密約後の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 09:08 UTC 版)
「バーデン=バーデンの密約」の記事における「密約後の展開」の解説
1922年(大正11年)から1923年(大正12年)に永田と小畑が帰国すると、再び会合するようになり、同志も増えて、1927年(昭和2年)ごろ、二葉会を結成した。永田は、鈴木貞一が結成した木曜会と結合しようとし、小畑らの反対にあったが、巧みな政治的手腕によって、1929年(昭和4年)5月、二葉会と木曜会を合併して、一夕会を結成した。 永田と小畑の親密な関係は1928年(昭和3年)秋ごろまで続いた。大佐に昇進してしばらくしてからは、すっかり往来がなくなり、手紙のやり取りもなくなったという。 1932年(昭和7年)、小畑は作戦課長に就任すると、上海出兵や満洲事変に関して作戦本位に計画を立て、容赦なく要求したので、編成課長の東条と衝突し、また軍事課長の永田とも相争うようになった。 1932年後半期には、一夕会は永田を中心とした統制派と、小畑を中心とした皇道派に分裂した。 1933年(昭和8年)、日ソ不可侵条約と東支鉄道買収と対支関係について、永田と小畑は対立した。 1933年8月、荒木陸相は定期異動で永田少将を歩兵第一旅団長に、小畑少将を近衛歩兵第一旅団長に転出させた。永田は1934年(昭和9年)3月に軍務局長に就任したが、小畑は中央に返り咲くことはなかった。
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