低迷期へ
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「バレーボール日本女子代表」の記事における「低迷期へ」の解説
1984年のロサンゼルスオリンピックは、逆にソ連がボイコットして不参加。米田一典監督が率いる全日本は江上由美(丸山由美)や三屋裕子など日立中心のチーム構成で臨み、準決勝で中国に敗れるも3位決定戦でペルーに勝利し銅メダルを獲得。しかし、この銅メダルという不本意な結果に対し「単独チーム方式」では限界があるという声がしだいに大きくなり、1986年の第10回世界選手権では所属チームにこだわらず広く各チームから才能を集める「純粋選抜方式」で挑んだが、結果は7位と沈んだ。 モントリオール大会で世界の頂点を極めた日本女子バレーではあったが、山田は「日本女子バレーの将来は危ない」と危惧していた。 1982年の世界選手権で、小島率いる全日本が4位に沈んだ事もそうだが、それ以前に、1981年から、中国が強くなってきたのだ。かつて、中国に渡った大松の指導が全てとは言わないが、少なくとも成功への下地は大松が作った。 東洋の魔女の大成功は、中国がバレーボールに大きな興味を持つきっかけとなった。当時の社会主義国家が好んだ行動の一つに、スポーツ振興を国家的プロジェクトとして推し進めるというものがあった。国家威信を高める効果を狙っての事だ。 中国は、国家的事業スポーツの一つに、女子バレーボールを選び、巨額の国家予算を自国の女子バレーボール界に割り当てた。その結果、年々優秀な選手が発見、指導、育成されていき、指導する組織も順当に編成されていった。 70年代後半から、強さを世界に示し始めた中国は、80年代初頭になると、女子バレーボール界における世界強豪国の一角となっていた。 その他キューバや東欧諸国の社会主義国家も、バレーボールに力を入れ始めていた。山田は、日立にジュニア育成事業の必要性を熱心に説いたが、日立にすれば、バレーボールはあくまで企業の一事業であり、山田の案を受け入れなかった。 「それならば」と山田は、私費でエリート養成システムを作り、優秀な人材を育成する練習場と寮施設を作り、特別育成選手を全国募集するオーディションを開催。数千人に及ぶ候補者が現れ、その中に「中田久美」がいた。 中田久美は、15歳で全日本に選出され、81年の日立チームが達成した「失セット0での全勝優勝」に貢献した後、1983年に日本代表のスタメンセッターとなり、アジア選手権にて、当時世界最強に君臨していた中国を破る原動力の選手になった選手だ。中田は「稀有な才能と、努力を惜しまない性格が共存していた逸材」であり、かつて日立の練習場には「中田久美は、練習時いつも同じ場所でトス練習をしており、そのいつもの場所の床は、中田の汗で変色していた」という逸話がある。 ロス五輪大会では、ダイエー所属の米田が率いる形になってはいたが、米田は日立の元コーチであり、チーム選考などの重要事項は、総監督山田が決定している事は誰もが知っていた。 ロス五輪全日本女子代表メンバーは、山田が率いる日立メンバーを中心に選ばれた。前年度のアジア選手権にて、日本が苦手だった中国に遂に勝った事や、幾つかのバレーボール強国が、ボイコットで五輪出場を断念した事から、 日本社会の女子バレーボールチームへの金メダル奪取期待値は非常に高まっていた。山田率いる全日本は、準決勝相手が「米国」と予想し、米国対策を徹底的に練り、練習時間を大きく割いた。 しかし、この予想に反して、準決勝の相手は中国になってしまった。中国を分析し、対策するには、時間が足りなかった。中国は、もはや対策不十分で勝てる相手ではなく、日本は準決勝で中国に敗れてしまう。 日本は、最終的には3位でロス五輪を終えた。表彰式にて、中田は、自身の首にかけられた銅メダルをすぐに外した。「欲しかったメダルはこれじゃない」。 