密約の締結とは? わかりやすく解説

密約の締結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 09:31 UTC 版)

薩土密約」の記事における「密約の締結」の解説

慶応3年5月(1867年6月)江戸にいた土佐藩乾退助(後の板垣退助)は、在京中岡慎太郎より四侯会議不発を嘆く手紙を受け急ぎ旅装整え5月18日(太陽暦6月20日)上洛同日京都料亭「近安」で乾と福岡藤次(孝弟)、船越洋之助らと中岡会見し武力討幕密談した翌日乾退助山内容堂拝謁請う許可されず、この日、中岡慎太郎薩摩藩西郷隆盛と乾を会見させよう奔走する慶応3年5月21日(1867年6月23日)、京都料亭大森で再び乾と中岡が策を練り以下の書簡したため西郷送った一筆拝呈仕候。先づ以て益々御壮榮に御坐成さらるる可く、恭賀たてまつり候。今日午後乾退助同道議論罷り出で申したく、よっては大久保先生吉井先生方にも御都合候はば、御同会願いたてまつりたき内情御座候。もつとも強いて御同会願いたてまつると申す訳には、御座なく候。何分にも御都合次第御事存じたてまつり候。尚又今日、昼後の処、もし御不工面に候はば、何時にてもよろしき儀に御座候間、悪しからぬ様、願い上げたてまつり候。右のみ失敬ながら愚礼呈上、如比御座候、以上。(慶応三年)五月廿一日 清之助 再拝 (西郷)南洲先生机下 この中岡の仲介により、同日夕方室町通り鞍馬口下る西入森之木町近衛家別邸薩摩藩家老小松帯刀寓居御花畑屋敷」)において、土佐藩乾・谷干城毛利恭助中岡らと、薩摩藩西郷吉之助(隆盛)・吉井幸輔(友実)・小松帯刀らが会談し、乾は「戦となれば藩論如何に関わらず、必ず30日以内土佐藩兵を率いて薩摩藩合流する」とその決意語り薩土討幕の密約薩土密約)を締結した。この時、乾が江戸築地土佐藩邸(中屋敷)に独断で匿っていた水戸浪士中村勇吉相楽総三里見某らを、彼らの安全確保のため薩摩藩邸への収容依願し、西郷即諾した。(この浪士たちが、のちに庄内藩などを挑発戊辰戦争前哨戦江戸薩摩藩邸の焼討事件発展する西郷吉之助薩摩藩小松帯刀薩摩藩中岡慎太郎土佐藩谷干城土佐藩乾退助土佐藩

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