桜田門外の変
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現代の出来事
親善都市提携
桜田門外の変で敵対した両藩の城下町である水戸と彦根が和解して親善都市提携を結んだのは、事件発生から約109年後の昭和43年(1968年)10月29日であった。水戸市から彦根市へは偕楽園の梅、彦根市から水戸市へは彦根城堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、直弼の曾孫にあたる井伊家の当主で殿様市長として知られた井伊直愛だった。水戸市と彦根市を仲介したのは敦賀市[注釈 49]だったが、敦賀は水戸天狗党が彦根藩士から処刑された土地だった。
その後の昭和49年(1974年)4月13日、水戸市と高松市が、今度は彦根市の仲介で親善都市を提携した[注釈 14][注釈 50]。
市長選挙での争点化
平成25年(2013年)4月の彦根市長選挙において、当時現職の獅山向洋市長は、対立候補の一人の有村國知が有村次左衛門の弟の子孫であることを指摘し、そのような人物が市長選挙に出馬することは容認出来ないと主張するビラを支持団体に配布させた上、選挙の争点として訴え続けた。この行動に対しては有村だけでなく、もう一人の対立候補で獅山を破って当選した大久保貴、また市民からも批判を浴びている[43]。
関連人物
襲撃者
- 関鉄之介(水戸浪士。現場総指揮。斬り合い不参加、京に向かい諸国潜伏の後捕縛、文久2年(1862年)斬罪。享年39)
- 岡部三十郎忠吉(水戸浪士。検視見届役。斬り合い不参加、京に向かい諸国潜伏の後捕縛、文久元年(1861年)斬罪。享年44)
- 稲田重蔵正辰(水戸浪士。闘死。享年47)
- 山口辰之介正(水戸浪士。重傷負い自刃。享年29)
- 鯉淵要人珍陳(常陸神官。重傷負い自刃。享年51)
- 広岡子之次郎則頼(水戸浪士。重傷負い自刃。享年20)
- 佐野竹之助光明(小普譜。自首後、傷により死亡。享年21)
- 斎藤監物一徳(常陸神官。自訴後、傷により死亡。享年39)
- 黒澤忠三郎勝算(水戸浪士。自訴後、病死。享年33)
- 大関和七郎増美(水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年26)
- 森五六郎直長(水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年24)[注釈 51]
- 蓮田一五郎正実[注釈 52](水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年29)
- 森山繁之介政徳(水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年27)
- 杉山弥一郎当人(水戸浪士。自訴後、文久元年(1861年)斬首刑。享年38)
- 広木松之介有良(水戸浪士。2度西へ向かった後、文久2年(1862年)鎌倉・上行寺墓地で自刃。享年25)
- 海後磋磯之介宗親(常陸神官。潜伏後、菊池剛蔵と改名。天狗党の乱に参加、維新後警視庁・水戸県警察本部勤務。明治36年(1903年)没。享年76)
- 増子金八誠(水戸浪士。京へ向かった後各地に潜伏し、1881年(明治14年)没。享年59)
- 有村次左衛門兼清(薩摩浪士。重傷負い自刃。享年23)
彦根藩側の人物
- 死亡
- 井伊掃部頭直弼(大老。彦根藩35万石藩主。享年46)
- 岩崎徳之進重光(伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡)
- 小河原秀之丞宗親(小姓。負傷、帰邸後死亡。享年30)
- 加田九郎太包種(騎馬徒士。闘死。享年31)
- 河西忠左衛門良敬(剣豪。闘死。享年30)
- 日下部三郎右衛門令立(物頭。負傷、藩邸で死亡。享年39)
- 越石源次郎満敬(負傷、帰邸後死亡)
- 沢村軍六之文(闘死)
- 永田太郎兵衛正備(闘死)
- 重傷
- 文久2年(1862年)下野佐野に配流処分
- 片桐権之丞
- 桜居猪三郎
- 柏原徳之進
- 草刈鍬五郎
- 松居貞之進
- 萩原吉次郎
- 政右衛門
- 勝五郎
- 軽傷
- 帰邸のため入獄、文久2年(1862年)切腹処分
- 藤田忠蔵
- 水谷求馬
- 元持甚之丞
- 渡辺恭太
- 吉田太助
- 無疵
- 帰邸のため入獄、文久2年(1862年)斬首
- 朝比奈三郎八
- 朝比奈文之進
- 小幡又八郎
- 小島新太郎
- 長野十之丞
襲撃に関与した人物
- 金子孫二郎教孝(水戸浪士。郡奉行。首謀者。京への途上伊勢四日市にて捕縛、文久元年(1861年)斬罪。享年58)
- 高橋多一郎愛諸(水戸浪士。小姓頭取、矢倉奉行。首謀者。大坂にて自刃。享年47)
- 高橋庄左衛門諸恵(多一郎の長男。大坂にて自刃。享年19)