日本女子が、ロス五輪大会にて金メダルを逃した事は、日本社会とバレーボール関係者に衝撃を与え、議論がおきた。 「ユニチカの小島か、日立の山田か。どちらかを選ぶやり方ではなく、日本人が一丸となって戦わないと世界には勝てない」という結論から、ディフェンス重視スタイルの、ユニチカ所属小島を全日本監督にすえ、 オフェンススタイル重視の、日立所属山田を強化委員長に据えた。しかし、この人事は「現場に、ただ悲惨な混乱が起きただけ」という結果に終わり、成績も大きく落ちた。この案はすぐに撤回される事になる。 1988年のソウルオリンピックでは中田久美や大林素子など再び日立中心のチーム構成で臨むも、準決勝でペルーに、3位決定戦で中国に敗れて初めてオリンピックでメダル無しに終わった。その後は1992年のバルセロナオリンピックでは5位、1996年のアトランタオリンピックでは9位と成績は下降を続け、2000年のシドニーオリンピック最終予選では3連勝の後に中国・イタリア・クロアチア・韓国に4連敗を喫して初めてオリンピック出場権を逃した。 第20回日本リーグを制した日立の山田は、全日本監督にまたもや返り咲く。山田は、日立チームにおいて、セッター中田久美を中心にしたチームを作り、なおかつ選手の大型化を図った改造を行う事を計画し、成功していた。 ゆえに、山田は、当然、自身の日立チームを中心に、全日本メンバーを結成したが、日本の至宝・全日本の司令塔であり、キャプテンだった中田久美に右膝靭帯断裂事故が起きてしまう。悲願のソウル五輪での金メダル奪取に暗雲がたちこめた。 この出来事も、山田は得意の「執念」で乗り越える。すでに現役引退後のブランクが二年ほどあり、新婚で小田急の監督に就任したばかりの江上由美を復帰させるプランを考えた。 だが、かなりの難題であった。江上自身が声をかけ、江上を頼って、小田急に来た選手も多く、江上には、選手の親への立場もある。小田急も、新監督江上の人気と指導に期待していた。 山田は、小田急の監督に、江上の夫を据える提案・実行を進めた。江上の夫は、大学にてバレー指導をしていたが、山田は、江上の夫に大学監督業を辞めてもらい、小田急での監督に就任させる事で手打ちとした。 江上自身は「日本のピンチですから、自分の事情は後回しです」とこの案を受け入れた。一方、中田は過酷なリハビリを乗り越え、まだ医療が発達していない時代のこの大怪我から1年で復帰を果たす。 とはいっても、中田の右膝は、ほぼ曲がらない状態のままで、強い痛み止めを摂取し、右膝の感覚がほぼないままのプレーだった。しかし、この状態でも、中田久美は実力を発揮し、復帰した江上と共にチームを勝利に導いていく。 ソウル五輪での激戦を勝ち進み、日本の準決勝の相手はペルーに決まった。最終セットにまでもつれ込むも、日本は優勢の場面を迎えた。ところが、試合の終盤、審判は、ペルーに有利で不可解な裁定を、連続で行い続けた。 それまで取らなかったホールディングを急に二度も取るなどの判定が続き、日本は極度にリズムを崩し、この大事な試合を敗戦してしまう。そして、3位決定戦では強敵中国に負け、銅メダルを逃してしまった。 「日本女子バレーボールが五輪でメダルを逃す」という事は、日本人にとって初めての事態であり、日本社会は、女子バレーボールへの批判・不満の声を高らかにあげた。 92年のバルセロナ大会には、中田久美は当初、出場しないつもりだったが、イトーヨーカドーのコーチだった米田が代表監督に就任し、この米田のたっての願いで代表に出る事を決めた。 日本女子と世界との差は、バレーボールの技術がどうこうよりも、身長差と運動能力という、身体構造の違いによる差で勝てない時代になった。その為、世界との差を埋めるには、中田の現場戦術眼がなければ、初めから勝つ見込みはなかった。 中田は「イメージ通りに動かない右膝との付き合いがわかってきた」事と、「アタッカーをいかに上手に活かし、伸ばすかという考え方になった」事で、中田の現場戦術眼は、最盛期を迎え、日本の名選手達を育てる役割を果たしていた。 