桜田門外の変 影響

桜田門外の変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 09:15 UTC 版)

影響

老中・阿部正弘や徳川斉昭、島津斉彬らが主導した雄藩協調体制を否定、幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持しつつ、朝廷からの政治介入をも阻止するという井伊直弼の専制政策路線は、自身の死によって決定的に破綻した。そればかりか、御三家の一つである水戸徳川家と、譜代大名筆頭の井伊家が反目、長年持続した幕府の権威も大きく失墜し、文久期以降に尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7か月後の慶応3年10月14日1867年11月9日)、第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、翌年の江戸開城により急転直下で成る明治維新への、直接的ではっきりした起点がこの桜田門外の変であった。
だが事件当初、水戸の庶民の中には「徳川斉昭の肉の怨みを藩士が討ち晴らした」と受け取り、 この事件を「すき焼き討ち入り」「御牛騒動」などと呼ぶ者たちもいた[42]。毎年、井伊家より贈呈され、肉好きの斉昭が楽しみにしていた近江牛の味噌漬けが、直弼の家督相続以来、送られてこなくなったからである。

彦根藩・井伊家のその後

井伊直弼(彦根城博物館所蔵)

変の直後

当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭である井伊家の御家断絶と、それにより誘発される水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された直弼自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮であった。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、直弼の没日が「安政七年三月三日」(1860年3月24日)ではなく「萬延元年三月二十八日」(1860年5月18日)と刻まれているのはこのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。

直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外にて負傷した旨の届けが幕府へ提出され(公辺内分の手続き)、将軍家(家茂)からは直弼への見舞品として大量の薬用・御種人蔘などが藩邸へ届けられている[注釈 46]。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には藩主・徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士達の憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けた。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録(大場代官夫人の大場美佐の日記)によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。その後約2か月間、幕府側は直弼の死を公表しなかった。

しかし、襲撃後の現場には後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中へ知れ渡った。斬り合いは既に終わったにもかかわらず、天気の回復した事変当日の午後から夕方には、見物人が桜田門付近のぬかるみの道に群れを成した[32]。直弼の強権と、襲撃を受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」をもじって「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」などと市井に揶揄された。また、首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉った「倹約で枕いらずの御病人」「遺言は尻でなさるや御大病」「人参で首をつげとの御沙汰かな」などの川柳も相次いだ。事件直後の市中の状況をよみ上げたちょぼくれあほだら経も採集されている(あほだら経の項を参照)。

文久から維新期

桜田門外の変の襲撃者らが幕吏から大方処分されるのを見届けた薩摩藩側では、2年後の文久2年(1862年)3月16日に島津久光が藩兵を率いて鹿児島城下を発し、4月13日に入京した。さらに久光は勅使大原重徳を擁して6月7日に薩摩藩兵と共に江戸へ入り、幕政の刷新を要求した。これを受けて幕府は御三卿・一橋慶喜を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命、春嶽の主導で直弼政権の清算を図った(文久の改革[注釈 47]。末期の直弼政権を支え、直弼の死後に幕閣をまとめた老中・安藤信正は、同年初めの坂下門外の変では負傷で済んでいたが、この改革で久世広周と共に老中を罷免された。また、彦根藩は幕府より石高を30万石から20万石に減らされ、さらに5万石の預地も没収され、藩主の京都守護の家職を剥奪され、会津藩主・松平容保が代わりに京都守護職へ充てられた。これに先立って、彦根藩は直弼の腹心だった彦根藩士・長野主膳と同藩士・宇津木景福切腹より重い重罰であった斬首・打ち捨てに処したが、結局のところ減封を免れることはできなかった。

慶応2年(1866年)6月7日、第二次長州征伐で、彦根藩士510名は赤備えを着て幕府方で出陣した。彼らは鎧が夜間でも目立つことが却って仇となり長州方の遊撃隊から狙撃され、大敗を喫した。慶応4年(1868年)1月3日から6日、鳥羽・伏見の戦いでは譜代筆頭として、藩主・井伊直憲率いる彦根藩は幕府軍の先鋒を務めていたが、翻って新政府軍に付いた。彦根藩はその後も薩摩藩兵と共に東寺大津を守備するなど、倒幕の姿勢を示した。

