桜田門外の変
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潜伏期間
安政6年(1859年)より、水戸藩士・高橋多一郎、金子孫二郎を中心として、直弼襲撃と薩摩藩兵上京の計画が図られていた。安政7年(1860年)に入り、幕府からの密勅返納の圧迫が強くなったことにより、計画は具体化していった。高橋多一郎は京における薩摩藩兵挙兵との調整・指揮を、金子孫二郎は江戸における直弼襲撃計画の立案・指揮を担うこととなった。
襲撃関係のうち国許在住者の江戸入りは、先に江戸に入っていた者、数人で連れ立って江戸入りした者、単独で来た者と様々であるが、おおよそ安政7年の2月中に江戸に入った。
計画首謀者の水戸藩士・金子孫二郎は2月18日夜、嫡男・勇次郎や、同藩士・稲田重蔵、 佐藤鉄三郎、飯村誠介らを伴って水戸を発ち、江戸へ向かった[2]。同日、水戸藩庁が金子孫二郎、高橋多一郎、関鉄之介らに召喚命令を出したため、長岡屯集の藩士らはこれを聞いて憤激し、20名程が一挙に水戸へ押し寄せた。藩の方でも兵士数百名を出していたので、水戸・紺屋町[注釈 11]で長岡勢と衝突、互いに斬り合いとなった。このとき林忠左衛門を初め、長岡勢にも2、3人の負傷者が出た[注釈 12]。孫二郎らは、笠間、結城、古河を経て、草加より王子へ向かい、25日、江戸へ着いた。翌26日薩摩藩士・有村雄助と有村次左衛門兄弟の計らいで三田・薩摩屋敷へ移り、謀議を重ねた[10]。この屋敷は江戸にいたはずの在府組が薩摩へ帰国していたので、がら空きだった[11]。
水戸藩士・関鉄之介へも2月18日、召喚状が水戸藩庁から届いた。しかし、関は既に早朝、自宅を抜け出し江戸へ走り[2]、19日江戸に入った。関は水戸に妻子があったが、江戸の芸妓・滝本いのと情を通じ、京橋北槇町にあった滝本の家へ寄宿した。
幕府の警戒が厳しくなったのを知り、彼らは一か所に多数で泊まれば疑われるのを予想、宿泊する藩士の組み合わせを変えるなどを思案。海後嵯磯之介は江戸到着の2日後、品川へ宿を移した。関鉄之介は浅草、吉原、京橋へ転々とした。これらにもかかわらず、彼らは一様に町奉行の目をかわすのに苦労していた[11]。
薩摩屋敷では金子孫二郎らと有村兄弟が談義を重ねた。まず彼らは水戸・薩摩とも大量参加者は見込めないことを再確認し、当初予定の襲撃期日を延期した[11]。標的は、候補に挙げていた直弼側近の老中で陸奥磐城平藩主・安藤信睦(のち、信正と改名)[注釈 13]や同じ溜間詰の讃岐高松藩主・松平頼胤[注釈 14]を外し、直弼一人に絞り込んだ[11]。
3月1日、金子孫二郎は日本橋西河岸の山崎屋に、関鉄之介や斎藤監物、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、薩摩藩士・有村雄助、そして薩摩藩との連絡役の水戸藩士・木村権之衛門を呼んだ上で、挙行は3月3日とし、襲撃は登城中の直弼を桜田門外で襲うべし、と最終決断を下した[11]。この他に金子は、武鑑を携え四、五人を一組とし相互連携すべし、まず先供を討つべし、駕籠脇が狼狽する隙に大老を討つべし、大老の首級を挙げるべし、負傷者は切腹か閣老へ自訴すべし、その他の者ただちに薩摩藩との次の義挙計画の約束[注釈 15]通り京へ赴くべしと定めた[11]。また、できるだけ生き延びて次の仕事の機会を待つ、という申し合わせも行った[12]。さらにこの時、襲撃の役割と斬り込み隊の配置も定めた[13]。金子は全体統率、関は現場指揮、彼らは斬り込み隊へ加わらず皆の監督役とし、水戸藩士・岡部三十郎と畑弥平は結末を見届けたのち、品川の川崎屋に待機した金子へ結果報告する事とした。斬り込み隊の配置は、直弼邸[注釈 16]へ向かって右翼即ち江戸城の堀に面した側へ神官・海後嵯磯之介や水戸藩士・広岡子之次郎、森山繁之介、稲田重蔵、佐野竹之介、大関和七郎。左翼即ち豊後杵築藩(藩主・松平親良)邸[注釈 17]側へ水戸藩士・山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、黒沢忠三郎、薩摩藩士・有村次左衛門とした。後衛に神官・鯉淵要人、水戸藩士・蓮田一五郎、広木松之介を配し、前衛には水戸藩士・森五六郎を当てた[13]。稲田重蔵は当初、金子に京への同行を命じられたが、本人の希望により固辞して襲撃参加した。また神官・斎藤監物は襲撃に直接参加せず、事変後に一同を率い、連名の『斬奸趣意書』を然るべき藩邸へ提出する役目とされた。
3月2日の夕刻、品川宿・相模屋にて訣別の酒宴が催された。この夜列席したのは襲撃参加者18名を含む19名だった[注釈 18]。面々が一堂に会するのはこれが最初で、しかも最後にもなった。期日が遂に明日と決まった中、面々は改めて成功を誓い、酒盃を交わした[13]。また、藩に累が及ばないよう、この夜明けまでに、藩士・神官の身分に応じ、除籍願を届けた。
注釈
- ^ ただし、本画像では両端が一部しか掲載されていない。
