2004年の法改正
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政府の行政改革(中央省庁等改革基本法)を契機に、日本学術会議も改革が求められるようになる。1997年の第17期初頭、会長の吉川弘之は「日本学術会議はかつてのような大型陳情団体ではない」と宣言し、ほぼ一人で内部討議のための改革提言を書き上げる。吉川は私的諮問委員会 「未来構想懇談会」を設け、日本学術会議としての改革基本構想を議論していき、1999年の連合部会で案を示すが議論は紛糾する。第18期に入ると「日本学術会議の在り方に関する委員会」を設置し、吉川は『学術の動向』に論文を発表。さらに委員会は中間まとめを2002年4月の総会で報告し、これが改革の「学術会議案」になっていく(最終報告書は2003年2月)。 また、中央省庁等改革基本法の第十七条の九には「日本学術会議については、総務省に置くものとするが、総合科学技術会議において、その在り方を検討すること」と定められており、総合科学技術会議は2001年5月に「日本学術会議の在り方に関する専門調査会」を設置。2003年2月に最終報告が出され、同年7月に「日本学術会議の改革の具体化について」がまとめられた。これには学術会議案がかなり反映されたという。 2004年に法改正がなされ、会員はコ・オプテーション(英語版)方式で選出されることになった。所管の総務省が内閣法制局に提出した法案審査資料には、推薦方式変更にあたって「日本学術会議から推薦された会員の候補者につき、内閣総理大臣が任命を拒否することは想定されていない」と書かれていた。改正により組織も7部構成から3部構成になり、縦割りの打破を図られた。政策への提言なども総合科学技術会議との棲み分けが図られた。また、この改革で日本学術会議は科研費の審査委員推薦権を失い、「登録学術研究団体」は「日本学術会議協力学術研究団体」に変わった。 改革案がまとまりつつある2003年、日本原子力研究所の郷信広は、「政府の一組織である日本学術会議は、ほかの政府組織の所掌事項に関しては発言してはならない」と制約を受けているように捉えられることを懸念し、「その結果、日本学術会議には国際学術交流を除けば、抽象的な機能のみが残ることとなった」と指摘した。法改正に伴い2005年に改選・組織再編がなされたが、改正前の第19期だけは1年短縮された2年任期になった。第19期は40代の会員は0名で平均年齢が63.5歳だったものが、第20期では40代会員14名(最年少会員44歳)、平均年齢58.8歳と若返りとなった。しかし国立大学偏重(公立・私立大学会員の減少)、選出地域の偏り(中四国の会員は1名)という特徴も見受けられた。
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