明治維新後

明治17年(1884年)の華族令施行に伴い、旧藩主・井伊直憲は伯爵に叙されたが、この爵位は「減封後の石高」を基準としたものであった。しかし、預地を含めた草高35万石(減封後は20万石)で近江半国領主という国持大名に準ずる旧幕府の格式に沿うならば、1階級上の侯爵となるはずとの思惑が井伊家の周辺にあった。そのため「安政の大獄の恨みで新政府に冷遇され、伯爵に落とされた」との説が井伊家周辺に流れた。しかし、減封後の現石は9万4030石(五公五民)[43]であったし、さらには仮に減封がなかったとしても国持大名で現石15万石を基準とする侯爵の基準は満たしていない。そもそも爵位は版籍奉還時の現石が基準であり、安政の大獄の恨みなどというのは全くの俗説である。彦根藩は既に鳥羽・伏見の戦いの時点で討幕もしくは勤王の姿勢を示しており、彦根藩士は流山で元新選組近藤勇を逮捕するなどして、戦功として賞典禄2万石を新政府側から与えられていた。また直憲は有栖川宮家(斉昭正室の実家)から宜子夫人を迎えた。

水戸藩・水戸徳川家のその後

慶応3年(1867年)、征夷大将軍時代の徳川慶喜

変後

事変を見届けた水戸藩士・畑弥平は、品川の旅籠の金子孫二郎へ結果報告後、直ちに水戸へ急ぎ、事の経緯を藩庁へ伝えた。そのため、事件翌日の3月4日には、国許で永蟄居中の前水戸藩主・斉昭の元へ、変の詳細が伝わった[44]。水戸藩側では事態を知り驚愕、江戸の水戸藩邸では幕府へ「浪士らは脱藩者ゆえ大法に即し処置されたい、関係者は水戸藩でも探索し召捕るつもりである」旨を上申した。その後、脱藩関係者らは捕縛され、松平容保の仲裁もあって水戸藩は事なきを得た。

残された尊攘急進派の水戸藩士は、万延元年(1860年)7月に長州藩との間で結ばれた成破の盟約を背景に、文久元年(1861年)から元治元年(1864年)にかけ第一次東禅寺事件や坂下門外の変、天狗党の乱などの尊王攘夷運動を先駆けた。藩領内で生じた天狗党の乱により、幕府の命に動いた保守派・諸生党が、その鎮圧へ転じた。天狗党は、前水戸藩主の子・一橋慶喜を頼って京都へ向かったが、彦根藩士は直弼公の敵討ちと戦意を高揚させて中山道を封鎖し、このためやむなく天狗党一行は美濃から飛騨を経て越前へ入り、敦賀に至った。慶喜が鎮圧軍の長として出陣したことで、元治元年(1864年)12月敦賀にて投降した。 加賀藩は彼らを厚遇したが、幕府追討軍総括、遠江相良藩主で若年寄田沼意尊は彼らを鰊倉へ入れ、20名以上の病死者を出した。さらに、参加を欲した彦根藩士らの手により、元治2年(1865年)2月23日までに、敦賀の来迎寺境内で水戸藩士・352名が斬首された。他の者は遠島・追放された。

その後、第2次長州征伐中に起きた第14代将軍・家茂の薨去に伴って、徳川慶喜は徳川将軍家を継ぎ、ついで第15代将軍に就任した。また慶喜は慶応3年(1867年10月14日大政奉還を表し、その後江戸開城によって江戸幕府の歴史に幕を閉じた。

維新前後

慶応4年(1868年)、慶喜の実兄で水戸藩主・徳川慶篤は、新政府からの勅書により、同藩在京組から成る本圀寺勢を率い、諸生党約500名が退去した水戸城へ入った。この後、天狗党生存者らによる激しい報復が行われる。その最中、4月に慶篤が没し、政情不安定のため、慶篤の異母弟で欧州留学中の清水徳川家第6代当主・徳川昭武が後継になることになった。諸生党は奥羽越列藩同盟側に加勢し、北越戦争会津戦争等、各地を転戦した後、水戸藩の主導権再奪還を期して水戸へ戻り、弘道館戦争が起きた。敗走した諸生党は続く松山戦争で劣勢へ転じた末、壊滅した。11月に帰国した昭武は慶篤の跡を継ぎ、明治2年(1869年)に最後の藩主となった。

