低迷期、そしてアメリカ時代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 08:07 UTC 版)
「コンクール・デレガンス」の記事における「低迷期、そしてアメリカ時代へ」の解説
コンクール・デレガンスに大きな転機が訪れたのは、戦後を迎えてからのことである。ヨーロッパにもたらした第二次大戦による急激な経済後退は、支配的な地位と富を謳歌していたヨーロッパの貴族階級やブルジョワジーたちにその勢力と経済基盤を大幅に損なわせ、アンシャン・レジームの崩壊を招いた。或いは、当時の数少ない富裕層たちにとっても、激動の時代の中で自動車に対して資金と時間を割くほどの余裕は甚だ持ち合わせていなかった。それ故に彼らを顧客としていたブガッティをはじめとする老舗高級車専門メーカーたちは、たちまち大規模量産メーカーへと苦渋の変節を、あるいは倒産という最悪の選択を強いられることになる。また技術面ではモノコックボディが業界の主流となりはじめたことから、前述の状況と併せて、コーチビルディングビジネスも大打撃を受けることになった。コンクール・デレガンスの出場車の多くは彼らによるワンオフやカスタムボディであったため、その影響が大会の勢いを急速に衰えさせたであろうことは想像に難くない。ヴィラ・デステもその例に漏れず、1951年には無期限の延期が発表された。そして後にヨーロッパが経済の復興を成し遂げたところで、諸所の大会にかつてのような影響力や華やかさが戻ることはなく、その後の欧州には低迷期と言わざるを得ないような状況が長らく続くことになる(ただし大会自体は各地で度々開催されていた)。 ヨーロッパがそのような状況であった一方で、1950年にはアメリカで新たなコンクール・デレガンスが催された。それが、米国屈指の名門ゴルフコース、ペブルビーチ・ゴルフリンクスで行われた、「ペブルビーチ・コンクール・デレガンス」である。その経緯は、「ペブルビーチ・ロードレース(英語版)」と呼ばれるカリフォルニア州における自動車レースの開催が決定した際に、モータースポーツのより社会的で優雅な側面を強調するためにイベントの一つとして追加されたものであった。そのため初期はレースが主なイベントであり、コンクールはあくまでも余興に近い小規模なものであったという(第1回の参加台数はわずか13台であった)。しかし開催する度に参加台数は増加していき(第3回には展示台数が100台を超える)、ペブルビーチは世界でも有数の規模を誇る大会へと変化していくことになる。この欧州からアメリカへの中心地のシフトは、戦後に自動車文化のイニシアティブが欧州からアメリカへと移行したことを意味するとされ、またそれに伴って"自動車の美の震源"までもが同時に移行したようにも認識されている。ただし後者に関して言えば、実際にはこの大会の優勝車がアメリカンな新型のフルサイズ高級車たちに独占されるというようなことはなく、1955年以降にはもはや以前の欧州と同じように戦前の自動車がその総合優勝の地位を独占していく状況であった。逆に1950年から1954年までの数少ない戦後車両(当時の新型車)の総合優勝車においても、初回におけるペブルビーチ・ロードレース開催記念碑的なアメリカのスポーツカー、エドワーズ・R-26の優勝を除けば、残り3回はジャガーやオースチン・ヒーレーといった欧州車が受賞していた。そういった意味では、この大会は、同時期にアメリカ国内で発生した他の自動車競技(ドラッグレースやストックカーなど)と比べるとヨーロッパ色の強いものであった。 その後もアメリカ国内のコンクール・デレガンスは順調に回数を重ねていき、開催地も増加していった。2020年現在まで世界で最も継続して開催されている大会はカリフォルニア州の「ヒルズバラ(英語版)・コンクール・デレガンス」となり、2019年の時点で第63回を迎えている(1956年より毎年欠かさず開催。ただし2020年はCOVID-19で中止が決定されたため、そのカウントはストップとなる)。ちなみに日本では、1963年に濱徳太郎らによって「第一回 CCCJ(日本クラシックカークラブ)コンクール・デレガンス」が催されており、その後第6回までは開催が確認されている(第6回には俳優の三船敏郎が愛車MG-TD(英語版)で大会に参加している)。
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