7代目松鶴襲名を巡って
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「笑福亭松鶴 (7代目)」の記事における「7代目松鶴襲名を巡って」の解説
上方落語界と松竹芸能における大名跡である笑福亭松鶴の跡目を巡っては、6代目の晩年以降、以下のような経緯をたどった。 松竹芸能では1986年3月から、翌年の道頓堀浪花座開場に合わせ、6代目松鶴を2代目笑福亭松翁、初代森乃福郎を3代目桂文之助、6代目の実子である5代目笑福亭枝鶴を7代目松鶴とする襲名興行が計画された。しかし、同年9月に6代目松鶴が没したことで、この構想は実現しなかった。 関係者は、改めて5代目枝鶴に7代目を継がせる計画を立てる。ところが、枝鶴はトリをつとめる予定だった浪花座での6代目追善特別興行の初日(1987年9月22日)を無断欠席する(のちに松竹芸能を解雇される)。「松鶴」の襲名は白紙になり、松鶴の名跡は当時松竹芸能の社長であった勝忠男が預かった。 6代目松鶴は、生前に総領弟子の3代目笑福亭仁鶴を7代目松鶴にという「遺言」を残していた。だが、その仁鶴は1993年12月28日の一門の忘年会において松葉に7代目を継がせる意向を示す。事前に相談なくおこなわれたこの指名は、一門に紛糾をもたらした。当時、松葉は6代目の7番弟子だった。 1994年1月14日に仁鶴は吉本興業本社で記者会見を開き、松葉が人格・落語の技量のいずれにおいても「ベター」という持論を述べるとともに、記者の質問に「ぼくの唯一のわがままです」と答えた。この答は、(他の大半の弟子が所属する)「松竹芸能への配慮」と受け止められた。 2月5日に仁鶴以外の全一門による協議により、仁鶴への7代目襲名要請を行い拒絶の場合は仁鶴に発言の撤回を求めるという決議がなされる。しかし、この決議は実行されることなく、2月26日に再度の一門の話し合いが持たれ、そこで松葉への7代目襲名が決定した。生前の松葉と仲のよかった笑福亭鶴瓶は、「ぼくの影響なんかなにもないけどね」と断った上で、松竹芸能の社長に「(7代目は)誰がえぇ?」と問われた際に素直に松葉と答えたとのちに証言している。 襲名披露興行は1996年9月21日 - 9月23日に道頓堀中座で開くことが決まる。しかし、その公演の中日に当たっていた1996年9月22日に松葉は病没した。 松葉に対して没後に7代目を「追贈」するという形が取られ、現在「笑福亭松鶴」の名跡は松竹芸能預かりとなっている。
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