桜田門外の変
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死傷者とその後の処分等
水戸藩・薩摩藩側
安政7年3月3日(1860年3月24日)、稲田重蔵は、彦根藩士の河西忠左衛門から斬り倒され、襲撃者側でただ一人戦闘中討ち死にした[30]。その他の襲撃者らは直弼の首級を揚げたのを確認後、共に現場を去って日比谷門へ向かった。薩摩藩士である有村次左衛門は戦闘で首級を取ったが深手を負い、直弼の首を手にし現場を去りがけに、米沢藩邸前の東角で追い縋ってきた彦根藩士・小河原秀之丞より背後から斬りつけられた。広岡子之次郎らは負傷していたが、助太刀に回ってこれを制し小河原に止めを刺した。有村は直弼の首級を手に和田倉門を抜けたが、辰ノ口で力尽き遠藤胤統(遠藤但馬守)邸前で自決した[注釈 35]。広岡は、辰ノ口を通り姫路藩・酒井家の邸外まで辿り着いた所で力尽き、自刃した[注釈 36]。また山口辰之介と鯉渕要人も、彦根藩士による反撃で重傷を負っていた。山口と鯉渕は和田倉門までたどり着かず、馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある八代洲川岸で、増山河内守邸の角を右へ曲がり、織田兵部少輔邸[注釈 37]の塀際で鯉渕が山口を介錯し、鯉渕も自刃した[注釈 38]。
佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎の4名は、戦闘により負傷しながらも連れ立って移動し、和田倉門前の老中・脇坂安宅 (脇沢中務大輔)邸[注釈 39]へ『斬奸趣意書』を提出し自訴した。佐野竹之介は特に重傷であり、事件当日の夕刻に絶命した。4人は熊本藩・細川家へ預けかえられた(死んだ佐野も死体が運ばれた)。斎藤監物も重傷を負っていたため、5日後の3月8日に落命した。黒澤忠三郎も重傷であったが、手当てにより命は取り留めた。黒澤はその後、富山藩・前田家へ預け替えられた後、4月21日に三田藩・九鬼家へ移され、7月12日、九鬼家で病死した。蓮田一五郎は、細川家から、膳所藩・本多家へ預けかえられた。蓮田には絵を描く才能があったため、細川邸にて事変の詳細を描いた。取り調べの後、文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。
大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介の4名は、熊本藩主・細川斉護邸[注釈 40]へ趣意書を提出し自訴した。大関・森・杉山は負傷しており、森山は戦闘に参加したが無傷であった。大関和七郎は、富山藩・前田家、続いて豊岡藩・京極家へ預け替えられた。森五六郎は、臼杵藩・稲葉家、さらに大和小泉藩・片桐家へ預け替えられた。森が稲葉家家臣らへ語った記録は、『森五六三郎物語』と呼ばれている。杉山弥一郎は、村松藩・堀家に預け替えられた。森山繁之介は、一関藩・田村家、さらに足利藩・戸田家へ移された。大関・森・杉山・森山の4名とも、取り調べの後、文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。
かくして襲撃の戦闘に参加した16名のうち,1名が闘死、4名が自刃、8名が自訴した。残る3名(広木松之介・増子金八・海後磋磯之介)は大きな負傷なく現場を脱し、戦闘不参加の関鉄之介・岡部三十郎や協力者とともに、計画通り京を目指した。
しかし、幕府の探索の手も拡がり、襲撃計画の首謀者である水戸浪士・金子孫二郎は薩摩浪士・有村雄助、水戸浪士・佐藤鉄三郎らと共に京へ向かったが、途上、3月9日に伊勢・四日市の旅籠で薩摩藩兵により捕縛された。金子孫二郎と佐藤鉄三郎は伏見奉行所に引き渡されて、24日江戸へ護送された。取り調べの後、金子は文久元年(1861年)7月26日、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。佐藤は追放となった。有村雄助は、3月9日捕縛された後、薩摩藩士の関与を隠したい藩の思惑のため、一時大坂の薩摩藩邸に移され、薩摩へ護送された。3月24日、幕府の探索が薩摩に迫ったため、藩命によって自刃させられた。先に京に入っていた水戸浪士・高橋多一郎と庄左衛門親子は、3月24日、大坂にいたところを幕吏の追捕を受け、四天王寺境内へ逃げ込み、その寺役人宅にて自刃した。大坂で薩摩藩との連絡役であった水戸浪士・川崎孫四郎も、3月23日探索に追い詰められて自刃し、翌日死去した。
襲撃者のうち戦闘不参加で、検視見届役として参加していた岡部三十郎は、事件後、関鉄之介らと大坂へ向かったが、薩摩藩の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還し、久慈郡袋田や水戸城下辺りへ潜伏した。追手を逃れ、再び江戸へ出たが、文久元年(1861年)2月、江戸吉原で捕まった[32]。文久元年(1861年)7月26日、自訴した面々や金子孫二郎とともに、伝馬町獄舎で幕吏により斬首された。
