低迷期とベルサイユのばら登場
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「宝塚歌劇団」の記事における「低迷期とベルサイユのばら登場」の解説
テレビの普及・娯楽の多様化につれて劇場稼働率は低下し、赤字が連続した。一部に「宝塚とブレーブス球団は阪急の2大お荷物」と揶揄するマスコミもあった。人件費節約のため、1972年4月に満57歳を定年とする定年制度が発表されて7月1日より導入された。 1974年に植田紳爾が脚色した『ベルサイユのばら』が、この窮地を救った。社会現象を巻き起こしていた同漫画を舞台化すると、月・花・雪・星の各組が上演して140万人の観客を動員する大ヒットで空前の宝塚ブームとなった。少女のファンが急増し、宝塚音楽学校の倍率もそれまでの5倍から20倍前後の難関となり「東の東大、西のタカラヅカ」と呼ばれるようになる。ベルばらシリーズで主要な役を務めた榛名由梨・鳳蘭・安奈淳・汀夏子は「ベルばら四強」と呼ばれ人気を集めた。 1975年に、公演期間が約1か月半の年8回公演となる。1976年では宝塚ブームの冷めぬうちに『風と共に去りぬ』を上演し、榛名が二枚目男役として初めて髭をつけた。1970年代から、柴田侑宏が『星影の人』『あかねさす紫の花』などのオリジナル名作を多数発表する。 1978年に、宝塚バウホールが開場する。『ホフマン物語』初演に、以後スター・スタッフの育成を目的として実験的な公演が行われている。 この時期、1970年代後半から、スターが円形の羽を背負うことが恒例となり、以後は徐々に巨大化して舞台を華やかにしている。
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