8代目林家正蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:09 UTC 版)
「三遊亭圓生 (6代目)」の記事における「8代目林家正蔵」の解説
特に8代目林家正蔵(後の林家彦六)とは最後まで反りが合わなかったことで知られ、その関係は正蔵が5代目蝶花楼馬楽を名乗っていた頃から悪く、6代目三遊亭圓生襲名当時、「あの人に(大名跡の6代目が)務まる訳がない」と酷評されたことに起因する(圓楽が雑誌取材で明かしていた)。なお、彦六は一時期師匠扇遊亭金三(後の3代目三遊亭圓遊)と共に4代目圓蔵一門に所属していた事もあった。さらに悪化してしまったのは、圓生が落語協会会長を引退した時である。圓生の次は順番からすれば正蔵だったが、協会幹部達は圓生の次は5代目柳家小さんだと暗黙の了解を取っていた。圓生は正蔵に会長就任を要請したが、正蔵は一応断り、もう一度頼まれれば会長を引き受けるつもりだったところ圓生がそのまま帰ってしまったため、2人の対立関係は決定的になってしまったという逸話がある。それまで笑点師弟大喜利で隣り合わせで座っていたのが、この一件以降は実現しなくなった(正蔵が再び師弟大喜利に出演するのは圓楽の弟子楽太郎がメンバーとなって以降。この「楽太郎」という高座名を与えたのは圓生である)。彦六の弟子・林家木久扇は『笑点』でしばしば彦六のモノマネをするが、「お前さんがそんな了見だから圓生さん、あんたの所にゃいいお弟子さんが育たない。」というフレーズを多用する。 衝突を繰り返した圓生と正蔵だが、正蔵は圓生の芸の実力は認めており、正蔵の弟子・林家正雀は『落語百景』(別冊歴史読本/新人物往来社)の中で、「圓生師匠がお亡くなりになったときも、青山斎場に出向いたウチの師匠は、落語の祖・安楽庵策伝の研究で知られる名古屋在住の関山和夫先生に言ってました。「これほどの名人はもう二度と出ないんだから、関山先生、大いに圓生師匠のことを褒めてやって下さいよ」と。感動しましたね」と、語っている。二人の持ちネタが被っていた事もあり、正蔵は圓生の高座を気にしており、時にはステテコ姿のままスピーカー前に行き、じっと聞き入っていたとも語っている。同様に8代目桂文楽も圓生の高座の出来を気にしたと言われている。
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