薩土密約とは? わかりやすく解説

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薩土密約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/31 08:50 UTC 版)

薩土密約(さっとみつやく/さつどみつやく)は、江戸時代後期(幕末)の慶応3年5月21日1867年6月23日)に、京都小松帯刀(清廉)寓居[1]京都市上京区)で締結された、薩摩藩土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟で、「薩土同盟」とも呼ばれるが、性質の異なる「薩土盟約」も「薩土同盟」と呼ばれるため区別して薩土討幕の密約ともいう。


  1. ^ 近衛家別邸・御花畑屋敷を島津家が借受け、小松帯刀が寓居していた。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 『板垣精神』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年9月10日閲覧。
  3. ^ 『板垣退助 -板垣死すとも自由は死せず-』高知市立自由民権記念館、1994年
  4. ^ 文久2年6月6日付片岡健吉宛板垣退助書簡(国立国会図書館蔵)
  5. ^ 薩摩藩士・大山綱良は日記に「文久2年4月16日、長州永井雅楽ト申仁、専ら奸計ニ而候得共、周旋致候由、岩倉殿弥御正論相立候事、長州公(毛利慶親)早々御下京相成候旨、先達而被仰出候事」(『大山綱良日記』)とあるように、長井雅楽の『航海遠略策』を「奸計」と考える意見が多かった。
  6. ^ 『寺村左膳道成日記(1)』文久2年(1862)10月17日條
  7. ^ a b 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家
  8. ^ NPO法人『板垣会会報』第1号
  9. ^ a b 『日本歴史を散歩する』海音寺潮五郎
  10. ^ 土佐の地名
  11. ^ 土佐藩の力士の名
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
  13. ^ 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社1893年
  14. ^ 赤松小三郎「御改正之一二端奉申上候口上書」”. 蚕都上田アーカイブ. 2017年11月5日閲覧。
  15. ^ 『続再夢紀事 第六』日本史籍協会、1922年、pp.245-252
  16. ^ 近安楼(「ち加やすらう」)「巽バシより切通しの間、松湯、ときは屋のならびにアリ、櫻井屋の向ひ也」
  17. ^ 「石川清之助」は中岡慎太郎の変名。
  18. ^ 西郷隆盛のこと。
  19. ^ 薩長同盟が結ばれたのと同じ場所にあたる。
  20. ^ 中岡慎太郎『行々筆記』慶応3年5月25日條「福(福岡孝弟)・乾(退助)・毛(毛利吉盛)・谷(干城)と喰々堂に集る」より。
  21. ^ 中岡慎太郎『行々筆記』慶応3年5月26日條「今朝、西郷に至り、乾・ 毛・谷決意のことを論じ帰る」より。
  22. ^ ベルギーからの直輸入ではなく、米国南北戦争で使用され、戦争終結後に余剰となった武器類が日本へ輸入されたものと言われる。
  23. ^ a b c 従来は慶応3年6月に起草された『船中八策』を基礎に『新政府綱領八義』が書かれたとされていたが、現在は『船中八策』は、『五箇条の御誓文』と『新政府綱領八義』を混ぜて作られた後世の歴史小説のフィクションであることが確定している。
  24. ^ a b c d 『保古飛呂比』佐々木高行筆、『維新土佐勤王史』瑞山會、『中岡慎太郎』尾崎卓爾著より。
  25. ^ a b c d e f 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
  26. ^ a b c 「龍馬宛て、桂の手紙原本公開 討幕の決意促す」日本経済新聞ニュースサイトで2018年4月12日掲載の共同通信記事(2022年1月1日閲覧)