襲撃者の一人、広木松之介は、かねてからの計画通り京へ向かうが、加賀国より先は幕府の厳重な警戒で叶わなかった。広木は一旦水戸に帰郷し、数日後再び京を目指して出発するが、幕府の詮議が厳しく、能登国本住寺に潜伏した後、越後国佐渡島、越中国を経た[注釈 41]。越後国新潟でたまたま居合わせた水戸藩士・後藤哲之介は広木を助け、旅費を用意した上で広木を逃がした。文久元年(1861年)、後藤は幕吏に捕らわれた。所持品から広木の印が見つかった上、取り調べ時に広木松之介であると供述した[34]ため、文久2年(1862年)5月江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれた。しかし広木松之介を名乗った後藤へ尋問もなく、絶食した後藤は文久2年(1862年)9月13日に息絶えた。一方、広木は相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪したが、襲撃から3年目の日にあたる文久2年(1862年)3月3日、上行寺の墓地で切腹した[35]。また、広木が直弼の首級を水戸へ持ち帰った、という伝承がある。
襲撃の現場総指揮である関鉄之介は、3月5日に江戸を出発して京へ向かい、中山道から大坂へ入った。大坂へ辿り着いた関は高橋多一郎らの死と、薩摩藩側の率兵上京計画が果たされないことを知った。以後、彼は 山陰、山陽、四国、九州と西国各地を転々とした。関は薩摩藩へも入ろうとしたが、既に島津久光の命で薩摩の全関所が閉ざされていたため、薩摩入りできなかった。関はやがて水戸藩領へ戻ることを決め、万延元年(1860年)7月、水戸藩久慈郡袋田村に入り、この地の豪農でかねてから懇意の郷士格・桜岡源次衛門に匿われた。桜岡は、かつて藩命で関が担当した蒟蒻会所の裏部屋などを、彼の隠れ家に提供した。文久元年(1861年)7月、関は密かに水戸の高橋多一郎の家を訪ね、さらに息子へ密かに会いに行った[36]。関は再び袋田へ向かったが、これを期に水戸から探索の足が着いた。その後、持病の悪化と探索を逃れ、諸国に潜伏。同年10月、関は水戸藩士によって越後の湯沢温泉[注釈 42]で捕縛され、同年11月に水戸へ護送されて、城下の赤沼牢に投獄された。文久2年(1862年)4月5日、江戸に護送され、小伝馬町の牢へ入った。関の獄中の詩集『遣悶集』がある[37]。また、襲撃前の潜伏時に関が身を寄せた芸妓・滝本いのは、幕吏に捕らわれて尋問により獄死しており、関はここでそれを知った。同年5月11日、関はこの小伝馬町の牢において斬首された。
他の関与者も多くは自首や捕縛された後に刑死、獄死した。
襲撃者のうち、増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治時代まで生き延びた。増子は腕や肩に傷を負ったが浅手だったため、現場を脱して京へ向かった。しかし、周囲の警戒が厳重で叶わず帰郷。その後商人に扮して捕吏の手を逃れ、水戸藩から北の各地に潜伏した。明治時代となってから石塚村[注釈 43]へ戻るが、襲撃事件について沈黙し、語ろうとしなかった。増子は同志の冥福を祈りながら読書と狩猟の余生を過ごし、明治14年(1881年)に病没した[注釈 44]。海後は、指を切り落とされながらも現場を脱し、水戸藩領の小田野村[注釈 45]にある親戚の高野家などへ隠れた。その後、海後は京へ向かうため越後国へ向かったが、文久3年(1863年)に帰郷。元治元年(1864年)の天狗党の乱には変名で天狗党へ参加、関宿藩に預けられたが、ここも無事脱出した。明治維新後、旧水戸藩士身分に復帰、茨城県庁や警視庁等へ勤務、退職後の明治36年(1903年)自宅で没した。海後は事件前の色々な申し合わせは一切口外しないとの固い約束があり、一人の生き残りが語っては約束を破るようで申し訳ないからと生前、口を閉ざしていた。海後の遺稿に襲撃の一部始終を伝える『春雪偉談』や『潜居中覚書』がある[38]。
襲撃現場で、討ち死にした稲田、および自刃した有村、広岡、鯉渕、山口の遺骸は小塚原刑場に隣接する回向院に運ばれ埋葬された。また、7月26日に、処刑された蓮田、大関、森、杉山、森山、金子、岡部の7人も回向院に埋葬された。文久の改革で、上記浪士の遺骸は故郷に帰葬を許されて、水戸の常盤共有墓地他に改葬された。
彦根藩側
襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡し(即死者4名、重傷を負い数日中に死亡した者4名)、他に5名が重軽傷を負った。藩邸では水戸藩に仇討ちをかけるべきとの声もあったが、家老・岡本半介が叱責して阻止した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、事変から2年後の文久2年(1862年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され揚屋に幽閉された。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。