なお、桜田門外の変襲撃者と天狗党らは共に靖国神社へ合祀されている[注釈 48]


注釈

  1. ^ ただし、本画像では両端が一部しか掲載されていない。
  2. ^ 中国)では既に阿片戦争が1840年から2年後まで行われ、不平等条約を欧米列強と結ばされていた。
  3. ^ 徳川斉昭の七男。御三卿一橋家へ養子に入り、当主となっていた。慶喜自身は将軍家襲封に乗り気ではなかったとされ、「骨が折れるので、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうが大きく勝っている」という内容の手紙を父・斉昭へ送っていた(徳川ミュージアム蔵))。徳川慶喜の項を参照。
  4. ^ 家定は病弱で知能障害の説もあるが、松平春嶽が家定を酷評しているのに対し、井伊直弼は「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」としており、将軍継嗣問題の煽りで暗愚と評されたとの説もある[4]
  5. ^ 関白を辞めさせるには幕府の了解が必要とされる。江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度によった。
  6. ^ 千葉県松戸市小金。
  7. ^ 茨城町長岡。
  8. ^ その後、桜田門外の変が起きて密勅は水戸藩領内に留まった。
  9. ^ 後に、この約のもと上京した水戸浪士らは孤立した形となった。さらに、事件後の水戸浪士・関鉄之助が薩摩藩へ向かった折、薩摩入藩を拒否された。薩摩藩・精忠組の一部はこれに一時反発した。
  10. ^ この水戸藩士単独決行の考えは、『斬奸趣意書』の中にも見られる。
  11. ^ 茨城県水戸市紺屋町
  12. ^ これら数名は後から江戸に出て襲撃に加わる手筈であり、道路梗塞もあって江戸へやって来た者が少数となったという[12]
  13. ^ 安藤信正は直弼の側近として安政の大獄の片棒を担いでいたので、攘夷志士から奸賊と見做されていた。安藤は水戸藩士から後に坂下門外の変で襲撃された。
  14. ^ a b 高松松平家彦根井伊家と共に江戸城溜間詰の大名であり、頼胤は直弼と思想的な親交もあったため、条約調印問題や将軍継嗣問題ではどちらも南紀派についた。一方で、高松松平家は水戸徳川家御連枝であり、加えて前藩主・松平頼恕徳川斉昭の異母兄、頼胤の養嗣子・頼聰はその頼恕の実子であった。頼聰は直弼の娘・弥千代と結婚し、水戸藩士らの不評を買っていた。なお、安政の大獄の際、頼胤は本家(水戸家)を監督できなかったとして譴責を受けている。
  15. ^ ただし、前述の様、薩摩藩による京都義挙計画は破綻していた。
  16. ^ 現在の憲政記念館辺り。
  17. ^ 現在の警視庁辺り。
  18. ^ 十八士に、水戸藩士・畑弥平を含む19名。但し一説に、金子、有村、増子は欠席したとされる[16]
  19. ^ 東京都品川区北品川。
  20. ^ 海後の述懐によれば、雪も早く消え、明治時代絵草紙で見るような大雪ではなかったと云う[15]
  21. ^ 18名の他、水戸脱藩浪士の畑弥平も随行した。畑は品川の旅籠に待機していた水戸藩士・金子孫次郎と、国許の水戸藩庁へ現場の様子を事変後報せた[18]
  22. ^ 現在の憲政記念館・国会前庭(北庭)付近。
  23. ^ 事件当日の朝、老中・脇坂安宅が特に直弼邸へ出向き警告を与えたという[21]
  24. ^ 漫画家・みなもと太郎が『風雲児たち 幕末篇』で指摘しているように「刀の柄袋を外させる」「門前に見張りを立てる」位のことは批判されない範囲で可能であり、要するに井伊直弼は警告を本気にしてはいなかったとされる。一方で、直弼の戒名は自ら生前考えていたもので[22]、直弼は既に死を覚悟していた可能性がある。
  25. ^ 現在の桜田門交差点。
