丸の内駅舎復原事業と東京ステーションシティ計画とは? わかりやすく解説

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丸の内駅舎復原事業と東京ステーションシティ計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)

東京駅の歴史」の記事における「丸の内駅舎復原事業と東京ステーションシティ計画」の解説

東京駅丸の内駅舎は第二次世界大戦後何度も建て替え計画出ていた。1958年昭和33年)には地上24階、地下4階、高さ88 mの高層ビル建て替える構想出たが、当時建築基準法の高さ31 m規制のために実現不可であった東海道新幹線建設合わせた計画も、新幹線予想上の予算かかったことや、国鉄中心駅民衆駅として民間委ねてしまうことへの国鉄部内抵抗などから実現しなかった。1981年昭和56年)には35階建ての超高層ビル建て替えホーム上部広場にするという構想発表されたが、当時経営破綻状態の国鉄にこれを実現する力はなかった。一方1977年昭和52年3月16日美濃部亮吉東京都知事高木文雄国鉄総裁会談において東京駅建て替え言及され、これが報道されたことから、東京駅巡って広く反響巻き起こすことになった同年10月21日には、日本建築学会から東京駅慎重に取り扱うことを求め要望書国鉄総裁提出された。さらに1987年昭和62年12月11日には再度日本建築学会から、「東京駅丸の内口駅本屋保存に関する要望書」がJR東日本社長に提出された。12月12日には「赤レンガ東京駅愛す市民の会」も発足して復原目指し要望書提出などの活動始まった国鉄部内においても、1978年昭和53年)頃から駅舎巡って複数の案の検討が行われていた。赤レンガ駅舎移転保存して全面新築する案、全面保存する案、ファサードのみ保存する案などに高層ビル建築計画合わせて検討されている。1988年昭和63年)に八十島東京大学名誉教授座長とする東京駅周辺地区再開発調査委員会では「東京駅周辺地区総合整備基礎調査」を発表し丸の内駅舎について現在地での形態保存が適当との報告がまとめられた。この際駅舎上空容積率地区内の他の敷地移転する方法言及している。1990年代には引き続き東京駅丸の内駅舎復原活性化に関する様々な構想打ち出されとともに保存考慮した具体的な調査が行われるようになった1999年平成11年10月当時石原慎太郎東京都知事松田昌士JR東日本社長会談により、創建当初形態復原することで基本認識一致した2001年平成13年)には東京都が「東京駅周辺再生整備に関する研究委員会」を主宰し東京駅周辺地区での都市基盤整備に関する課題解決活力創造推進するための検討行い12月提言行った。これを受けて具体的な都市計画決定が行われ、2002年平成14年2月15日石原慎太郎東京都知事大塚陸毅JR東日本社長会談により、具体的な復原作業動き出すことになった。なお、2003年平成15年4月18日に「東京駅丸ノ内本屋」として文化審議会において重要文化財指定するよう答申出され5月30日重要文化財指定告示された。 500円かかると見込まれ復原工事費用捻出する手段となったのが、容積率移転である。高度な業務集積地区において、歴史的建造物の保存復原文化的環境維持向上を図るために、高い容積率利用することが望ましくない建物未利用容積率を、その周辺一定地域内において移転することを認める「特例容積率適用区域」(2004年の法改正により特例容積率適用地区改称)の制度2000年平成12年)の建築基準法都市計画法改正により認められるようになった。この制度最初の適用事例として、東京駅周辺地区指定することが都市計画決定され2002年平成14年6月28日告示された。これにより丸の内駅舎が本来持っている容積率が、JR東日本が関わって八重洲側で開発進めることになったグラントウキョウ2つビルだけでなく、三菱地所開発する東京ビルディング東京ビル)や新丸の内ビルディング新丸ビル)などへも移転されることになり、その対価東京駅復原事業充てられることになった。 またこの時期には、東京駅丸の内側の多くビル管理する三菱地所の側でも、丸の内ビルディング丸ビル)や新丸ビル老朽化進んで阪神・淡路大震災以降耐震基準では相当な補強が必要と判定され貸しビルとして成り立たない認識するようになったこのため10年ほどの時間をかけて丸の内地区ビル一斉に建て替えていく方針となった。これにより、丸ビル2002年竣工)、三菱信託銀行本店ビル(現三菱UFJ信託銀行本店ビル2003年竣工)、日本生命丸の内ビル丸の内オアゾ2004年竣工)、明治安田生命本店ビル2004年竣工)、東京ビル2005年竣工)、三菱商事ビル2006年竣工)、新丸ビル2007年竣工)と陸続とオフィスビル建てられていくことになった。特に丸の内オアゾ旧国鉄本社ビル跡地建てられたものであったこうした丸の内再開発進捗もあり、東京駅乗降客数第二次世界大戦後長らく八重洲側の方が丸の内側より多かったのが、2002年9月逆転して丸の内側の方が多くなるという影響もあった。 東京駅北東側日本橋口については、旧CTCビル取り壊した後にJR東海主体となって地上14階地下3階丸の内中央ビル建設し2003年2月開業した1階は駅コンコースになっており、2階には一部新幹線線路入り込んでいる。