- ^ 中国(清)では既に阿片戦争が1840年から2年後まで行われ、不平等条約を欧米列強と結ばされていた。
- ^ 徳川斉昭の七男。御三卿・一橋家へ養子、当主となっていた。慶喜自身は将軍家襲封に乗り気ではなかったとされ、「骨が折れるので、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうが大きく勝っている」という内容の手紙を父・斉昭へ送っていた(彰考館徳川博物館蔵))。徳川慶喜の項を参照。
- ^ 家定は病弱で知能障害の説もあるが、松平春嶽が家定を酷評しているのに対し、井伊直弼は「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」としており、将軍継嗣問題の煽りで暗愚と評されたとの説もある[1]。
- ^ 関白を辞めさせるには幕府の了解が必要とされる。江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度によった。
- ^ 千葉県松戸市小金。
- ^ 茨城町長岡。
- ^ その後、桜田門外の変が起きて密勅は水戸藩領内に留まった。
- ^ 後に、この約のもと上京した水戸浪士らは孤立した形となった。さらに、事件後の水戸浪士・関鉄之助が薩摩藩へ向かった折、薩摩入藩を拒否された。薩摩藩・精忠組の一部はこれに一時反発した。
- ^ この水戸藩士単独決行の考えは、『斬奸趣意書』の中にも見られる。
- ^ 茨城県水戸市紺屋町。
- ^ これら数名は後から江戸に出て襲撃に加わる手筈であり、道路梗塞もあって江戸へやって来た者が少数となったという[9]。
- ^ 安藤信正は直弼の側近として安政の大獄の片棒を担いでいたので、攘夷志士から奸賊と見做されていた。安藤は水戸藩士から後に坂下門外の変で襲撃された。
- ^ a b 高松松平家は彦根井伊家と共に江戸城溜間詰の大名であり、頼胤は直弼と思想的な親交もあったため、条約調印問題や将軍継嗣問題ではどちらも南紀派についた。一方で、高松松平家は水戸徳川家の御連枝であり、加えて前藩主・松平頼恕は徳川斉昭の異母兄、頼胤の養嗣子・頼聰はその頼恕の実子であった。頼聰は直弼の娘・弥千代と結婚し、水戸藩士らの不評を買っていた。なお、安政の大獄の際、頼胤は本家(水戸家)を監督できなかったとして譴責を受けている。
- ^ ただし、前述の様、薩摩藩による京都義挙計画は破綻していた。
- ^ 現在の憲政記念館辺り。
- ^ 現在の警視庁辺り。
- ^ 十八士に、水戸藩士・畑弥平を含む19名。但し一説に、金子、有村、増子は欠席したとされる[13]。
- ^ 東京都品川区北品川。
- ^ 海後の述懐によれば、雪も早く消え、明治時代の絵草紙で見るような大雪ではなかったと云う[12]。
- ^ 18名の他、水戸脱藩浪士の畑弥平も随行した。畑は品川の旅籠に待機していた水戸藩士・金子孫次郎と、国許の水戸藩庁へ現場の様子を事変後報せた[15]。
- ^ 現在の憲政記念館・国会前庭(北庭)付近。
- ^ 事件当日の朝、老中・脇坂安宅が特に直弼邸へ出向き警告を与えたという[18]。
- ^ 漫画家・みなもと太郎が『風雲児たち 幕末篇』で指摘しているように「刀の柄袋を外させる」「門前に見張りを立てる」位のことは批判されない範囲で可能であり、要するに井伊直弼は警告を本気にしてはいなかったとされる。一方で、直弼の戒名は自ら生前考えていたもので[19]、直弼は既に死を覚悟していた可能性がある。
- ^ 現在の桜田門交差点。
- ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。十八浪士の一人・杉山弥一郎は鉄砲鍛冶であり、この模倣技術との深い関わりについて、今後の研究結果が待たれる。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、実際に発砲したものかは定かではないが、このピストルは現物が出現し、そこには高度な施条が刻まれていた。この銃はGHQによって没収された後アメリカに渡り、日本に里帰りしている。コルトM1851の項を参照。
- ^ 井伊家中間が、後に語った事によれば、中間は彦根藩の大名行列60名の駕籠後方で馬を引いていたが、「殿様の駕籠へ何者かが、刀を抜き数人斬りかかって、その勢いの烈しく怖ろしい事は言い様もない。駕籠の内か外かは分からないが大音声が一声して、警護の者は八方へさっと逃げ去って、抜き合う士もいないように見えた」ため、馬を引いて直弼邸へ戻ったとしている[23]。
- ^ その時の永田の刀が、子孫の永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
- ^ 水戸浪士・黒澤の刀は奮闘により鋸状になり、その記録を自訴後にとったが[25]、岩崎英重は、黒澤が先に発砲していたため、特に彦根藩士から狙われ悪戦したのではないか、としている[26]。