井伊家の菩提寺である東京都世田谷区の豪徳寺には変で亡くなった8名の慰霊碑が、直弼の墓の後方右手に寄り添うように建っている。
注釈
- ^ ただし、本画像では両端が一部しか掲載されていない。
- ^ 中国(清)では既に阿片戦争が1840年から2年後まで行われ、不平等条約を欧米列強と結ばされていた。
- ^ 徳川斉昭の七男。御三卿・一橋家へ養子、当主となっていた。慶喜自身は将軍家襲封に乗り気ではなかったとされ、「骨が折れるので、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうが大きく勝っている」という内容の手紙を父・斉昭へ送っていた(彰考館徳川博物館蔵))。徳川慶喜の項を参照。
- ^ 家定は病弱で知能障害の説もあるが、松平春嶽が家定を酷評しているのに対し、井伊直弼は「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」としており、将軍継嗣問題の煽りで暗愚と評されたとの説もある[1]。
- ^ 関白を辞めさせるには幕府の了解が必要とされる。江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度によった。
- ^ 千葉県松戸市小金。
- ^ 茨城町長岡。
- ^ その後、桜田門外の変が起きて密勅は水戸藩領内に留まった。
- ^ 後に、この約のもと上京した水戸浪士らは孤立した形となった。さらに、事件後の水戸浪士・関鉄之助が薩摩藩へ向かった折、薩摩入藩を拒否された。薩摩藩・精忠組の一部はこれに一時反発した。
- ^ この水戸藩士単独決行の考えは、『斬奸趣意書』の中にも見られる。
- ^ 茨城県水戸市紺屋町。
- ^ これら数名は後から江戸に出て襲撃に加わる手筈であり、道路梗塞もあって江戸へやって来た者が少数となったという[9]。
- ^ 安藤信正は直弼の側近として安政の大獄の片棒を担いでいたので、攘夷志士から奸賊と見做されていた。安藤は水戸藩士から後に坂下門外の変で襲撃された。
- ^ a b 高松松平家は彦根井伊家と共に江戸城溜間詰の大名であり、頼胤は直弼と思想的な親交もあったため、条約調印問題や将軍継嗣問題ではどちらも南紀派についた。一方で、高松松平家は水戸徳川家の御連枝であり、加えて前藩主・松平頼恕は徳川斉昭の異母兄、頼胤の養嗣子・頼聰はその頼恕の実子であった。頼聰は直弼の娘・弥千代と結婚し、水戸藩士らの不評を買っていた。なお、安政の大獄の際、頼胤は本家(水戸家)を監督できなかったとして譴責を受けている。
- ^ ただし、前述の様、薩摩藩による京都義挙計画は破綻していた。
- ^ 現在の憲政記念館辺り。
- ^ 現在の警視庁辺り。
- ^ 十八士に、水戸藩士・畑弥平を含む19名。但し一説に、金子、有村、増子は欠席したとされる[13]。
- ^ 東京都品川区北品川。
- ^ 海後の述懐によれば、雪も早く消え、明治時代の絵草紙で見るような大雪ではなかったと云う[12]。
- ^ 18名の他、水戸脱藩浪士の畑弥平も随行した。畑は品川の旅籠に待機していた水戸藩士・金子孫次郎と、国許の水戸藩庁へ現場の様子を事変後報せた[15]。
- ^ 現在の憲政記念館・国会前庭(北庭)付近。
- ^ 事件当日の朝、老中・脇坂安宅が特に直弼邸へ出向き警告を与えたという[18]。
- ^ 漫画家・みなもと太郎が『風雲児たち 幕末篇』で指摘しているように「刀の柄袋を外させる」「門前に見張りを立てる」位のことは批判されない範囲で可能であり、要するに井伊直弼は警告を本気にしてはいなかったとされる。一方で、直弼の戒名は自ら生前考えていたもので[19]、直弼は既に死を覚悟していた可能性がある。
- ^ 現在の桜田門交差点。
- ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。十八浪士の一人・杉山弥一郎は鉄砲鍛冶であり、この模倣技術との深い関わりについて、今後の研究結果が待たれる。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、実際に発砲したものかは定かではないが、このピストルは現物が出現し、そこには高度な施条が刻まれていた。この銃はGHQによって没収された後アメリカに渡り、日本に里帰りしている。コルトM1851の項を参照。
- ^ 井伊家中間が、後に語った事によれば、中間は彦根藩の大名行列60名の駕籠後方で馬を引いていたが、「殿様の駕籠へ何者かが、刀を抜き数人斬りかかって、その勢いの烈しく怖ろしい事は言い様もない。駕籠の内か外かは分からないが大音声が一声して、警護の者は八方へさっと逃げ去って、抜き合う士もいないように見えた」ため、馬を引いて直弼邸へ戻ったとしている[23]。