バルセロナ大会の結果は5位に終わったが、負けた相手は、レベルの高いEUN(旧ソ連)とブラジル。現場レベルでの回想だと「勝負は紙一重だった」そうだが、日本社会は、またも日本女子がメダルを逃した事に失望し、監督と選手に「最低限でもメダルを獲らなければ許さない」という十字架を背負わせ続けた。 何よりも、社会事情が変わってきていた。1991年より、日本社会に重度の経済問題が起きていた。「バブル崩壊」と言われる社会現象で、不動産価格と株価が大幅下落を記録し、景気が日々悪くなっていき、底が見えないほど、落ち続けた。 当時の企業は、リストラと呼ばれる従業員解雇を大量に行う事がお決まりの手段となり、新卒採用を減らし、大量の氷河期世代を産んだ。 なおも、95年には、阪神・淡路大震災が起きてしまい、関西圏企業では、この大地震によるダメージを受けた工場や商業施設の再建設化を迫られる状況が産まれ、企業経営事情はどんどん悪化を辿っていった。 当然、各企業は「保有する実業団バレーボールチームの予算に力を入れる」という判断を決断させる材料が、日々乏しくなっていった。もはやチームの維持すら難しく、コストカット方針がとられた。 時期が少し前後するが、93年にサッカー界に、Jリーグが産まれ、一時的ではあったが、空前の大ブームが起き、大成功を収めた事で、「実業団主体の運営から、プロ化への道を進む」事が色んなスポーツ界で検討され始めた。 「バレーボールもプロ化すべきではないか?」という激しい議論がなされ、行動を起こした人物・何もしなかった人物、それぞれ、バレーボールに籍を置く人物全てのの運命が変わる現実が待っていた。 山田重雄は、バブル崩壊直後時期あたりから、練習場にて指導する機会が極度に少なくなった。山田は、自室で株式売買に集中していると噂された。 かねてから、山田は、私有資産をバレーボール界に惜しげもなくつぎ込んでいたが、株価と不動産の大幅下落による影響で、決算収支に悩んでいたという推測がなされていた。雑に言えば「資金に困っていた」という事になる。 そんな状況下にあっても、山田は「バレーボールのプロ化は、日本のバレーボール界を発展させる」と考え、自身の影響力や政治力を使って、プロ化を強引に推し進めようとした。 まず、自身の所属する日立から始めたが、日立は猛烈に反対した。反対理由はいくつもあげられるが、何より「収益化の具体的プランが何もない。無謀無策」という決定的理由が目立っている。 この日立の回答に対して、山田は、子飼いの日立主力選手9人に、日立に辞表を出させる暴挙を犯して対抗した。この脅迫のような行為に日立は激怒し、チームの廃部を提示し、他企業チームもプロ化反対の立場に並んで賛同した。 この時点で、「日本女子バレーボールのプロ化は、実質なくなった」といえよう。プロ化の急先鋒的旗頭だった山田は、すでに風前の灯火のような存在と化していたが、日立は、なおも怒りを示した。 日立は、突如、山田を解雇し、更に辞表を撤回したはずの日立の9選手の内、大林素子と吉原知子の代表中心クラス選手二名も、突然に解雇した。この突然解雇は、他企業に所属する選手にとっても、無言の圧力にもなった。 解雇に動揺した大林・吉原は、プロ化に成功していたイタリアへ渡ったが、山田の行き先はどこにもなかった。 同時に、山田潰しが始まった。山田は、選手へのセクハラ行為を週刊誌に報道され、世間から猛烈なバッシングを浴びた結果、協会理事を辞任した。同時に、山田の息がかかった協会幹部陣は一掃された。 更に、山田は、株取引の外為法違反をリークされ、書類送検の憂き目にあわされた。こうして、山田は、実質バレーボール界からの永久追放を受け、98年に失意のまま、病死した。享年66歳であった。 そして、バレーボール協会関係者の内、1人として、山田の葬儀に現れる事はなかった。山田は、女子バレーボール界において、空前の大成功を収めたが、同時に、成功の為に強引な手段を使う事も多かった為、敵は多かった。 