深尾重先とは? わかりやすく解説

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深尾重先

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/15 09:22 UTC 版)

 
深尾 重先
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政10年(1827年[1]
死没 明治23年(1890年1月30日
別名 通称:鼎
主君 山内豊信豊範
土佐藩
氏族 深尾家
父母 父:深尾重愷、母:深尾成有娘
養父:深尾重教
兄弟 養兄弟:重哀重愛
養子:重愛(深尾重教の子)
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深尾 重先(ふかお しげもと)は、江戸時代後期の土佐藩の重臣。深尾家当主・佐川領主10代。

略歴

文政10年(1827年)、深尾采女重愷の子として誕生した。

嘉永6年(1853年)に伯父の9代当主・深尾重教が死去した際、重教の子の重愛は幼かったため、重先が養子に入り家督を継ぐ。その際、重愛は重先の養子となる。

安政2年(1855年)、奉行職に就く。勤王家で尊攘論が沸騰し、万延元年(1860年)、藩より蟄居を命じられたため養子の重愛が一時家督を継ぐが、文久2年(1862年)に処分が解かれ復職し、山内容堂に用いられた。そのため重愛は継嗣に戻っている。

慶応3年(1867年)、徳川慶喜が将軍職を辞した時、容堂に従って上京し尽くすことが多かった。鳥羽・伏見の戦いでは、容堂と共に土佐兵を抑えようとしたが、水泡に帰す。慶応4年(1868年)2月の堺事件には容堂に代わって事を処し、同年3月に京師詰を命じられ、7月に参内し土佐藩重臣として藩主を補佐した。明治2年(1869年)6月の版籍奉還後の諸政改革にも力を用い、功績を挙げた。明治4年(1871年)に隠居し、再び重愛が家督を継いだ。

明治23年(1890年)1月30日、死去。享年64。南洋拓殖社長や日本サッカー協会会長等を務めた深尾隆太郎は嫡孫[2]

脚注

  1. ^ 『佐川町誌』(佐川町自治会、1919年)p.387では文化10年(1813年)1月13日生まれ。
  2. ^ 「深尾隆太郞 (男性)」人事興信録データベース第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学大学院法学研究科

出典

  • 『高知県人名事典』高知市民図書館、1970年。
先代
深尾重教
佐川深尾家10代当主
1853年 - 1860年
1862年 - 1871年
次代
深尾重愛



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