- 有村雄助兼武(薩摩浪士。次左衛門の兄。薩摩藩とのパイプ役。金子・佐藤と共に京に上る途上、薩摩藩兵により捕縛。切腹。享年26)
- 佐藤鉄三郎寛(水戸浪士。金子と共に伊勢四日市にて捕縛。追放刑。後に『佐寛筆記』を記した。1915年(大正4年)没。享年80)
- 川崎孫四郎健幹(水戸浪士。郡吏。大坂で連絡係。自刃。享年35)
- 小室治作(高橋に随行、自刃)
- 大貫多介則光(高橋に随行、捕縛後獄死。享年26)
- 山崎猟蔵恭礼(薩摩藩士との連絡役、捕縛後絶食死。享年33)
- 島男也竜雄(笠間藩士。高橋に随行、捕縛後1861年獄死。享年53)
- 小野寺慵斎(三春藩脱藩者。参謀の一人。変後の1860年5月より土浦藩で兵学を教えていたが1861年自刃。享年70)[46]
- 宮田瀬兵衛(水戸藩士。変後に一味だと熊本藩 細川邸へに自訴、獄死。享年47)
- 木村権之衛門(水戸藩士。計画に参加、江戸で薩摩藩との連絡役。変には直接参加せず帰藩した。文久3年(1863年)3月26日死去。享年40)
その他の人物
- 飯田左馬忠彦(国学者。同事件への関与を疑われて囚われたために抗議自殺した。享年62)
- 滝本いの(関鉄之介の愛人。元吉原谷本楼の妓。鉄之介の潜伏の手助けをした。鉄之介を追う幕吏に捕らえられ伝馬町牢で拷問後、獄死。享年23)
- 佐久良東雄良哉(京都妙法院の武士。高橋多一郎・庄左衛門を匿ったため捕縛、絶食死。享年50)
- 後藤権五郎輝(水戸藩郷士。変には関わっていないが元一味。広木松之介を名乗って自首。文久2年(1862年)江戸・伝馬町の牢で獄中死。享年32)
碑・塚・墓
- 茨城県東茨城郡茨城町長岡には、水戸藩士らが襲撃を期して江戸に向かう際に髪を埋めた「水戸浪士の毛塚」、及び「桜田烈士記念碑」がある。
- 常磐共有墓地(茨城県水戸市)には関鉄之介以下9人の水戸浪士の墓がある。
- 妙雲寺(茨城県水戸市)には水戸浪士・広木松之介の墓があり、井伊直弼の首を広木が持ち帰ったという言い伝えから「井伊掃部守直弼台霊塔」がある(後述)。
- 愛宕神社(東京都港区愛宕)境内には、「桜田烈士愛宕山遺跡碑」がある。
- 南千住回向院(東京都荒川区南千住)には、刑死した水戸浪士の墓と、滝本いのの顕彰碑がある。
- 豪徳寺(東京都世田谷区豪徳寺)には、井伊護衛のため殉職した彦根藩士8人の「桜田殉難八士之碑」がある。
- 四天王寺(大阪府大阪市天王寺区四天王寺)には、高橋多一郎、庄左衛門親子の顕彰碑がある。
- 生國魂神社(大阪府大阪市天王寺区生玉町)には、川崎孫四郎自刃の碑がある。
- 廣福寺(神奈川県川崎市多摩区)には、桜田門外の変に遭遇し逃げ延び、のちに寺男となった彦根藩士「畑権助の辞世碑」がある[47]。
注釈
- ^ ただし、本画像では両端が一部しか掲載されていない。
- ^ 中国(清)では既に阿片戦争が1840年から2年後まで行われ、不平等条約を欧米列強と結ばされていた。
- ^ 徳川斉昭の七男。御三卿・一橋家へ養子、当主となっていた。慶喜自身は将軍家襲封に乗り気ではなかったとされ、「骨が折れるので、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうが大きく勝っている」という内容の手紙を父・斉昭へ送っていた(彰考館徳川博物館蔵))。徳川慶喜の項を参照。
- ^ 家定は病弱で知能障害の説もあるが、松平春嶽が家定を酷評しているのに対し、井伊直弼は「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」としており、将軍継嗣問題の煽りで暗愚と評されたとの説もある[1]。
- ^ 関白を辞めさせるには幕府の了解が必要とされる。江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度によった。
- ^ 千葉県松戸市小金。
- ^ 茨城町長岡。
- ^ その後、桜田門外の変が起きて密勅は水戸藩領内に留まった。
- ^ 後に、この約のもと上京した水戸浪士らは孤立した形となった。さらに、事件後の水戸浪士・関鉄之助が薩摩藩へ向かった折、薩摩入藩を拒否された。薩摩藩・精忠組の一部はこれに一時反発した。
- ^ この水戸藩士単独決行の考えは、『斬奸趣意書』の中にも見られる。
- ^ 茨城県水戸市紺屋町。
- ^ これら数名は後から江戸に出て襲撃に加わる手筈であり、道路梗塞もあって江戸へやって来た者が少数となったという[9]。
- ^ 安藤信正は直弼の側近として安政の大獄の片棒を担いでいたので、攘夷志士から奸賊と見做されていた。安藤は水戸藩士から後に坂下門外の変で襲撃された。