かつて、ソ連のバレーボール関係者が、山田に対して「ヤマダ。最低4人は友人を作れ。お前の棺を担ぐ人数に必要な数だ。いずれ誰もいなくなるぞ」と述べたそうで、山田はその事を笑い話としていたが、果たして、結果はそうなった。 そして、協会会長だった松平康隆が、辞任を発表し、バレーボール協会は機能不全に陥った。バレーボール協会という存在は、この長きに渡り、個性と指導力の強いトップからのトップダウンのみで動いていた組織だった。 トップになるべき人材がいなくなると、役員達は、お互いに牽制だけを行い、少しでもリスクのある判断を避け続けた。川渕三郎は、著書にて「私には、バレーボールのプロ化は無理に思える。会長がすぐに変わり、本気で責任を取る気概のある人が全くいない。試合運営は地方協会に丸投げし、宣伝も広告代理店に丸投げしている。誰が何をやっているのかわからないまま、お金だけを獲っている組織だからだ」と強く批判している。 このVリーグ騒動に伴う破滅的状況の中で、96年アトランタ五輪大会は行われた。バレーボール協会は、この時期、チームをサポートする力を完全に失っていたようにみえる。例えば、「五輪本番時に、代表チームの為の練習場を抑えなかった件」があげられるが、他にも細かい事項に及べば、不備は数え切れなかった。この状態で五輪で勝てる方が奇跡であろう。吉田国昭率いる代表チームは、厳しい敗戦に終わった。予選リーグのセット数は、3-12の1勝4敗。ウクライナ戦以外の試合全てのセットを落として、敗北した。日本人は「五輪大会にて、完膚なきまでに負け続ける日本女子チーム」という姿を観た事がなかった。日本社会に、「バレーボールは終わった」という衝撃が走った。 この結果に憂慮した協会は、アトランタ大会後の97年、NECで結果を出していた葛和伸元を監督に指名し、日本女子バレー建て直しへの全てを託した。だが、同時に強烈に重い足枷を付けた。「年齢制限」である。 「24歳以下で大型の選手を集めて、世界と闘ってほしい」という内容だ。表向きは「若返りと大型化で世界のトップ入りを目指す」という理由だったが、ベテランを切り離すという、果たして極めて不可解な理由であった。 これには、当時、日本トップクラスの実力者だった吉原知子を代表入りさせまいとする勢力の思惑が働いていた。オリンピック経験者で、チーム主将に任命された多治見麻子は、人事に違和感を感じたと述懐する。 「日本代表に、私がプレイを観た事をないどころか、名前を聞いた事のない選手が何人もいるんです。選手選考基準が不思議でした」。この時、代表に熊前知加子が選ばれていたが、当時は小田急にて、チームのビデオ係だった。 「チームの試合にすら一切出ていない私が、いきなり全日本なんて、意味がわからないじゃないですか」。確かにその通りであろう。勝ち負け以前に、戦った経験のない人間の集団が集められた。それが葛和ジャパンのスタートだった。 葛和は、あらゆる場面で諦めずに戦った。「戦術とか技術とかそういう以前の問題です。闘争心を持ってほしいという所からスタートです」。 葛和は、数年間、怒鳴る事で自分の意志を示した。葛和の怒号に泣きだす選手、怒りだす選手もいたが、葛和は、怒鳴るだけでなく、葛和の持つ独特の選手掌握術で、選手の心を解きほぐしていった。 3年が経過し、小島孝治をして「こんな急に成長するチームは初めてみた」と驚かせるほどに、チームは、葛和が当初に目指した戦う集団になっていた。 だが、主力の多治見の怪我により、葛和ジャパンは、苦難の道に戻される。多治見の膝は、手術が必要なほどに壊れていた。多治見がいたから、ここまで来れた事は、葛和が一番知っているが代表から外さざるを得なかった。 後任主将には、津雲が指名されたが、キャプテンマークは江藤に託された。江藤と多治見は、ジュニアの頃からの付き合いだった事からの葛和の判断だった。