  27. ^ a b c 『京都養正社所蔵 坂本龍馬書状について』池田敬正著、大阪府立大学、1972年
  28. ^ 8月20日(太陽暦9月17日)の時点で、藩論の大勢は大政奉還論に固められていた
  29. ^ 「この言葉は、現在に置き換えると大東亜戦争敗戦後の北方領土未返還問題、韓国による竹島占領問題、日本国憲法成立時の憲法学上の疑義問題なども総て予見し得るものである」(『板垣退助の伝えたい言葉』板垣退助先生顕彰会、解説編より)
  30. ^ 「詔。源慶喜、籍累世之威、恃闔族之強、妄賊害忠良、数棄絶 王命遂矯 先帝之詔而不懼、擠万民於溝壑而不顧、罪悪所至 神州将傾覆焉 朕、今、為民之父母、是賊而不討、何以、上謝 先帝之霊、下報萬民之深讐哉。此、朕之憂憤所在、諒闇而不顧者、萬不可已也。汝、宜体 朕之心、殄戮賊臣慶喜、以速奏回天之偉勲、而、措生霊于山嶽之安。此 朕之願、無敢或懈」
  31. ^ 「将軍・徳川慶喜が明治天皇に大政を奉還している様子を描いた絵」ではなく「10月13日に二条城において将軍・徳川慶喜が諸藩重臣に大政奉還を諮問している様子を描いた絵」である。
  32. ^ 句読点を追加し、読みにくい箇所は、原文より一部を平仮名に改めた。
  33. ^ 『板垣退助君伝記』宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房2009年
  34. ^ 龍馬自筆本が2枚残っており、国立国会図書館下関市立長府博物館に所蔵
  35. ^ a b 『幕末諸隊100』三才ブックス
  36. ^ 百科事典 王政復古 (日本) (コトバンク)
  37. ^ 徳川内府大政返上将軍辞職ノ請ヲ允シ摂関幕府ヲ廃シ仮ニ総裁議定参与ノ三職ヲ置ク(宮堂上ニ諭告)、『法令全書』慶応3年、慶応3年12月9日、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。
  38. ^ 家近, p. 2495/2967.
  39. ^ 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の兵糧方を務めた坂本柳佐は、慶応3年(1867年)12月12日夕方から夜の二条城内の様子について、「彼のなどは二條城に於きまして、今 丸太町通薩藩會津の藩が、五人一時に殺した とか何とか云ふ注進が参りました、それで其になつて慶喜公出立となりました、それを會藩が 慶喜公御とあれバ此處で残らず屠腹して仕舞ふ と云ふので、夫れから容保と云ふ人が涙を流して諫めた、其處で又 薩藩を何人斬つた と云ふ注進がありました、慶喜公も會津や桑名を留めましたら内部で軍さが起る勢ですから少し斷念したと思はれます、其丈の策畧は無くして、唯一時に早る者ばかり多かつたです」と述べ、慶喜が二条城を出る直前、会津藩士や桑名藩士は暴発寸前であったことが分かる。 「」内の引用元は、『史談会速記録 合本 五』(編著者:史談会 発行所:原書房 発行:昭和46年(1971年)12月10日 復刻原本発行:明治27年(1894年)) 94~95頁。 (原本は『史談速記録 第23輯』「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(一次)附四十九節」九十~九十一頁。)
  40. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第1冊』300~302頁 (著者:太政官 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)10月5日) 復古記 巻十 慶応三年十二月十六日 (2018年9月26日閲覧。)
  41. ^ 『昔夢会筆記』
  42. ^ 『大日本外交文書 第一巻』
  43. ^ 『「薩土討幕の密約」を結び、土佐藩の軍備を近代化した板垣退助。明治の自由民権運動以前の幕末の活躍とは?』”. デジスタイル京都 (2023年1月27日). 2023年1月30日閲覧。