- ^ 一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に描かれている。
- ^ 2014年現在の警視庁辺り。
- ^ 城門のすぐそばを血で汚したままにはできない上に、登城のため通過待ちをしている大名家がいたため。
- ^ 山川菊栄は、この遠藤家の皮肉な仕打ちは平生から癪に障っていた譜代大名筆頭25万石の大老が道端で首をかかれた醜態に溜飲を下げ、旗本8万騎の誇りを全うしたつもりだったろう、としている[29]。
- ^ この時点では公式には「井伊直弼は負傷して治療中で且つ存命」ということになっており、首を渡すとなると「直弼は既に死んでいる」ということになってしまうため。
- ^ 和田倉濠(和田倉噴水記念公園)辺り。
- ^ 現在の皇居(旧江戸城)・大手門交差点辺り。
- ^ 東京都千代田区丸の内2丁目、丸の内二丁目ビル際辺り。
- ^ 織田家からの届けによると、山口は「左の後ろから首が落ちかかり、左腕も切れかかり、二の腕も落ちかかり、そのほか数か所の傷」があった[31]。
- ^ 東京都千代田区丸の内1丁目3辺り。
- ^ 東京都千代田区丸の内1丁目6辺り。
- ^ 佐渡から能登へ、後に越後ともいう[33]。
- ^ 現在の新潟県岩船郡関川村。南魚沼郡湯沢町の越後湯沢温泉とは異なる。
- ^ 現在の城里町。
- ^ 昭和10年、増子の孫によって『桜田烈士増子金八事大畠誠三郎略伝』が出版された。
- ^ 現在の常陸大宮市。
- ^ この薬用人参は松江藩が朝鮮から密輸入し、同藩が専売していたものだろうという[17]。
- ^ なお、生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
- ^ 靖国神社には幕末維新に関係した祭神約4200柱が祀られているが、このうち1420柱、約3割を水戸藩士のものが占めている[40]。
- ^ 水戸市と敦賀市が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだのは、水戸と彦根の和解から約4年前の1965年(昭和40年)4月30日だった[41]。
- ^ 彦根市と高松市は、水戸と高松を仲介した日から約8年前の1966年(昭和41年)8月15日に親善都市提携があった[42]。
- ^ 直弼狙撃の実行犯である新説あり[44]。
- ^ 市五郎は誤記とされる[45]。
出典
- ^ 畑尚子『幕末の大奥ー天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年)
- ^ a b c 岡村 2012, p.122
- ^ 一説に3,000人[2]。
- ^ “井伊直弼と開国150年祭公式サイト 幕末の政局と井伊直弼”. 井伊直弼と開国150年祭実行委員会. 2014年4月。閲覧。
- ^ 岩崎 1911, p.55
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- ^ 吉田 1984, p. 386.
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- ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、岡部三十郎。2014年5月閲覧
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- ^ 水戸市、都市交流、2021年4月19日閲覧。水戸市、敦賀市、姉妹都市交流50周年、2021年4月19日閲覧。
- ^ 水戸市、都市交流、2013年3月20日閲覧。彦根市、彦根市について、2013年3月20日閲覧。
- ^ 桜田門外の変が争点?…襲撃の子孫が市長選に
- ^ NHK『歴史秘話ヒストリア』2015年3月4日放送「銃声とともに 桜は散った〜「桜田門外の変」の謎〜」より。
- ^ 岩崎 1911, p.123
- ^ 慵斎野処士墓碑銘『近世土浦小史』柳沢鶴吉 著 (常南通信社, 1906)
- ^ 『タウンニュース「桜田門外」裏面史刻む廣福寺・畑権助の辞世碑
- ^ 山本秋広『水戸徳川家と幕末の烈公』紀山文集 第三巻(1968年)
- ^ 網代茂『水戸綺談』新いばらきタイムス社、1992年。
- ^ 『これが水戸黄門だ!』日之出出版、2003年11月19日。久野勝弥「井伊大老首級始末異聞」(『郷土文化』第45号、2004年3月31日)。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
- ^ 滋賀彦根新聞、2012年6月8日付け、豪徳寺の墓に井伊直弼埋葬されず? 地下3㍍に石室なく、滋賀彦根新聞社、2014年5月閲覧。
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