丸の内駅舎復原事業と東京ステーションシティ計画
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「東京駅の歴史」の記事における「丸の内駅舎復原事業と東京ステーションシティ計画」の解説
東京駅の丸の内駅舎は第二次世界大戦後何度も建て替えの計画が出ていた。1958年(昭和33年)には地上24階、地下4階、高さ88 mの高層ビルに建て替える構想が出たが、当時の建築基準法の高さ31 m規制のために実現不可能であった。東海道新幹線建設に合わせた計画も、新幹線に予想以上の予算がかかったことや、国鉄の中心駅を民衆駅として民間に委ねてしまうことへの国鉄部内の抵抗などから実現しなかった。1981年(昭和56年)には35階建ての超高層ビルに建て替えホーム上部を広場にするという構想が発表されたが、当時の経営破綻状態の国鉄にこれを実現する力はなかった。一方1977年(昭和52年)3月16日の美濃部亮吉東京都知事と高木文雄国鉄総裁の会談において東京駅の建て替えに言及され、これが報道されたことから、東京駅を巡って広く反響を巻き起こすことになった。同年10月21日には、日本建築学会から東京駅を慎重に取り扱うことを求める要望書が国鉄総裁に提出された。さらに1987年(昭和62年)12月11日には再度日本建築学会から、「東京駅丸の内口駅本屋の保存に関する要望書」がJR東日本社長に提出された。12月12日には「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」も発足して、復原を目指した要望書の提出などの活動が始まった。 国鉄部内においても、1978年(昭和53年)頃から駅舎を巡って複数の案の検討が行われていた。赤レンガ駅舎を移転保存して全面新築する案、全面保存する案、ファサードのみ保存する案などに高層ビルの建築計画と合わせて検討されている。1988年(昭和63年)に八十島東京大学名誉教授を座長とする東京駅周辺地区再開発調査委員会では「東京駅周辺地区総合整備基礎調査」を発表し、丸の内側駅舎については現在地での形態保存が適当との報告がまとめられた。この際に駅舎上空の容積率を地区内の他の敷地に移転する方法に言及している。1990年代には引き続き東京駅丸の内駅舎の復原や活性化に関する様々な構想が打ち出されるとともに、保存を考慮した具体的な調査が行われるようになった。 1999年(平成11年)10月、当時の石原慎太郎東京都知事と松田昌士JR東日本社長の会談により、創建当初の形態に復原することで基本認識が一致した。2001年(平成13年)には東京都が「東京駅周辺の再生整備に関する研究委員会」を主宰し、東京駅周辺地区での都市基盤整備に関する課題解決と活力創造を推進するための検討を行い、12月に提言を行った。これを受けて具体的な都市計画決定が行われ、2002年(平成14年)2月15日の石原慎太郎東京都知事と大塚陸毅JR東日本社長の会談により、具体的な復原の作業が動き出すことになった。なお、2003年(平成15年)4月18日に「東京駅丸ノ内本屋」として文化審議会において重要文化財に指定するよう答申が出され、5月30日に重要文化財指定が告示された。 500億円かかると見込まれた復原工事の費用を捻出する手段となったのが、容積率の移転である。高度な業務集積地区において、歴史的建造物の保存・復原や文化的環境の維持・向上を図るために、高い容積率を利用することが望ましくない建物の未利用の容積率を、その周辺の一定地域内において移転することを認める「特例容積率適用区域」(2004年の法改正により特例容積率適用地区に改称)の制度が2000年(平成12年)の建築基準法・都市計画法の改正により認められるようになった。この制度の最初の適用事例として、東京駅周辺地区を指定することが都市計画決定され2002年(平成14年)6月28日に告示された。これにより丸の内駅舎が本来持っている容積率が、JR東日本が関わって八重洲側で開発を進めることになったグラントウキョウの2つのビルだけでなく、三菱地所が開発する東京ビルディング(東京ビル)や新丸の内ビルディング(新丸ビル)などへも移転されることになり、その対価が東京駅の復原事業に充てられることになった。 