代表的な落語家
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その他の落語家については落語家一覧、Category:落語家を参照。 落語四天王(らくごしてんのう) 人物詳細は各リンク先を参照の事。初代三遊亭圓朝の弟子の初代三遊亭圓馬・3代目三遊亭圓生・4代目三遊亭圓生・2代目三遊亭圓橘の総称(「圓朝四天王」)。 上方落語で明治に活躍した初代桂文之助・桂文左衛門・2代目月亭文都・初代桂文團治の総称(「明治の上方四天王」) 落語睦会に所属していた6代目春風亭柳橋・8代目桂文楽・2代目桂小文治・3代目春風亭柳好の総称(「睦の四天王」)。 当時、消えかかっていた上方落語の復興に尽力した、3代目桂米朝・3代目桂春團治・6代目笑福亭松鶴・5代目桂文枝の総称(「上方落語四天王」)。 1960年代にテレビを中心にして起こった演芸ブームで台頭した、東京の当時の若手落語家であった7代目立川談志・5代目三遊亭圓楽・3代目古今亭志ん朝・5代目春風亭柳朝の総称(「東京落語四天王」。落語評論家の川戸貞吉は5代目春風亭柳朝を排して8代目橘家圓蔵を加えていた)。 初代三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう) 江戸末期から明治にかけて活躍した落語家。落語筆記や寄席の近代化、新作落語など、落語の近代化に尽くしたため「落語中興の祖」として仰がれ、現在も「圓朝忌」や「圓朝まつり」として法要やイベントに名を遺す。講談的な人情噺や怪談噺を得意とした。人情噺では『塩原多助一代記』『文七元結(ぶんしちもっとい)』など、怪談噺では『牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』『乳房榎(ちぶさえのき)』などが代表作である。後述の林家彦六や後年の桂歌丸が圓朝作の怪談噺を得意としていた。 明治期の名士であり、夏目漱石の小説などにも描かれた。墓は谷中にある。父は初代橘家圓太郎。 5代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう) 旧旗本美濃部家の息子だが、遊びが過ぎて勘当され、芸を志す。当初は落語だけでなく講談もやっていたが、一向に芽が出ず、赤貧生活が続いた。当時の様子は『なめくじ艦隊』に詳しい。講談も含め芸名を15回変えたことでも有名。 戦争中、6代目三遊亭圓生と共に満州巡業に出かけ、そのまま行方不明。戦後、引揚げてから人気落語家になる。十八番に『火焔太鼓』、『唐茄子屋』など。6代目三遊亭圓生をして「道場なら勝てるが、真剣で立会ったら私が斬られる」と言わしめた。 高座で酔って寝込むなどエピソードも多い。長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝、孫は女優池波志乃。 3代目三遊亭金馬(さんゆうていきんば) 大正から昭和にかけて活躍。禿げ頭が特徴で「やかんの先生」とも呼ばれた。 26歳の若さで真打に昇進し、古典を中心に持ちネタが多く、博識で万人向けのわかりやすい落語で人気を集めた。一方で評論家からの受けはよくなく、久保田万太郎やその弟子である安藤鶴夫からは評価されず、敵対関係となっている。代表的なネタは『居酒屋』など。 東宝名人会の専属であったため、定席寄席に出演する機会はなく、実質的にフリーで活動している。 趣味は釣りで、そのことが元で晩年に列車事故に遭い左足を失ったが、それでも釈台で足を隠しながら高座を務めている。 1964年11月、肝硬変により70歳で死去。弟子には人気者となった三遊亭小金馬(後の4代目金馬、現:2代目金翁)がおり、また、東京大空襲で戦災孤児となった知人の中根香葉子(海老名香葉子、のちの初代林家三平夫人)を養女として引き取っている。 8代目桂文楽(かつらぶんらく) 8代目桂文楽・5代目古今亭志ん生は並んで昭和の落語界を支えた。 8代目桂文楽の芸は緻密で、演目は少なかったが絶品とされた。