  44. ^ 「(慶応4年)正月十四日夜半過、薩藩川端平助、突然西役所玄関に上座す。其の有り様頗る狼藉なり。則ち警衛我が兵士・関雄之助(沢村惣之丞)、彼が薩人なるを知らず、依って小銃を放てり。是が為即死し、屍を検査するに薩人なり。哀れむべし彼は同志に遅れたるを憤りて駆付たり、我が兵は狼藉と見て突然発砲したり、双方哀れむべし義なれども、大事尽力の際、一つの小事より薩土恨を挟みては、大害にも及ぶべきと佐々木氏(佐々木高行)の果断に出で、速に雄之助に自尽を命じたり。依って薩藩少しも恨みを挟まず。但、小田小太郎(吉井源馬)、野村辰太郎等立会、介錯致候事」(『維新土佐勤王史』)
  45. ^ 板垣退助率いる迅衝隊は、戦地における飲酒、略奪、放火、婦女子に対する乱暴行為を堅く禁じており、違反者は軍法会議に掛けて有罪の場合は即刻処刑を断行すると告知していた。実例を上げると、土佐から進軍しての初戦、備中松山城無血開城ののち、松山城下にいた迅衝隊士が駐留中、軍服を誂えようと北川宅之助配下の足軽・大久保虎太郎、楠永鉄太郎、岡上先之進、国沢守衛の4名が、2月3日、松山城下の呉服店において好みの生地を選び仕立てを頼んだ。売価5両であったものを2両に値切ったが、まけてくれないので「おい、この松山城下は、焼き払われるはずであったものが、我藩のとりなしで焼かれずに済んだのだぞ。にも関わらず諸品を高値で売るとは不埒千万。不足があるなら隠岐守(松山城主)から貰え」と啖呵を切って持ち返ったことが発覚した。双方の証言を吟味し、「民間人に対して略奪同様の行為」と軍律に触れることになる。4人は有罪となり、松山城追手先の堀側に土壇場を築きこれを獄門台とし、大隊司令・高屋左兵衛、軍監・中村禎助が諸隊長と藩兵を率いて整列し、隊長・北川宅之助が4人の隊士に向って、「其方儀、軍法を犯し不届之仕業有之(これあり)に付、断頭被仰付」 と罪名罰状を読み聞かせ、バッサリ、バッサリと濡れ紙を切るような音をさせて首を打ち落とした。このように、強引な値引きであっても略奪同様として堅く禁じた厳しい軍律が守られていた。これは「畏くも「錦の御旗」を奉じて戦う官軍にあっては、菊の御紋に恥じるような行いがあってはならぬ」という板垣退助の考えが貫かれ、のちの帝国陸海軍の戦地での行動規範に引き継がれた(『土佐藩戊辰戦争資料集成』林英夫編、高知市民図書館、2000年)
  46. ^ a b 土佐藩兵2個小隊:小笠原謙吉(迅衝隊三番隊)、谷重喜(迅衝隊四番隊)、北村重頼(迅衝隊砲兵隊)(7門)鳥取藩兵6個小隊:佐分利九允銃士隊、天野祐次隊、藤田束隊、宮脇縫殿隊、建部半之丞隊、山国隊(丹波農民有志による義勇兵)、佐分利鉄次郎砲兵隊(2門)、高島藩半小隊(伍長岩本順吉郎指揮)
  47. ^ 天然理心流の門人・佐藤彦五郎らを中心とした部隊。
  48. ^ a b 『無形板垣退助』平尾道雄
  49. ^ 高松宮家『幟仁親王行実』1933年、184頁、NDLJP:1212495/158
  50. ^ 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』早稲田大学所蔵(所収『板垣精神(解説)』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂、髙岡功太郎解説)
  51. ^ a b 『奥州改元大政元年資料(東武皇帝の閣僚名簿)』による。
  52. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十二冊』390頁417頁 復古外記 奥羽戦記 第六 (太政官、豊原資清編、内外書籍、昭和5年(1930年)5月8日) (2018年10月15日閲覧。)