またこの時期には、東京駅の丸の内側の多くのビルを管理する三菱地所の側でも、丸の内ビルディング(丸ビル)や新丸ビルの老朽化が進んで阪神・淡路大震災以降の耐震基準では相当な補強が必要と判定され、貸しビルとして成り立たないと認識するようになった。このため10年ほどの時間をかけて丸の内地区のビルを一斉に建て替えていく方針となった。これにより、丸ビル(2002年竣工)、三菱信託銀行本店ビル(現三菱UFJ信託銀行本店ビル、2003年竣工)、日本生命丸の内ビル・丸の内オアゾ(2004年竣工)、明治安田生命本店ビル(2004年竣工)、東京ビル(2005年竣工)、三菱商事ビル(2006年竣工)、新丸ビル(2007年竣工)と陸続とオフィスビルが建てられていくことになった。特に丸の内オアゾは旧国鉄本社ビルの跡地に建てられたものであった。こうした丸の内の再開発の進捗もあり、東京駅の乗降客数は第二次世界大戦後長らく八重洲側の方が丸の内側より多かったのが、2002年9月に逆転して丸の内側の方が多くなるという影響もあった。 東京駅北東側の日本橋口については、旧CTCビルを取り壊した後にJR東海が主体となって地上14階、地下3階の丸の内中央ビルを建設し、2003年2月に開業した。1階は駅コンコースになっており、2階には一部新幹線の線路が入り込んでいる。この建物の建設のために、東海道新幹線の第8・9プラットホームを25.2 m新大阪方に延伸し、列車の停止位置も18.1 m新大阪方に移設して、末端側の高架橋を一部撤去している。さらにその北西側にJR東日本の単独事業としてホテル、オフィス、コンファレンスの3機能を備えた地上35階、地下4階のビルが建設され、2007年3月8日にサピアタワーとして開業した。このサピアタワーの開業以来、「東京駅が街になる」というコンセプトのもと、「TOKYO STATION CITY(東京ステーションシティ)」と命名して開発が進められている。 八重洲側でも、駅前広場が増大する交通需要に対応しきれていないといった問題があったことから、駅前広場の再整備と東京駅の新たな顔としての再開発事業を行うことになった。こちらでは、JR東日本の他に周辺地権者である三井不動産、鹿島八重洲開発、国際観光会館、新日本石油とともに共同開発することになり、それぞれの所有する敷地を一体化し、駅前広場をはさんで南北に2棟の超高層ビルを建て、中央部に新しい駅舎とデッキを建設することになった。既存の鉄道会館ビル(八重洲駅舎)を撤去することにより八重洲駅前広場の奥行きを広げることになっている。建物のコンセプトは「水晶の塔」と「光の帆」で、重厚で歴史を感じさせる丸の内側に対して、八重洲側の先進性・先端性を象徴することを期待したものとなっている。中央部はテフロン膜で構成した大屋根で駅全体を覆い、雨風を防ぎつつ駅全体に柔らかい光を落とす、高さ30 m、長さ240 mの空間を創出する構造で、大屋根下の広場空間が駅前広場に直結することになる。 2004年(平成16年)9月10日に八重洲口のツインタワーに着工された。新しいビルはヘルムート・ヤーンによる設計で、延べ床面積は35万6711平方メートルに達する。ツインタワーはグラントウキョウと命名され、北館の「グラントウキョウ ノースタワー」は43階建て、南館の「グラントウキョウ サウスタワー」は42階建てで、2007年(平成19年)11月6日にオープンした。サウスタワーの地下には飲食店街「グランアージュ」が開業している。また鉄道会館内の大丸もノースタワーの低層部に移転開業した。ノースタワーはこの段階では第1期完成であり、引き続き鉄道会館ビルの解体を進めそれと並行して中央部を含む第2期工事に着手された。もともと鉄道会館ビルは八重洲通の正面に建っており、海からの風に対して遮る壁のようになっていたが、ツインタワーに建て替えられてその間が吹き抜けのようになることで、海からの風が丸の内方面に流れ込むことになる。早稲田大学建築学科の尾島敏雄教授のシミュレーションによれば、これにより丸の内側の風速は約1.3倍に、気温は1 - 2度程度下がると計算され、ヒートアイランド対策に貢献するとされている。 