- ^ その時の永田の刀が、子孫の永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
- ^ 水戸浪士・黒澤の刀は奮闘により鋸状になり、その記録を自訴後にとったが[25]、岩崎英重は、黒澤が先に発砲していたため、特に彦根藩士から狙われ悪戦したのではないか、としている[26]。
- ^ 一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に描かれている。
- ^ 2014年現在の警視庁辺り。
- ^ 城門のすぐそばを血で汚したままにはできない上に、登城のため通過待ちをしている大名家がいたため。
- ^ 山川菊栄は、この遠藤家の皮肉な仕打ちは平生から癪に障っていた譜代大名筆頭25万石の大老が道端で首をかかれた醜態に溜飲を下げ、旗本8万騎の誇りを全うしたつもりだったろう、としている[29]。
- ^ この時点では公式には「井伊直弼は負傷して治療中で且つ存命」ということになっており、首を渡すとなると「直弼は既に死んでいる」ということになってしまうため。
- ^ 和田倉濠(和田倉噴水記念公園)辺り。
- ^ 現在の皇居(旧江戸城)・大手門交差点辺り。
- ^ 東京都千代田区丸の内2丁目、丸の内二丁目ビル際辺り。
- ^ 織田家からの届けによると、山口は「左の後ろから首が落ちかかり、左腕も切れかかり、二の腕も落ちかかり、そのほか数か所の傷」があった[31]。
- ^ 東京都千代田区丸の内1丁目3辺り。
- ^ 東京都千代田区丸の内1丁目6辺り。
- ^ 佐渡から能登へ、後に越後ともいう[33]。
- ^ 現在の新潟県岩船郡関川村。南魚沼郡湯沢町の越後湯沢温泉とは異なる。
- ^ 現在の城里町。
- ^ 昭和10年、増子の孫によって『桜田烈士増子金八事大畠誠三郎略伝』が出版された。
- ^ 現在の常陸大宮市。
- ^ この薬用人参は松江藩が朝鮮から密輸入し、同藩が専売していたものだろうという[17]。
- ^ なお、生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
- ^ 靖国神社には幕末維新に関係した祭神約4200柱が祀られているが、このうち1420柱、約3割を水戸藩士のものが占めている[40]。
- ^ 水戸市と敦賀市が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだのは、水戸と彦根の和解から約4年前の1965年(昭和40年)4月30日だった[41]。
- ^ 彦根市と高松市は、水戸と高松を仲介した日から約8年前の1966年(昭和41年)8月15日に親善都市提携があった[42]。
- ^ 直弼狙撃の実行犯である新説あり[44]。
- ^ 市五郎は誤記とされる[45]。
出典
- ^ 畑尚子『幕末の大奥ー天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年)
- ^ a b c 岡村 2012, p.122
- ^ 一説に3,000人[2]。
- ^ “井伊直弼と開国150年祭公式サイト 幕末の政局と井伊直弼”. 井伊直弼と開国150年祭実行委員会. 2014年4月。閲覧。
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- ^ 水戸市、都市交流、2021年4月19日閲覧。水戸市、敦賀市、姉妹都市交流50周年、2021年4月19日閲覧。
- ^ 水戸市、都市交流、2013年3月20日閲覧。彦根市、彦根市について、2013年3月20日閲覧。
- ^ 桜田門外の変が争点?…襲撃の子孫が市長選に
- ^ NHK『歴史秘話ヒストリア』2015年3月4日放送「銃声とともに 桜は散った〜「桜田門外の変」の謎〜」より。
- ^ 岩崎 1911, p.123
- ^ 慵斎野処士墓碑銘『近世土浦小史』柳沢鶴吉 著 (常南通信社, 1906)
- ^ 『タウンニュース「桜田門外」裏面史刻む廣福寺・畑権助の辞世碑
- ^ 山本秋広『水戸徳川家と幕末の烈公』紀山文集 第三巻(1968年)
- ^ 網代茂『水戸綺談』新いばらきタイムス社、1992年。
- ^ 『これが水戸黄門だ!』日之出出版、2003年11月19日。久野勝弥「井伊大老首級始末異聞」(『郷土文化』第45号、2004年3月31日)。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
- ^ 滋賀彦根新聞、2012年6月8日付け、豪徳寺の墓に井伊直弼埋葬されず? 地下3㍍に石室なく、滋賀彦根新聞社、2014年5月閲覧。
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