  26. ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、徳川斉昭が入手して藩内で模倣して製造させていた物。十八浪士の一人・杉山弥一郎は鉄砲鍛冶であり、この模倣技術との深い関わりについて、今後の研究結果が待たれる。水戸浪士の多くが襲撃の際にこのピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、実際に発砲したものかは定かではないが、このピストルは現物が出現し、そこには高度な施条が刻まれていた。この銃はGHQによって没収された後アメリカに渡り、日本に里帰りしている。コルトM1851の項を参照。
  27. ^ 井伊家中間が、後に語った事によれば、中間は彦根藩の大名行列60名の駕籠後方で馬を引いていたが、「殿様の駕籠へ何者かが、刀を抜き数人斬りかかって、その勢いの烈しく怖ろしい事は言い様もない。駕籠の内か外かは分からないが大音声が一声して、警護の者は八方へさっと逃げ去って、抜き合う士もいないように見えた」ため、馬を引いて直弼邸へ戻ったとしている[26]
  28. ^ その時の永田の刀が、子孫の永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
  29. ^ 水戸浪士・黒澤の刀は奮闘により鋸状になり、その記録を自訴後にとったが[28]、岩崎英重は、黒澤が先に発砲していたため、特に彦根藩士から狙われ悪戦したのではないか、としている[29]
  30. ^ 一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に描かれている。
  31. ^ 2014年現在の警視庁辺り。
  32. ^ 城門のすぐそばを血で汚したままにはできない上に、登城のため通過待ちをしている大名家がいたため。
  33. ^ 山川菊栄は、この遠藤家の皮肉な仕打ちは平生から癪に障っていた譜代大名筆頭25万石の大老が道端で首をかかれた醜態に溜飲を下げ、旗本8万騎の誇りを全うしたつもりだったろう、としている[32]
  34. ^ この時点では公式には「井伊直弼は負傷して治療中で且つ存命」ということになっており、首を渡すとなると「直弼は既に死んでいる」ということになってしまうため。
  35. ^ 和田倉濠(和田倉噴水記念公園)辺り。
  36. ^ 現在の皇居(旧江戸城)・大手門交差点辺り。
  37. ^ 東京都千代田区丸の内2丁目、丸の内二丁目ビル際辺り。
  38. ^ 織田家からの届けによると、山口は「左の後ろから首が落ちかかり、左腕も切れかかり、二の腕も落ちかかり、そのほか数か所の傷」があった[34]
  39. ^ 東京都千代田区丸の内1丁目3辺り。
  40. ^ 東京都千代田区丸の内1丁目6辺り。
  41. ^ 佐渡から能登へ、後に越後ともいう[36]
  42. ^ 現在の新潟県岩船郡関川村南魚沼郡湯沢町越後湯沢温泉とは異なる。
  43. ^ 現在の城里町
  44. ^ 昭和10年、増子の孫によって『桜田烈士増子金八事大畠誠三郎略伝』が出版された。
  45. ^ 現在の常陸大宮市
  46. ^ この薬用人参は松江藩朝鮮から密輸入し、同藩が専売していたものだろうという[20]
  47. ^ なお、生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
  48. ^ 靖国神社には幕末維新に関係した祭神約4200柱が祀られているが、このうち1420柱、約3割を水戸藩士のものが占めている[45]
  49. ^ 水戸市と敦賀市が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだのは、水戸と彦根の和解から約4年前の1965年(昭和40年)4月30日だった[46]
  50. ^ 彦根市と高松市は、水戸と高松を仲介した日から約8年前の1966年(昭和41年)8月15日に親善都市提携があった[47]
  51. ^ 直弼狙撃の実行犯である新説あり[49]
  52. ^ 市五郎は誤記とされる[50]