この建物建設のために、東海道新幹線の第8・9プラットホームを25.2 m新大阪方に延伸し、列車停止位置も18.1 m新大阪方に移設して、末端側の高架橋一部撤去している。さらにその北西側JR東日本単独事業としてホテルオフィスコンファレンスの3機能備えた地上35階、地下4階ビル建設され2007年3月8日サピアタワーとして開業した。このサピアタワー開業以来、「東京駅が街になる」というコンセプトのもと、「TOKYO STATION CITY東京ステーションシティ)」と命名し開発進められている。 八重洲でも、駅前広場増大する交通需要対応しきれていないといった問題があったことから、駅前広場再整備東京駅新たなとしての再開発事業を行うことになった。こちらでは、JR東日本の他に周辺地権者である三井不動産鹿島八重洲開発国際観光会館新日本石油とともに共同開発することになり、それぞれの所有する敷地一体化し駅前広場はさんで南北2棟超高層ビルを建て、中央部新し駅舎デッキ建設することになった既存鉄道会館ビル八重洲駅舎)を撤去することにより八重洲駅前広場奥行き広げることになっている建物コンセプトは「水晶の塔」と「光の帆」で、重厚歴史感じさせる丸の内に対して八重洲側の先進性先端性を象徴することを期待したものとなっている。中央部テフロン膜で構成した大屋根で駅全体覆い雨風防ぎつつ駅全体柔らかい光を落とす、高さ30 m、長さ240 mの空間創出する構造で、大屋根下の広場空間駅前広場直結することになる。 2004年平成16年9月10日八重洲口ツインタワー着工された。新しいビルヘルムート・ヤーンによる設計で、延べ床面積356711平方メートル達する。ツインタワーグラントウキョウ命名され北館の「グラントウキョウ ノースタワー」は43階建て、南館の「グラントウキョウ サウスタワー」は42階建てで、2007年平成19年11月6日オープンした。サウスタワーの地下には飲食店街「グランアージュ」が開業している。また鉄道会館内の大丸ノースタワー低層部移転開業したノースタワーこの段階では第1期完成であり、引き続き鉄道会館ビル解体進めそれと並行して中央部を含む第2期工事着手された。もともと鉄道会館ビル八重洲通正面建っており、海からの風に対して遮る壁のようになっていたが、ツインタワー建て替えられその間吹き抜けのようになることで、海からの風が丸の内方面流れ込むことになる。早稲田大学建築学科尾島敏雄教授シミュレーションによれば、これにより丸の内側の風速は約1.3倍に、気温1 - 2度程度下がると計算されヒートアイランド対策貢献するとされている。 鉄道会館撤去後中央の大屋根部の建設着手した。この部分グランルーフ命名された。グランルーフ地上4階地下3階で、2009年平成21年4月安全祈願祭実施し7月工事着手した2011年平成23年3月23日からジェイアールバス関東営業施設など移転して南部先行開業となった丸の内駅舎については、2001年平成13年)の「東京駅周辺再生整備に関する委員会」で目標として示された、外観復元を行うこと、南北ドーム見上げ部分復元を行うこと、現存している部分可能な限り保存し活用することなどの基本方針に従って復原検討が行われた。この工事に際してJR東日本では「現存する建造物について、後世修理改造され部分原型に戻す」という意味で「復元ではなく復原」という言葉採用している。2007年平成19年5月30日起工式が行われて保存復原工事着手された。 この復原では赤煉瓦駅舎恒久的に保存活用することが目的であるため、耐震性能を確保する必要があった。そこで目標とする耐震性能として、震度5程度では煉瓦壁ひび割れ発生せず想定する最大震度7クラスではひび割れ発生するが、大きな補修加えなくても使用継続できることと設定した。この耐震性能を満たすために必要な補強量を計算したところ、在来工法では壁の5割ほどに補強を施す必要があったが、免震工法取り入れると耐震補強はほとんど不要であることが判明した免震工法採用する上で課題となったのは、地震時に建物が動くことになるため、特に近接する中央線高架橋との離隔確保すること、非免震部と免震部の境界における安全性確保することであった様々な検討行ったが、結局中央線高架橋との離隔については、北ドーム部分一部煉瓦壁撤去して奥に新しい壁を構築することで確保することになった。南ドームについて一部煉瓦壁削っている。また境界問題については変形追従するエキスパンション・ジョイント導入することになった免震層は、駅舎1階新たに設け地下1階との間に設け方式採用したこのため駅舎内部周囲でまず仮受けする支柱打ち込みその後駅舎下に徐々に駅舎支える縦構築して、仮受け支柱上に設置したジャッキ次第荷重を受け替えていった。その際に、駅舎全長335 mに渡って体の構造物でエキスパンション・ジョイントなどはないため、変形角が1500分の1を超える煉瓦壁ひび割れ発生することが分かっていたことから、変形角を測定しながら荷重の受け替え進めた。仮受けが完了した後、従来基礎であったをすべて除去して地下躯体構築しその後免震アイソレータ352の上駅舎荷重再度受け替える作業行い、仮受け支柱撤去して作業完了となった。