「麻子(多治見)の分も、絶対にシドニーに行く」と江藤は決意した。 だが、得点源の大懸に疲労骨折が判明。セッター板橋も調子があがらない事で、葛和は大きな決断をした。NECから竹下佳江、高橋みゆき、杉山祥子を、シドニー五輪最終予選の3か月前に招集する事にしたのだ。 竹下は159㎝、高橋は170㎝と、協会の方針に反するサイズだった。特に竹下の身長に対して、協会からの強い横槍と口出しが来たが、葛和はその声を無視した。 竹下も、その声をわかっており、新加入記者会見にて「私は、勝つために来ました」と宣言し、戦う決意を周囲に示した。新戦力の加わった葛和の代表チームは、竹下と江藤のクイックが、非常に機能した事で、強豪国をことごとく破っていった。 しかし、葛和ジャパンの試練はなおも続く。江藤が右肘の靭帯を断裂してしまったのだ。江藤は、緊急手術を勧められたが、これを断り、「氷水で腕の感覚を一度完全に麻痺させて、その状態で無理矢理に腕を伸ばす治療」という、一般人には想像しがたい「痛くてたまらなかった」と江藤が邂逅するリハビリを続けた。この「アスリートが苦しむレベルの激痛」に抗えたのは、江藤には、戦線離脱した多治見への想いがあったからだった。 そして、大懸は、疲労骨折のまま「経験者の私が出ないと駄目だから」と出場を続けた。大懸の骨折箇所は実に4か所に及んでいた。 日本女子バレーの歴史を紐解くと、必ずといっていいほど、「選手達の自己犠牲」が見え隠れする。彼女達は、自分の骨が砕け、靭帯がちぎれ、筋繊維を引き裂かれる事態になっても、不撓不屈の精神で、コートの上に立って戦ってきた。 彼女達は、その事を犠牲だとは全く思わず、「勝ちたい。そして後輩に繋げたい」という想いだけで戦ってきた。そして、彼女達は、満足できないとしても、それなりの結果を必ず出してきた。しかし、果てしない犠牲を払っても、届かない壁は存在する。「シドニー五輪大会出場を逃す」という、今まで日本女子バレー界が陥った事のない、結果だけみれば、空前の大失敗が待っていた。 予選敗退がきまった試合後の控室は、百戦錬磨の葛和監督をして「とても声をかけられなかった」そうで、成人女性達が発する金切り声と泣き声が混じり合った絶叫の響き渡る異常空間だった。 竹下佳江は「シドニーの十字架」をこの時に背負う事になる。彼女のこの時のチームの最終予選参加期間は、わずか3か月にすぎない。 しかし「感覚的には、たぶん誤って、人をあやめてしまった時って、ああいう感じじゃないかなって思います」と振り返るほどに、精神的に追い詰められた。 竹下は、実に12年もの間、ロンドン五輪でのメダル奪取まで、この悲壮な想いを背負い続けた事になる。予選日程終了後、精魂尽き果てた江藤が日立に戻ると、多治見が門の前で待っていた。多治見は江藤を受け止め、江藤はただ泣き崩れた。 監督・選手達の努力はまるで何もなかったかの如く、各新聞・テレビでは「戦犯」という言葉の暴力のようなワードが何度も使われ、各選手達に言葉の刃が向けられる事態になる。 それは主に、誰にでもわかりやすい「バレーをするには低身長すぎる」という特性を持つ竹下に集中して向けられた。この事に、一時期、葛和は精神の不調に陥ってしまう。 葛和は、何もかもを背負うつもりだったが、選手達に批判が向かう事には耐えられなかった。竹下と大懸は、自身が前を向いて生きていく人生を送る為、一時期バレー界から去ってしまう。 2001年に吉川正博が監督に就任、同年のグランドチャンピオンズカップこそ銅メダルを獲得したものの、アジア選手権では史上初のメダル無し、2002年の第14回世界選手権でも13位タイのワースト記録を更新するなど低迷を続けた。 さらに直後の釜山アジア大会でも中国と韓国相手に1セットも取れずに3位で終わったため、低迷の責任を取る形で吉川監督を含む強化委員全員が辞任する事態となった。
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