- ^ a b 高松松平家は彦根井伊家と共に江戸城溜間詰の大名であり、頼胤は直弼と思想的な親交もあったため、条約調印問題や将軍継嗣問題ではどちらも南紀派についた。一方で、高松松平家は水戸徳川家の御連枝であり、加えて前藩主・松平頼恕は徳川斉昭の異母兄、頼胤の養嗣子・頼聰はその頼恕の実子であった。頼聰は直弼の娘・弥千代と結婚し、水戸藩士らの不評を買っていた。なお、安政の大獄の際、頼胤は本家(水戸家)を監督できなかったとして譴責を受けている。
- ^ ただし、前述の様、薩摩藩による京都義挙計画は破綻していた。
- ^ 現在の憲政記念館辺り。
- ^ 現在の警視庁辺り。
- ^ 十八士に、水戸藩士・畑弥平を含む19名。但し一説に、金子、有村、増子は欠席したとされる[13]。
- ^ 東京都品川区北品川。
- ^ 海後の述懐によれば、雪も早く消え、明治時代の絵草紙で見るような大雪ではなかったと云う[12]。
- ^ 18名の他、水戸脱藩浪士の畑弥平も随行した。畑は品川の旅籠に待機していた水戸藩士・金子孫次郎と、国許の水戸藩庁へ現場の様子を事変後報せた[15]。
- ^ 現在の憲政記念館・国会前庭(北庭)付近。
- ^ 事件当日の朝、老中・脇坂安宅が特に直弼邸へ出向き警告を与えたという[18]。
- ^ 漫画家・みなもと太郎が『風雲児たち 幕末篇』で指摘しているように「刀の柄袋を外させる」「門前に見張りを立てる」位のことは批判されない範囲で可能であり、要するに井伊直弼は警告を本気にしてはいなかったとされる。一方で、直弼の戒名は自ら生前考えていたもので[19]、直弼は既に死を覚悟していた可能性がある。
- ^ 現在の桜田門交差点。
- ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。十八浪士の一人・杉山弥一郎は鉄砲鍛冶であり、この模倣技術との深い関わりについて、今後の研究結果が待たれる。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、実際に発砲したものかは定かではないが、このピストルは現物が出現し、そこには高度な施条が刻まれていた。この銃はGHQによって没収された後アメリカに渡り、日本に里帰りしている。コルトM1851の項を参照。
- ^ 井伊家中間が、後に語った事によれば、中間は彦根藩の大名行列60名の駕籠後方で馬を引いていたが、「殿様の駕籠へ何者かが、刀を抜き数人斬りかかって、その勢いの烈しく怖ろしい事は言い様もない。駕籠の内か外かは分からないが大音声が一声して、警護の者は八方へさっと逃げ去って、抜き合う士もいないように見えた」ため、馬を引いて直弼邸へ戻ったとしている[23]。
- ^ その時の永田の刀が、子孫の永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
- ^ 水戸浪士・黒澤の刀は奮闘により鋸状になり、その記録を自訴後にとったが[25]、岩崎英重は、黒澤が先に発砲していたため、特に彦根藩士から狙われ悪戦したのではないか、としている[26]。
- ^ 一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に描かれている。
- ^ 2014年現在の警視庁辺り。
- ^ 城門のすぐそばを血で汚したままにはできない上に、登城のため通過待ちをしている大名家がいたため。
- ^ 山川菊栄は、この遠藤家の皮肉な仕打ちは平生から癪に障っていた譜代大名筆頭25万石の大老が道端で首をかかれた醜態に溜飲を下げ、旗本8万騎の誇りを全うしたつもりだったろう、としている[29]。
- ^ この時点では公式には「井伊直弼は負傷して治療中で且つ存命」ということになっており、首を渡すとなると「直弼は既に死んでいる」ということになってしまうため。
- ^ 和田倉濠(和田倉噴水記念公園)辺り。
- ^ 現在の皇居(旧江戸城)・大手門交差点辺り。
- ^ 東京都千代田区丸の内2丁目、丸の内二丁目ビル際辺り。
- ^ 織田家からの届けによると、山口は「左の後ろから首が落ちかかり、左腕も切れかかり、二の腕も落ちかかり、そのほか数か所の傷」があった[31]。
- ^ 東京都千代田区丸の内1丁目3辺り。
- ^ 東京都千代田区丸の内1丁目6辺り。
- ^ 佐渡から能登へ、後に越後ともいう[33]。
- ^ 現在の新潟県岩船郡関川村。南魚沼郡湯沢町の越後湯沢温泉とは異なる。
- ^ 現在の城里町。
- ^ 昭和10年、増子の孫によって『桜田烈士増子金八事大畠誠三郎略伝』が出版された。
- ^ 現在の常陸大宮市。
- ^ この薬用人参は松江藩が朝鮮から密輸入し、同藩が専売していたものだろうという[17]。
- ^ なお、生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
- ^ 靖国神社には幕末維新に関係した祭神約4200柱が祀られているが、このうち1420柱、約3割を水戸藩士のものが占めている[40]。