  53. ^ 上野戦争の頃から輪王寺宮天皇として擁立されるという噂は流れており、慶応4年4月29日(1868年6月19日)、勝海舟日記に「此頃彰義隊の者等、頻に遊説し、其倍多く、一時の浮噪軽挙をとし、官兵を殺害し、東臺に屯集殆ど四千人に及ぶ、其然るべからざるを以て、頭取已下に説諭すれども、敢て是を用ひず、虚勢を張て、以て群衆を惑動す、或は陸奥同盟一致して、大挙を待と唱へ、或は 法親王奉戴して、義挙あらむと云、無稽にして無着落を思はず、有司もまた同ずる者あり、甚敷は 君上の御内意なりとして、加入勸むる者あり、是を非といふ者は、虚勢を示して劫さむとす。」と記し、この時点で彰義隊は「陸奥同盟」と一緒に新政府に反乱を起こすことや、輪王寺宮を奉戴して政権奪取することを企図していたことが分かる。また慶応4年閏4月29日の時点で江戸の勝海舟はすでに「陸奥同盟」という言葉を用いており、輪王寺宮を奉戴してのクーデター構想もすでに彰義隊が江戸で喧伝していたことが分かる。国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』144~145頁『海舟日記』勝安芳筆、改造社昭和3年(1928年)11月5日、閏4月29日條より。
  54. ^ 大山柏著『戊辰役戦史 下巻』時事通信社、1968年、22頁。
  55. ^ 北緯37度35分43秒 東経140度14分37秒 / 北緯37.59528度 東経140.24361度 / 37.59528; 140.24361
  56. ^ a b 伯、凱旋の兵に諭戒す。「戊辰之役、會津陷(お)ちて庄内またその兵を解けり。伯、朝議より凱旋の令を拜し、十月四日、愈々歸還の時に臨て全軍に諭戒して曰く、「不肖、退助、推(お)されて一軍の將となり、當初、剣を仗(たづさへ)て諸君と共に故郷を出るの時、生て再び還る念慮は毫(すこし)も無かりし。屍(しかばね)を馬革に裹(つゝ)み、骨を原野に曝(さら)すは固(もと)より覺悟の上の事なり。想はせり今日征討の功を了(を)へ、凱旋の機會に接せんとは。これ何等の幸(しあはせ)ぞや。獨(ひと)り悲(かなし)みに堪(た)へざるは、吾等、戰友同志は露(つゆ)に臥(ふ)し、雨(あめ)に餐(まか)するの餘(あまり)、竟(つひ)に一死大節に殉じ、永(なが)く英魂(えいこん)を此土(こゝ)に留むるに至り、眸(ま)の當(あた)り賊徒平定の快を見て之(これ)を禁闕(きんけつ)に復奏(ふくそう)する事(こと)能(あた)はざるの一事なり。而(しか)して我等、此の戰死者を置き去りにすと思はゞ、低徊(あてなき)躊躇(さまよひ)の情(こゝろ)に堪(た)へざるものあり。それを何事(なにごと)ぞや諸君らの中に刻(とき)を競(きそ)ふて 南(みなみ)に歸(き)さんと冀(こひねが)ふは。抑(そもそ)も此の殉國諸士の墓標(おくつき)に對(たひ)し心(こゝろ)に恥(は)づ處なき乎(や)」と。而(しか)して軍を二面に割て若松を發し二本松へ向ふに當(あた)り諸隊に令しむるに曰く、「今時(いま)、凱旋奏功の時に臨み、敢(あへ)て惰心を起して王師(にしきのみはた)を汚す者あらば、忽(たちまち)にして軍法を以て處す。然(さ)れば全軍謹んで之(これ)を戒(いまし)めよ」と。依て九日、二本松を過ぐるに臨(のぞ)みては猶(なほ)一層手厚くして毫釐の過(あやま)ちも莫(なか)らしめたり」(『板垣精神』より)
  57. ^ 『板垣退助君伝記』宇田友猪著
  58. ^ 家近1995、196-201頁。
  59. ^ 『谷干城』
  60. ^ 板垣は大政奉還に真っ向から反対している。戦略の一部だと考えていたなら反対しない筈だからである。
  61. ^ 坂本龍馬宛木戸書簡。8月2日付、9月4日付。
  62. ^ 萩博物館『討幕エネルギーの系譜』(平成22年4月17日(土)-平成22年6月20日(日))において明治29年に作られた複製品が記念展示された。
  63. ^ 『保古飛呂比』二、452頁、506-507頁。
  64. ^ 『土佐藩ゆかりの会』会報第9号 論説より
  65. ^ 室町通り鞍馬口下る西入森之木町462附近
  66. ^ “「薩土密約」の石碑 京都祇園に建立 板垣退助の子孫ら集う”. 京都新聞デジタル. (2019年9月23日). https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/25211 2019年12月5日閲覧。 





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