芸に対しては自分にも他人にも厳しかった。本来は桂文楽の「六代目」に当たるが、八は末広がりで縁起がいいということで、勝手に八代目と名乗った。代表的な演目は『明烏(あけがらす)』、『鰻の幇間(うなぎのたいこ)』など。 その芸は一点の狂いもなく行われるのが特徴だったが、1971年(昭和46年)国立小劇場で『大仏餅』を口演中に登場人物の「神谷幸右衛門」の名前が出てこなくなり、「もう一度勉強し直して参ります」と客席に詫びて高座を降りた。その後、高座に上ることなく同年12月に没した。上野西黒門町(現東京都台東区上野1丁目)に住まいがあったため、「黒門町」とも呼ばれた。8代目桂文楽が会長であった落語協会も旧西黒門町にある。 初代林家三平(はやしやさんぺい) 「よしこさーん」などの歌謡フレーズ、ギャグや駄洒落を取り入れたスタイルで、高度成長期に一世を風靡した落語家。客いじりが絶妙で、彼の寄席は常に爆笑の渦であった。落語とバラエティ番組の接点を切り開いたタレントとしても知られる。 父(7代目林家正蔵)に落語の手ほどきを受けるが、父の死後はかつて父の弟子であった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)に師事する。 若いころは芸が未熟と指摘もあったが、大衆の人気は絶大であった。大病から復帰するが間もなく1980年9月、肝臓がんにより54歳の若さで死去。正蔵襲名は遂にかなわず、柳家小三治や月の家圓鏡などの襲名のすすめも辞退し、生涯一つ名で通した。代表的な演目は『源平盛衰記』。 弟子として惣領弟子の林家こん平(2020年12月死去)のほか、ギター漫談の林家ペーなどの色物芸人やタレントも多く抱えており、死後も三平一門は落語協会でも一大勢力となっている。長男の9代目林家正蔵(前名:こぶ平)は存命中に三平に(三平死後はこん平門下に移る)、次男の2代目三平(前名:いっ平)は三平の死後、こん平にそれぞれ弟子入りした。娘は元女優海老名美どり(俳優峰竜太夫人)、泰葉(春風亭小朝元夫人)。孫に林家たま平(正蔵の長男)、林家ぽん平(正蔵の次男)がおり、たま平、ぽん平兄弟は何れも二人の父である9代目正蔵に弟子入りしている。 6代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう) 昭和の落語界を代表する人物の一人で、通称「柏木の師匠」。 元は子供義太夫の出身で、継父に5代目三遊亭圓生を持つ。5代目圓生の師匠である4代目橘家圓蔵門下となり、師匠・継父に優遇されるも、同名跡を襲名するまでなかなか芽が出なかった。戦後、ラジオ東京と専属契約を結ぶと、人気落語家の一人となる。 主に活動の舞台としたのはホール落語で、独演会を多く開くなど、古典落語を中心とした本格的な落語家となる。また、メディアへの出演も多い一方で、『圓生百席』などLPレコード収録も積極的に行った。 その反面、非常に圭角のある人物でもあり、芸に対しての姿勢や自身の古典落語至上主義などもあり、8代目林家正蔵や4代目鈴々舎馬風など終生そりが合わなかった人物も多く、落語協会会長在籍時には自身の真打に対するポリシーから真打昇進を殆ど行わなかった。このため、二つ目が大量に滞留する結果となり、落語協会分裂騒動の伏線になったとされる。 晩年の1978年、大量の真打昇進を巡って5代目柳家小さん執行部と対立し、5代目三遊亭圓楽ら一門を引き連れ、落語協会を離脱し「落語三遊協会」を設立した(「落語協会分裂騒動」)。しかし「三遊協会」は江戸のすべての寄席から締め出しを喰らい、ホール落語を中心として活動することとなった。翌1979年9月3日、自身の79歳の誕生日の高座で小噺を口演後に心筋梗塞で倒れ、死去。前述の騒動の影響もあり、これ以降圓生の名跡は事実上封印状態となっている。 林家彦六(はやしやひころく)(8代目林家正蔵) 通称「稲荷町の師匠」。また「彦六の正蔵」とも言われる。海老名家より一代限りの約束で「林家正蔵」の名跡を借りて「8代目」として襲名。