- ^ 水戸市と敦賀市が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだのは、水戸と彦根の和解から約4年前の1965年(昭和40年)4月30日だった[41]。
- ^ 彦根市と高松市は、水戸と高松を仲介した日から約8年前の1966年(昭和41年)8月15日に親善都市提携があった[42]。
- ^ 直弼狙撃の実行犯である新説あり[44]。
- ^ 市五郎は誤記とされる[45]。
出典
- ^ 畑尚子『幕末の大奥ー天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年)
- ^ a b c 岡村 2012, p.122
- ^ 一説に3,000人[2]。
- ^ “井伊直弼と開国150年祭公式サイト 幕末の政局と井伊直弼”. 井伊直弼と開国150年祭実行委員会. 2014年4月。閲覧。
- ^ 岩崎 1911, p.55
- ^ 吉田 1985, p.381
- ^ 岡村 2012, p.121
- ^ 岩崎 1911, p.39
- ^ 岩崎 1911, p.42
- ^ 岩崎 1911, pp.46-47
- ^ a b c d e f 岡村 2012, p.123
- ^ a b 山川 1991, p.264
- ^ a b c d 岡村 2012, p.124
- ^ 岡村 2012, pp.124-125
- ^ a b c 岡村 2012, pp.126-127
- ^ 岡村 2012, pp.125-127
- ^ a b 岩崎 1911, p.179
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- ^ 吉田 1985, [要ページ番号]
- ^ 吉田 1984, p. 386.
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- ^ a b 岡村 2012, p.126
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- ^ 「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録‐読売新聞関西版2010年7月11日付(同日閲覧)
- ^ 岩崎 1911, p.270
- ^ 岩崎 1911, p.317
- ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、稲田重蔵、2014年4月閲覧。
- ^ 菊地明『幕末証言 史談会速記録を読む』(2017年)
- ^ a b 山川 1991, p.265
- ^ 宮澤 1993, [要ページ番号]
- ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、山口辰之介、2014年5月閲覧。
- ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、岡部三十郎。2014年5月閲覧
- ^ 岩崎 1911, p.322
- ^ 岩崎 1911, p.323
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- ^ 岩崎 1911, p.301
- ^ 岩崎 1911, pp.310-315
- ^ 山川 1991, p.263
- ^ 岡村 2012, p.127
- ^ 岡村 2012, p.159
- ^ 水戸市、都市交流、2021年4月19日閲覧。水戸市、敦賀市、姉妹都市交流50周年、2021年4月19日閲覧。
- ^ 水戸市、都市交流、2013年3月20日閲覧。彦根市、彦根市について、2013年3月20日閲覧。
- ^ 桜田門外の変が争点?…襲撃の子孫が市長選に
- ^ NHK『歴史秘話ヒストリア』2015年3月4日放送「銃声とともに 桜は散った〜「桜田門外の変」の謎〜」より。
- ^ 岩崎 1911, p.123
- ^ 慵斎野処士墓碑銘『近世土浦小史』柳沢鶴吉 著 (常南通信社, 1906)
- ^ 『タウンニュース「桜田門外」裏面史刻む廣福寺・畑権助の辞世碑
- ^ 山本秋広『水戸徳川家と幕末の烈公』紀山文集 第三巻(1968年)
- ^ 網代茂『水戸綺談』新いばらきタイムス社、1992年。
- ^ 『これが水戸黄門だ!』日之出出版、2003年11月19日。久野勝弥「井伊大老首級始末異聞」(『郷土文化』第45号、2004年3月31日)。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
- ^ 滋賀彦根新聞、2012年6月8日付け、豪徳寺の墓に井伊直弼埋葬されず? 地下3㍍に石室なく、滋賀彦根新聞社、2014年5月閲覧。
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