 十八士に、水戸藩士・畑弥平を含む19名。但し一説に、金子、有村、増子は欠席したとされる[16]
  19. ^ 東京都品川区北品川。
  20. ^ 海後の述懐によれば、雪も早く消え、明治時代絵草紙で見るような大雪ではなかったと云う[15]
  21. ^ 18名の他、水戸脱藩浪士の畑弥平も随行した。畑は品川の旅籠に待機していた水戸藩士・金子孫次郎と、国許の水戸藩庁へ現場の様子を事変後報せた[18]
  22. ^ 現在の憲政記念館・国会前庭(北庭)付近。
  23. ^ 事件当日の朝、老中・脇坂安宅が特に直弼邸へ出向き警告を与えたという[21]
  24. ^ 漫画家・みなもと太郎が『風雲児たち 幕末篇』で指摘しているように「刀の柄袋を外させる」「門前に見張りを立てる」位のことは批判されない範囲で可能であり、要するに井伊直弼は警告を本気にしてはいなかったとされる。一方で、直弼の戒名は自ら生前考えていたもので[22]、直弼は既に死を覚悟していた可能性がある。
  25. ^ 現在の桜田門交差点。
  26. ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。十八浪士の一人・杉山弥一郎は鉄砲鍛冶であり、この模倣技術との深い関わりについて、今後の研究結果が待たれる。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、実際に発砲したものかは定かではないが、このピストルは現物が出現し、そこには高度な施条が刻まれていた。この銃はGHQによって没収された後アメリカに渡り、日本に里帰りしている。コルトM1851の項を参照。
  27. ^ 井伊家中間が、後に語った事によれば、中間は彦根藩の大名行列60名の駕籠後方で馬を引いていたが、「殿様の駕籠へ何者かが、刀を抜き数人斬りかかって、その勢いの烈しく怖ろしい事は言い様もない。駕籠の内か外かは分からないが大音声が一声して、警護の者は八方へさっと逃げ去って、抜き合う士もいないように見えた」ため、馬を引いて直弼邸へ戻ったとしている[26]
  28. ^ その時の永田の刀が、子孫の永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
  29. ^ 水戸浪士・黒澤の刀は奮闘により鋸状になり、その記録を自訴後にとったが[28]、岩崎英重は、黒澤が先に発砲していたため、特に彦根藩士から狙われ悪戦したのではないか、としている[29]
  30. ^ 一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に描かれている。
  31. ^ 2014年現在の警視庁辺り。
  32. ^ 城門のすぐそばを血で汚したままにはできない上に、登城のため通過待ちをしている大名家がいたため。
  33. ^ 山川菊栄は、この遠藤家の皮肉な仕打ちは平生から癪に障っていた譜代大名筆頭25万石の大老が道端で首をかかれた醜態に溜飲を下げ、旗本8万騎の誇りを全うしたつもりだったろう、としている[32]
  34. ^ この時点では公式には「井伊直弼は負傷して治療中で且つ存命」ということになっており、首を渡すとなると「直弼は既に死んでいる」ということになってしまうため。
  35. ^ 和田倉濠(和田倉噴水記念公園)辺り。
  36. ^ 現在の皇居(旧江戸城)・大手門交差点辺り。
  37. ^ 東京都千代田区丸の内2丁目、丸の内二丁目ビル際辺り。
  38. ^ 織田家からの届けによると、山口は「左の後ろから首が落ちかかり、左腕も切れかかり、二の腕も落ちかかり、そのほか数か所の傷」があった[34]
  39. ^ 東京都千代田区丸の内1丁目3辺り。
  40. ^ 東京都千代田区丸の内1丁目6辺り。
  41. ^ 佐渡から能登へ、後に越後ともいう[36]
  42. ^ 現在の新潟県岩船郡関川村南魚沼郡湯沢町越後湯沢温泉とは異なる。
  43. ^ 現在の城里町
  44. ^ 昭和10年、増子の孫によって『桜田烈士増子金八事大畠誠三郎略伝』が出版された。
  45. ^ 現在の常陸大宮市
  46. ^ この薬用人参は松江藩朝鮮から密輸入し、同藩が専売していたものだろうという[20]
  47. ^ なお、生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
  48. ^ 靖国神社には幕末維新に関係した祭神約4200柱が祀られているが、このうち1420柱、約3割を水戸藩士のものが占めている[45]
  49. ^ 水戸市と敦賀市が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだのは、水戸と彦根の和解から約4年前の1965年(昭和40年)4月30日だった[46]
  50. ^ 彦根市と高松市は、水戸と高松を仲介した日から約8年前の1966年(昭和41年)8月15日に親善都市提携があった[47]
  51. ^ 直弼狙撃の実行犯である新説あり[49]
  52. ^ 市五郎は誤記とされる[50]

