7代目立川談志
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「桂文楽 (8代目)」の記事における「7代目立川談志」の解説
「源平盛衰記」は7代目立川談志の売り物であった。しかし、落語勉強会において、8代目文楽は7代目談志にこんな噺をやってはいけないと頭ごなしに叱りつけた。その後理由を尋ねると、調子に乗るといけないので叱った、との事だった。 養子にする話があった。詳細は#子供参照。 7代目立川談志がはじめてとった弟子は10代目土橋亭里う馬である。7代目談志は彼の初名を「立川談十郎」と名付けた。歌舞伎宗家市川團十郎のもじりであり、7代目談志一流の諧謔精神による。しかし8代目文楽をはじめとした師匠連にこともあろうに『團十郎』とはと不興を買い、師匠である7代目談志に無断で「談十」と楽屋帳に記していた。7代目立川談志には生前自筆の書を送っており自宅に額に入れて保管されている。
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7代目立川談志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:14 UTC 版)
後の落語立川流家元である。安藤は二つ目時代の談志を賞賛したが、その後天狗になっている、調子にのりすぎていると批判し続けた。談志はのちに自著で評論家が恣意的に自身の意に沿わない芸人を誹謗して「プロである芸人の芸と商売」を邪魔するのは不当と批判する一方で、芸と芸人へ熱意があると判断した落語評論家の事は高く評価している。談志の安藤批判は後年辛辣さを増し、「安鶴は駄目だよ」「安藤鶴夫みたいなヤツの意見を(三木助は)聞いて(落語の芝浜を)嫌らしくしている」等、安藤の落語評論を否定した。
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