ポップ・アート
ポップ・アート
【英】:POP ART
ポピュラー・アート(大衆芸術)に由来する言葉で、1950年代後半以降、とくに1960年代にイギリス、アメリカで盛んになった現代芸術の最も特徴的な動向のひとつ。イギリスでは、1952〜55年にロンドンのICA(現代芸術研究所)に集まったインディペンデント・グループの中で理論化され、メンバーの批評家ローレンス・アロウェイがポップという言葉を用い始めた。マスメディアや広告に関心を示し、アメリカの大衆文化の影響を受け、伝統や既成の権威への反発、ハイ・カルチャーとサブ・カルチャーの区別を取り払ったことなどが特徴としてあげられ、リチャード・ハミルトンやキタイ、ホックニーなどの作家がいる。アメリカでは、抽象表現主義に反発する風潮の中で現れ、ジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグが先駆者としてあげられる。ありふれたイメージやキッチュを用い、また、ダダに根ざしていたため、しばしばネオ・ダダとも呼ばれる。大衆社会のマス・メディアや大量生産消費社会に関心を持ち、ここからアセンブリッジ芸術やハプニングが派生している。
ポップアート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 13:50 UTC 版)

ポップアート(pop art)は、現代美術の芸術運動(アート・ムーブメント)のひとつ[1]で、大量生産・大量消費の社会をテーマとして表現する。雑誌や広告、漫画、報道写真などを素材として扱う。1950年代半ばのイギリスでアメリカ大衆文化の影響の下に誕生したが、1960年代にアメリカ合衆国でロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホルなどのスター作家が現れ全盛期を迎え、世界的に影響を与えた。
起源
第二次世界大戦後の先進国では、だれもが毎日、大量生産の製品に囲まれ、それらを消費し、テレビや雑誌でその広告にさらされる生活を送っている。ポップアートの運動の中には、これら下世話な製品やサブカルチャー、生活様式を批判する意図をこめたものもあれば、むしろ自分達を取り巻く大量生産・大量消費社会の風景を、山や海や農村にかわる新しい「風景」ととらえ、親しみ深い風景の一部である商品や広告を、淡々とあるいは美しく「風景画」に描こうとするものもあった。
1950年代半ばのイギリス
最初にポップアートが盛んになったのはイギリス(特にロンドン)であった。エドゥアルド・パオロッツィは戦後間もなく、米軍兵士らと共に持ち込まれたアメリカの雑誌の切り抜きでコラージュを作り、すでにポップアートの始まりとなる作品を作っていた。
1952年から、ロンドンのICAというギャラリーで、パオロッツイら若い美術家やローレンス・アロウェイなど評論家が集まり、「インディペンデント・グループ」というグループを組んで芸術と大衆文化のかかわりの研究を続けていた。第二次世界大戦後の疲弊したイギリスに豊かなアメリカから急速に浸透し、若者を夢中にさせていた広告やSFや漫画や大衆音楽などのアメリカ大衆文化に対する皮肉で客観的な目もあったが、これらを敵とするよりはむしろ現代を見直す新しい素材を提供するものとしてどんどん活用しようという発想もあった。「ポップアート」という言葉の誕生は、この研究のさなか、ローレンス・アロウェイが1956年に商業デザインなどを指して「ポピュラーなアート」という意味で使用したときである。
同年、この成果を元にロンドンで『これが明日だ』展が開催された。ここで発表されたリチャード・ハミルトンの作品『一体何が今日の家庭をこれほどに変え、魅力あるものにしているのか』[1]は、雑誌や広告の魅力的な商品やゴージャスなモデル写真を切り貼りしたコラージュで、ポップアートの先駆的作品といわれている。特にボディビルダーの男性が持つロリポップキャンディーの包み紙の「POP」の文字が強い印象を与えた。
ハミルトンは翌年、この展覧会を振り返って「ポップ」(大衆文化)を次のようなものだとした。
通俗的、一過性、消耗品、安価、大量、若々しい、しゃれた、セクシー、見掛け倒し、魅力的、大企業
イギリスのポップアートは1961年、デイヴィッド・ホックニーら多くの若い美術家が出展した『ヤング・コンテンポラリーズ』展で全盛を迎えた。
1950年代末のアメリカ