三平の没後は正蔵の名跡を返上し「林家彦六」を襲名した。 古典落語、特に怪談噺や芝居噺で知られ、芝居噺に特化した独演会を岩波ホールで定期的に開いたり、記録映画を多数残している。 曲がったことが大嫌いな性格から「トンガリ」とも言われ、前出の6代目圓生とは終生そりが合わなかった。また、自身にまつわる様々なエピソードを残しており、弟子である林家木久扇(初代林家木久蔵)によりエピソードを元にした新作落語『彦六伝』でネタにされている。 1982年1月、86歳で死去。弟子には前出の木久扇、5代目春風亭柳朝や5代目圓楽門下へ移籍前の三遊亭好楽(当時は林家九蔵)らがおり、このほか「落語協会分裂騒動」で圓生から破門された春風亭一柳(元・三遊亭好生)を客分格の弟子として預かっている。 5代目柳家小さん(やなぎやこさん) 滑稽噺を得意とし昭和中・後期を中心に活躍。特に蕎麦をすする芸が有名。落語界初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されたことでも知られる。 落語協会会長として1976年から24年間にわたり在職し、真打制度の改革に取り組む一方、前述の「落語協会分裂騒動」や弟子であった立川談志一門の離脱(落語立川流設立)を引き起こしている。 メディアやテレビCM出演も多く、永谷園の即席味噌汁「あさげ」や須藤石材のCMも長く務めた。 2002年5月、87歳で死去。面倒見の良さから直弟子数は30名以上、孫弟子や曾孫弟子も含めると落語協会では100名以上の勢力を誇る系譜となっている。また、5代目鈴々舎馬風、10代目柳家小三治(後述)、4代目柳亭市馬と、一門から3人が落語協会会長となっている。 3代目三遊亭圓歌(さんゆうていえんか) 主に新作落語を得意とし、初代林家三平とともに「爆笑落語」の分野の第一人者として活躍。前名の「歌奴」としても知られる。メディア出演も多かったが、圓歌襲名後は高座への出演比率が高くなる一方で、1985年には日蓮宗の僧侶として得度している。 自ら吃音者であったことを逆手に取り、新作落語『授業中(通称:山のあな)』で人気を博した。また、浪曲好きが高じて木村若衛に入門して自作の『浪曲社長』などに導入している。『宮戸川』などの古典落語も演じる一方で、晩年は自叙伝的なネタである『中沢家の人々』を演じる機会が多かった。 以前の落語界の常識を覆し、眼鏡姿での高座出演や江戸落語では初めて女性の弟子(三遊亭歌る多)を真打に育て上げている。2017年4月、88歳で死去。4代目圓歌の名跡を弟子の三遊亭歌之介が2019年3月に襲名した。 5代目春風亭柳昇(しゅんぷうていりゅうしょう) 主に新作落語を得意とし、4代目桂米丸とともに「新作の芸協」と呼ばれる基礎を築いた。桂歌丸が柳昇の落語を聞き落語家になるきっかけとなった。 太平洋戦争に従軍経験があり、手の指を数本負傷した。このことから手を使った表現が多い古典落語より新作落語に比重を置いて活動し、人気の落語家となった。メディア出演も多く、フジテレビ『お笑いタッグマッチ』の司会で人気を集め、自身のネタでもある『与太郎戦記』は書籍や映画化された。ゆうきまさみの漫画『究極超人あ〜る』の春風高校校長・柳昇(やなぎのぼる)のモデルであり、同作のドラマCDでは本人が声を当てている。 2003年6月、82歳で死去。弟子に師匠と同じ新作落語を中心に活動する3代目昔昔亭桃太郎、対照的に古典落語を中心に活動する瀧川鯉昇、新作・古典ともに熟しメディアでも活躍を見せ、芸協の会長となった春風亭昇太らがいる。 桂歌丸(かつらうたまる) 立川談志、5代目三遊亭圓楽らとともに日本テレビ『笑点』の放送開始時からの出演者で、5代目司会も務めた。 積極的なメディア出演の一方で、高座では古典落語を中心に演じ、後年は初代三遊亭圓朝作の怪談噺などの演目や廃れた噺の発掘も積極的に行った。 入門時は5代目古今亭今輔門下であったが、新作中心の師匠との芸風の乖離や香盤に不満を持ったこともあり、一時落語家を廃業。