鉄道会館撤去後は中央の大屋根部の建設に着手した。この部分はグランルーフと命名された。グランルーフは地上4階地下3階で、2009年(平成21年)4月に安全祈願祭を実施し、7月に工事に着手した。2011年(平成23年)3月23日からジェイアールバス関東の営業施設などが移転して南部先行開業となった。 丸の内駅舎については、2001年(平成13年)の「東京駅周辺の再生整備に関する委員会」で目標として示された、外観の復元を行うこと、南北ドーム見上げ部分の復元を行うこと、現存している部分を可能な限り保存し活用することなどの基本方針に従って、復原の検討が行われた。この工事に際して、JR東日本では「現存する建造物について、後世の修理で改造された部分を原型に戻す」という意味で「復元」ではなく「復原」という言葉を採用している。2007年(平成19年)5月30日に起工式が行われて保存復原工事に着手された。 この復原では赤煉瓦駅舎を恒久的に保存・活用することが目的であるため、耐震性能を確保する必要があった。そこで目標とする耐震性能として、震度5程度では煉瓦壁にひび割れが発生せず、想定する最大の震度7クラスではひび割れは発生するが、大きな補修を加えなくても使用を継続できることと設定した。この耐震性能を満たすために必要な補強量を計算したところ、在来工法では壁の5割ほどに補強を施す必要があったが、免震工法を取り入れると耐震補強はほとんど不要であることが判明した。免震工法を採用する上で課題となったのは、地震時に建物が動くことになるため、特に近接する中央線の高架橋との離隔を確保すること、非免震部と免震部の境界における安全性を確保することであった。様々な検討を行ったが、結局中央線の高架橋との離隔については、北ドームの部分で一部煉瓦壁を撤去して奥に新しい壁を構築することで確保することになった。南ドームについても一部の煉瓦壁を削っている。また境界の問題については変形に追従するエキスパンション・ジョイントを導入することになった。 免震層は、駅舎1階と新たに設ける地下1階との間に設ける方式を採用した。このため駅舎の内部や周囲でまず仮受けする支柱を打ち込み、その後駅舎下に徐々に駅舎を支える縦梁を構築して、仮受け支柱上に設置したジャッキで次第に荷重を受け替えていった。その際に、駅舎は全長335 mに渡って一体の構造物でエキスパンション・ジョイントなどはないため、変形角が1500分の1を超えると煉瓦壁にひび割れが発生することが分かっていたことから、変形角を測定しながら荷重の受け替えを進めた。仮受けが完了した後、従来の基礎であった松杭をすべて除去して地下躯体を構築し、その後免震アイソレータ352基の上に駅舎の荷重を再度受け替える作業を行い、仮受け支柱を撤去して作業完了となった。また一般的な免震建物では30 - 50 cm程度の変位量であるのに対して、中央線高架橋への接触を防ぐ目的でオイルダンパーを158台設置し、これにより変位量を10 cm程度に抑えている。2011年(平成23年)9月末に免震化が完成し、煉瓦のひび割れなどは発生させることなく完了することができた。 駅舎の保存・復原に関しては、当初の駅舎に使用されていた炭殻コンクリートについて圧縮試験の結果から、安全性の問題によりやむを得ず撤去することになった。また戦災を受けた鉄骨については、火災の影響が小さく再活用が可能と判断されたため、一部変形が激しいもののみ補強材を入れるのみで基本的に再利用が行われた。復元する3階部分については鉄骨鉄筋コンクリートで建設され、屋根組も基本的に現代の材料と技術により復原されている。線路側外壁のモルタルは撤去して、この部分と3階の外壁について化粧煉瓦、花崗岩、擬石により復原を行った。 屋根は、創建当初は雄勝産の天然スレート約7600平方メートルで葺かれていたが、戦災復旧に際して鉄板葺きとなり、1952年(昭和27年)、1973年(昭和48年)、1990年(平成2年)と3回にわたって天然スレートでの葺き替えが行われてきた。復原工事前のスレートは登米産のもので、ドーム部と中央部は魚鱗葺き、切り妻部は一文字葺きとなっていたが、復原に当たって創建当初の一文字葺きに統一された。