また一般的な免震建物では30 - 50 cm程度変位量であるのに対して中央線高架橋への接触を防ぐ目的オイルダンパー158設置し、これにより変位量を10 cm程度抑えている。2011年平成23年9月末に免震化完成し煉瓦ひび割れなどは発生させることなく完了することができた。 駅舎保存復原に関しては、当初駅舎使用されていた炭殻コンクリートについて圧縮試験結果から、安全性の問題によりやむを得ず撤去することになった。また戦災受けた鉄骨については、火災の影響小さく活用が可能と判断されたため、一部変形激しいもののみ補強材入れるのみで基本的に再利用が行われた。復元する3階部分については鉄骨鉄筋コンクリート建設され屋根組も基本的に現代材料技術により復原されている。線路外壁モルタル撤去して、この部分3階外壁について化粧煉瓦花崗岩擬石により復原行った屋根は、創建当初雄勝産の天然スレート約7600平方メートル葺かれていたが、戦災復旧に際して鉄板葺きとなり、1952年昭和27年)、1973年昭和48年)、1990年平成2年)と3回わたって天然スレートでの葺き替えが行われてきた。復原工事前のスレート登米産のもので、ドーム部と中央部魚鱗葺き切り妻部は一文字葺きとなっていたが、復原当たって創建当初一文字葺き統一された。復原にあたって必要とされたスレート457350(8790平方メートル)で、1354502160平方メートル)は登米産のものを再利用し、雄勝産22800(430平方メートル)とスペイン299100(6200平方メートル)で補う計画とされていた。しかし東日本大震災により宮城県出荷準備中スレート流失破損し、32120不足したことからこの分スペイン産で補われた。最終的に雄勝1万5000250平方メートル)、登米111130(1480平方メートル)、スペイン331220(7060平方メートル)となり、被災したスレートのうち使用可能と判断されたものは南北ドーム中央部など象徴的な所を選んで配している。 ドーム内部設計図1枚しか残っておらず、写真白黒のものだけであったことから、深井隆東京芸術大学教授監修により古写真分析などを用いてレリーフ復原した。南ドーム3階壁面南東側レリーフのみは、戦災後も一部残存していたことからこれ樹脂含浸して補強し石膏パーツ強化補強してそのまま取り付けている。 こうして2012年平成24年10月1日復原工事完成しグランドオープンとなった復原駅舎地上3階一部4階)、地下2階建、延べ床面積約43000平方メートルで、このうち施設およびトラベルサービスセンターが約7800平方メートルホテルが約2800平方メートルギャラリーが約2900平方メートル地下駐車場が約3600平方メートル設備室などが約7900平方メートルとなっている。 2013年9月20日には、八重洲側に建設中であったグランルーフオープンとなった同時にグランルーフ直下地下1階商業施設「キラピカ通り」もグランルーフフロントとしてリニューアルオープンした。グランルーフは、地上3階地下3階建て総面積1万4000平方メートルで、全長230メートル膜状大屋根備えている。2階デッキノースタワー、サウスタワーそれぞれの2階直結している。さらに駅前広場工事続けられており、2014年秋バス、タクシー乗り場一般車乗降場備えた1万700平方メートル交通広場完成することになっている外堀通り沿いには、サウスタワー建設時出土した江戸城外堀石垣一部活用した石垣設けられる東北本線常磐線などの列車は、1973年昭和48年)の打ち切り以来東京駅への乗り入れ廃止となっていた。これを、東北新幹線線路神田付近重層化を行うことにより再び東京駅へ乗り入れられるようにする工事進められている。当初2013年度開業予定であったが、東日本大震災の影響などにより遅れ、2014年度目指し工事進められ2015年平成27年3月14日上野東京ラインとして開業した。さらに東京駅の主要3本通路のうち唯一拡張工事が行われておらず混雑していた北通路は、従来幅員6.7 m、天井高2.2 mから幅員10.0 m、天井高2.6 mへ拡張する工事が行われることになっており、2020年度全体完成目指している。 2020年2月18日JR東日本は、同年6月17日商業施設グランスタ東京」として拡大開業し北地自由通路直結するグランスタ地下北口改札供用開始する予定であることを発表した東京駅丸の内駅舎復原整備引き続き東京駅JR東日本連携して丸の内駅前広場の整備進められてきた。従来駅前広場斜めに横切っていた都道移転して再整備し、行幸通りとの連携性を重視して中央付近に約6,500平方メートル歩行者空間整備し、その南北交通広場それぞれ整備して2017年平成29年12月7日全面供用開始された。同日天皇皇后陛下安倍晋三内閣総理大臣小池百合子東京都知事出席して完成記念式典開かれた。また工事開始以来一時撤去され収納されていた井上勝像が駅前広場北西端付近に設置された。12月8日には、2007年平成19年4月以来中止されていた、東京駅出発する信任状捧呈式馬車行列再開された。

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