その後、同じ今輔門下の兄弟子である4代目桂米丸門下として復帰し、米丸一門の惣領弟子となった。落語芸術協会会長として2004年から2018年の死去まで在職し、出身地である横浜市にある横浜にぎわい座の2代目館長も務めた。 晩年は度重なる病気との戦いで、「笑点」司会者を勇退してからは高座での活動がメインとなったが、慢性閉塞性肺疾患の影響で酸素吸入が欠かせない状態となっていた。2018年7月、81歳で死去。弟子に桂歌春他4名いる。 10代目柳家小三治(やなぎやこさんじ) 5代目柳家小さん門下で、落語家としては師匠譲りの滑稽噺を中心とした古典落語に加え、多くのネタを持つ落語家として活躍。2004年10月には落語家では師の5代目小さん、桂米朝に続く3人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。 都立青山高校在学中から素人参加の演芸番組に出演し、高校卒業後に5代目小さんに入門。1969年に17人抜きで真打に昇進し、10代目小三治を襲名した。以降は師の死去後も柳派の止め名である小さんを襲名せず、小三治のまま通した。2010年から4年間落語協会の会長を務めており、在任中は数名の抜擢真打も行っている。 高座ではマクラにも定評があり「マクラの小三治」とも称され、エッセイ風の噺や全編マクラだけの高座、さらには高座にグランドピアノを入れて自身が歌唱する演目もかけたことがある。またバイクや俳句、草野球、オーディオ鑑賞など多趣味でも知られた。 2021年10月、81歳で死去。リウマチを抱えながらも最晩年まで現役として活動し、亡くなる5日前まで高座に上がっていた。弟子に柳家喜多八(2016年5月死去)、柳家三三などがいる。 2代目桂枝雀(かつらしじゃく) 上方落語の立役者。神戸出身。元々は実弟(後のマジカルたけし)と素人漫才でならしたが、大学時に落語に転向し、3代目桂米朝に入門。師匠譲りの古典落語を演じる。しかし古典の美学を究めるより、笑いを求めて精進の結果、「爆笑王」の異名を取る。その一方で『貧乏神』『雨乞い源兵衛』『茶漬えんま』『ロボットしずかちゃん』など小佐田定雄作の新作落語を演じることも多く、英語のレッスンを受けて英語落語にも挑戦している。また、本業の落語のほか、タレント・俳優としても活躍。 自身の持論として「緊張の緩和」によって笑いが起こるとした。弟子や妻子にも恵まれたが、晩年は芸に悩んでうつ病になった。円熟期を迎える直前の1999年4月に自宅で首吊り自殺を図り、59歳の若さで死去。 弟子に3代目桂南光、3代目桂雀三郎らがおり、長子の桂りょうばは枝雀の弟弟子である2代目桂ざこばに入門している。 3代目笑福亭仁鶴(しょうふくていにかく) 上方落語を支えた一人で、吉本興業所属のテレビタレントとしても活躍した。 アマチュア時代から数多くの素人参加の演芸番組に出演し、その後6代目笑福亭松鶴に入門したが、一門が松竹芸能所属であったのに対し、仁鶴は師匠の勧めもあり吉本興業に所属し、亡くなるまで同社の所属タレント(2005年以降は吉本興業の特別顧問にも就任)として活動した。このことから「吉本中興の祖」とも評される。『ABCヤングリクエスト』『ヤングおー!おー!』『バラエティー生活笑百科』『大阪ほんわかテレビ』など多くのメディア出演を抱え、「どんなんかな~」「四角い仁鶴がまぁーるくおさめまっせぇ」といったフレーズが人気を呼んだ。妻は吉本新喜劇でも活動した永隆子(2017年6月に死別)。 本業の落語では師匠の教えもあり、バリトンボイスで的確な描写力を持ってじっくりと聴かせる正統派の噺家として上方落語界の重鎮としても活躍した。 2017年以降体調不良が続き、メディア・高座から遠ざかっていたが、2021年8月、骨髄異形成症候群のため84歳で死去。弟子に上方落語協会会長で新作を中心に活動する笑福亭仁智らがいる。
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