復原にあたって必要とされたスレートは45万7350枚(8790平方メートル)で、13万5450枚(2160平方メートル)は登米産のものを再利用し、雄勝産2万2800枚(430平方メートル)とスペイン産29万9100枚(6200平方メートル)で補う計画とされていた。しかし東日本大震災により宮城県で出荷準備中のスレートが流失・破損し、3万2120枚が不足したことからこの分もスペイン産で補われた。最終的に雄勝産1万5000枚(250平方メートル)、登米産11万1130枚(1480平方メートル)、スペイン産33万1220枚(7060平方メートル)となり、被災したスレートのうち使用可能と判断されたものは南北ドームや中央部など象徴的な場所を選んで配している。 ドーム内部の設計図は1枚しか残っておらず、写真も白黒のものだけであったことから、深井隆東京芸術大学教授の監修により古写真の分析などを用いてレリーフを復原した。南ドーム3階壁面南東側のレリーフのみは、戦災後も一部残存していたことからこれを樹脂を含浸して補強し石膏パーツで強化補強してそのまま取り付けている。 こうして2012年(平成24年)10月1日に復原工事が完成しグランドオープンとなった。復原駅舎は地上3階(一部4階)、地下2階建、延べ床面積約4万3000平方メートルで、このうち駅施設およびトラベルサービスセンターが約7800平方メートル、ホテルが約2万800平方メートル、ギャラリーが約2900平方メートル、地下駐車場が約3600平方メートル、設備室などが約7900平方メートルとなっている。 2013年9月20日には、八重洲側に建設中であったグランルーフがオープンとなった。同時にグランルーフ直下の地下1階の商業施設「キラピカ通り」もグランルーフフロントとしてリニューアルオープンした。グランルーフは、地上3階地下3階建て総面積約1万4000平方メートルで、全長約230メートルの膜状の大屋根を備えている。2階のデッキはノースタワー、サウスタワーそれぞれの2階に直結している。さらに駅前広場の工事が続けられており、2014年秋にバス、タクシー乗り場、一般車乗降場を備えた約1万700平方メートルの交通広場が完成することになっている。外堀通り沿いには、サウスタワー建設時に出土した江戸城外堀の石垣の一部を活用した石垣が設けられる。 東北本線や常磐線などの列車は、1973年(昭和48年)の打ち切り以来東京駅への乗り入れが廃止となっていた。これを、東北新幹線の線路に神田付近で重層化を行うことにより再び東京駅へ乗り入れられるようにする工事が進められている。当初は2013年度開業の予定であったが、東日本大震災の影響などにより遅れ、2014年度を目指して工事が進められ、2015年(平成27年)3月14日に上野東京ラインとして開業した。さらに東京駅の主要3本の通路のうち唯一拡張工事が行われておらず混雑していた北通路は、従来の幅員6.7 m、天井高2.2 mから幅員10.0 m、天井高2.6 mへ拡張する工事が行われることになっており、2020年度の全体完成を目指している。 2020年2月18日、JR東日本は、同年6月17日に商業施設「グランスタ東京」として拡大開業し、北地下自由通路に直結する「グランスタ地下北口」改札が供用を開始する予定であることを発表した。 東京駅丸の内駅舎の復原整備に引き続き、東京駅とJR東日本が連携して丸の内駅前広場の整備が進められてきた。従来駅前広場を斜めに横切っていた都道を移転して再整備し、行幸通りとの連携性を重視して中央付近に約6,500平方メートルの歩行者空間を整備し、その南北に交通広場をそれぞれ整備して、2017年(平成29年)12月7日に全面供用開始された。同日、天皇皇后両陛下、安倍晋三内閣総理大臣、小池百合子東京都知事が出席して完成記念式典が開かれた。また工事開始以来、一時撤去されて収納されていた井上勝像が駅前広場の北西端付近に再設置された。12月8日には、2007年(平成19年)4月以来中止されていた、東京駅を出発する信任状捧呈式の馬車行列が再開された。
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