出典

  1. ^ 『麹町永田町 外桜田絵図』(尾張屋清七版)
  2. ^ 『江戸散歩』東京大学史料編纂所(角川書店、2016年)52~55ページ
  3. ^ 『近世日本国民史 桜田事変』徳富 蘇峰
  4. ^ 畑尚子『幕末の大奥ー天璋院と薩摩藩』(岩波新書、2007年)
  5. ^ a b c 岡村 2012, p.122
  6. ^ 一説に3,000人[5]
  7. ^ 井伊直弼と開国150年祭公式サイト 幕末の政局と井伊直弼”. 井伊直弼と開国150年祭実行委員会. 2014年4月。閲覧。
  8. ^ 岩崎 1911, p.55
  9. ^ 吉田 1985, p.381
  10. ^ 岡村 2012, p.121
  11. ^ 岩崎 1911, p.39
  12. ^ 岩崎 1911, p.42
  13. ^ 岩崎 1911, pp.46-47
  14. ^ a b c d e f 岡村 2012, p.123
  15. ^ a b 山川 1991, p.264
  16. ^ a b c d 岡村 2012, p.124
  17. ^ 岡村 2012, pp.124-125
  18. ^ a b c 岡村 2012, pp.126-127
  19. ^ 岡村 2012, pp.125-127
  20. ^ a b 岩崎 1911, p.179
  21. ^ 山川 1991, p.267
  22. ^ 吉田 1985, [要ページ番号]
  23. ^ 吉田 1984, p. 386.
  24. ^ 吉田 1984, p. 387.
  25. ^ a b 岡村 2012, p.126
  26. ^ 広島県立歴史博物館所蔵『骨董録』より。
  27. ^ 「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録‐読売新聞関西版2010年7月11日付(同日閲覧)
  28. ^ 岩崎 1911, p.270
  29. ^ 岩崎 1911, p.317
  30. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、稲田重蔵、2014年4月閲覧。
  31. ^ 菊地明『幕末証言 史談会速記録を読む』(2017年)
  32. ^ a b 山川 1991, p.265
  33. ^ 宮澤 1993, [要ページ番号]
  34. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、山口辰之介、2014年5月閲覧。
  35. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、岡部三十郎。2014年5月閲覧
  36. ^ 岩崎 1911, p.322
  37. ^ 岩崎 1911, p.323
  38. ^ 岡村 2012, p.128
  39. ^ 岩崎 1911, p.301
  40. ^ 岩崎 1911, pp.310-315
  41. ^ 山川 1991, p.263
  42. ^ 日刊ゲンダイ2023年6月13日号12面
  43. ^ 『明治史要』巻十三(明治12年)54ページ
  44. ^ 岡村 2012, p.127
  45. ^ 岡村 2012, p.159
  46. ^ 水戸市、都市交流、2021年4月19日閲覧。水戸市、敦賀市、姉妹都市交流50周年、2021年4月19日閲覧。
  47. ^ 水戸市、都市交流、2013年3月20日閲覧。彦根市、彦根市について、2013年3月20日閲覧。
  48. ^ 桜田門外の変が争点?…襲撃の子孫が市長選に
  49. ^ NHK『歴史秘話ヒストリア』2015年3月4日放送「銃声とともに 桜は散った〜「桜田門外の変」の謎〜」より。
  50. ^ 岩崎 1911, p.123
  51. ^ 慵斎野処士墓碑銘『近世土浦小史』柳沢鶴吉 著 (常南通信社, 1906)
  52. ^ タウンニュース「桜田門外」裏面史刻む廣福寺・畑権助の辞世碑
  53. ^ 山本秋広『水戸徳川家と幕末の烈公』紀山文集 第三巻(1968年)
  54. ^ 網代茂『水戸綺談』新いばらきタイムス社、1992年。
  55. ^ 『これが水戸黄門だ!』日之出出版、2003年11月19日。久野勝弥「井伊大老首級始末異聞」(『郷土文化』第45号、2004年3月31日)。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
  56. ^ 滋賀彦根新聞、2012年6月8日付け、豪徳寺の墓に井伊直弼埋葬されず? 地下3㍍に石室なく、滋賀彦根新聞社、2014年5月閲覧。






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