出典

  1. ^ 『麹町永田町 外桜田絵図』(尾張屋清七版)
  2. ^ 『江戸散歩』東京大学史料編纂所(角川書店、2016年)52~55ページ
  3. ^ 『近世日本国民史 桜田事変』徳富 蘇峰
  4. ^ 畑尚子『幕末の大奥ー天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年)
  5. ^ a b c 岡村 2012, p.122
  6. ^ 一説に3,000人[5]
  7. ^ 井伊直弼と開国150年祭公式サイト 幕末の政局と井伊直弼”. 井伊直弼と開国150年祭実行委員会. 2014年4月。閲覧。
  8. ^ 岩崎 1911, p.55
  9. ^ 吉田 1985, p.381
  10. ^ 岡村 2012, p.121
  11. ^ 岩崎 1911, p.39
  12. ^ 岩崎 1911, p.42
  13. ^ 岩崎 1911, pp.46-47
  14. ^ a b c d e f 岡村 2012, p.123
  15. ^ a b 山川 1991, p.264
  16. ^ a b c d 岡村 2012, p.124
  17. ^ 岡村 2012, pp.124-125
  18. ^ a b c 岡村 2012, pp.126-127
  19. ^ 岡村 2012, pp.125-127
  20. ^ a b 岩崎 1911, p.179
  21. ^ 山川 1991, p.267
  22. ^ 吉田 1985, [要ページ番号]
  23. ^ 吉田 1984, p. 386.
  24. ^ 吉田 1984, p. 387.
  25. ^ a b 岡村 2012, p.126
  26. ^ 広島県立歴史博物館所蔵『骨董録』より。
  27. ^ 「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録‐読売新聞関西版2010年7月11日付(同日閲覧)
  28. ^ 岩崎 1911, p.270
  29. ^ 岩崎 1911, p.317
  30. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、稲田重蔵、2014年4月閲覧。
  31. ^ 菊地明『幕末証言 史談会速記録を読む』(2017年)
  32. ^ a b 山川 1991, p.265
  33. ^ 宮澤 1993, [要ページ番号]
  34. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、山口辰之介、2014年5月閲覧。
  35. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、岡部三十郎。2014年5月閲覧
  36. ^ 岩崎 1911, p.322
  37. ^ 岩崎 1911, p.323
  38. ^ 岡村 2012, p.128
  39. ^ 岩崎 1911, p.301
  40. ^ 岩崎 1911, pp.310-315
  41. ^ 山川 1991, p.263
  42. ^ 日刊ゲンダイ2023年6月13日号12面
  43. ^ 『明治史要』巻十三(明治12年)54ページ
  44. ^ 岡村 2012, p.127
  45. ^ 岡村 2012, p.159
  46. ^ 水戸市、都市交流、2021年4月19日閲覧。水戸市、敦賀市、姉妹都市交流50周年、2021年4月19日閲覧。
  47. ^ 水戸市、都市交流、2013年3月20日閲覧。彦根市、彦根市について、2013年3月20日閲覧。
  48. ^ 桜田門外の変が争点?…襲撃の子孫が市長選に
  49. ^ NHK『歴史秘話ヒストリア』2015年3月4日放送「銃声とともに 桜は散った〜「桜田門外の変」の謎〜」より。
  50. ^ 岩崎 1911, p.123
  51. ^ 慵斎野処士墓碑銘『近世土浦小史』柳沢鶴吉 著 (常南通信社, 1906)
  52. ^ タウンニュース「桜田門外」裏面史刻む廣福寺・畑権助の辞世碑
  53. ^ 山本秋広『水戸徳川家と幕末の烈公』紀山文集 第三巻(1968年)
  54. ^ 網代茂『水戸綺談』新いばらきタイムス社、1992年。
  55. ^ 『これが水戸黄門だ!』日之出出版、2003年11月19日。久野勝弥「井伊大老首級始末異聞」(『郷土文化』第45号、2004年3月31日)。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
  56. ^ 滋賀彦根新聞、2012年6月8日付け、豪徳寺の墓に井伊直弼埋葬されず? 地下3㍍に石室なく、滋賀彦根新聞社、2014年5月閲覧。






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