実際にポップアートが盛んになったのは、ポップの元となる商品や大衆文化の発信地、1960年代のアメリカ(特にニューヨーク)である。戦後のイギリス人にとっては(戦後の日本人と同じく)アメリカの格好いい商品や大衆文化は眩しいものだったが、アメリカ人にとってはどこにでも売っているただの日用品で日常風景の一部であり、むしろ格好悪い物であった。ただ当初はそれを美術に直接使うことは、アメリカの芸術の前衛にあったモダニズムの立場や保守的な観衆から思わぬ強い反発を受けた。
ニューヨークでは1950年代以来ジャクソン・ポロックらに代表される抽象表現主義が全盛を極めており、人間より大きなキャンバスに色彩を展開させ、始めも終わりもない抽象的な色面で全面を覆うオールオーバーな絵画が主流を占めていた。批評家クレメント・グリーンバーグらに主導され、より平面的で、より壮大で崇高な絵画を目指した彼ら抽象表現主義の人々は、モダニズムを信奉する立場であり、「グッド・デザイン」を規範とし、大衆文化を芸術の前進する方向とは逆らう「キッチュ」(ドイツ語の"verkitschen" 「低俗化する」が語源)として退けていた。
これに対し、1950年代末にロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズらが、廃物や既製品のがらくたなど現実から持ってきた物体を絵に貼り付けたり、標的や数字や星条旗の図柄などおよそ絵にはならないありふれたイメージを描き始め、モダニズムの好む「グッド・デザイン」に反するような行動を始めた。彼らのようなアメリカのポップアートの作家は、しばらくの間は「ネオダダ」とも呼ばれていた。ポップアートにはその辺にある既製品をそのまま使用して芸術とするレディメイドの手法など、ダダイスムや反芸術が強く影響していたからである。既製品や既成のイメージを使った彼らネオダダは、抽象表現主義に取り組んでいたアーティストや抽象表現主義に飽き始めていた観客らに衝撃を与えた。
ポップアートの受容
その後、1960年代に入りアメリカのポップアートの代表格ともいえるロイ・リキテンスタインと、商業デザイナーだったアンディ・ウォーホルの二人が、コミックスの拡大模写によって世に出た。大量に印刷され、絵柄も似たり寄ったりの漫画は、既製のイメージの中でも最もキッチュで悪趣味なものではあるが、単純で力強い線などが魅力的であり「グッド・デザイン」を粉砕する威力があった。アンディ・ウォーホルはその後キャンベル・スープの缶、ブリロ(洗剤)の箱、マリリン・モンローなど女優や有名人の写真などいたるところにあるイメージを用いた版画を大量生産した。1961年に渡米していたローレンス・アロウェイがアメリカに「ポップアート」という言葉を紹介し、これらの傾向の呼び名になった。
ポップアートは映画や漫画などの大衆文化同様、観客の心を一瞬で掴む強い魅力的なイメージを持っているのでわかりやすく、しかもアメリカの大量生産品や大衆文化をテーマにしているため、アメリカの豊かさを賛美する魅力的な芸術として歓迎された。逆にここからアメリカの大量生産品や大衆文化の悪趣味さや、商品を大量に消費し豊かになってもなお逃げられない死の影を見出す者もいた。
ウォーホルとリキテンスタインらポップアートの作家たちは、カウンターカルチャーの時代における大衆絵画作家としても成功した。大衆文化の多くはマーケティングにより顧客を調査し、大量に販売し使い捨てられることが常だったが、大衆(特に若者)の側も工業製品的な音楽やイラストばかりでなく、多少いびつでもアーティストと呼べる者が作った個性的な作品による知的刺激や現状への異議申し立てを求めていた。ポップアートも、商品やメディアに囲まれて育った世代の若者の原風景であるスターや商品を魅力的に描いて若者に刺激を与え、その版画作品は熱狂的に受け入れられた。
ポップアートの消滅と継承
ポップアートの熱狂は1960年代末になると、クールで静謐なミニマルアートや大地いっぱいに作品をつくり売買を拒否するようなアースワークに押され、美術の世界から急速に冷める。大衆文化も、異議申し立てを行う若者向けのカウンターカルチャーは再び巨大産業の消費システムに取り込まれ、その先はフォークロア、ヒッピー、ドラッグという現実逃避の方向に流れた。ポップアートの末期は、ドラッグによる幻覚を表現したピーター・マックスらのサイケデリックアートへと変質したが、これらはむしろ商業デザインとして大量消費されてしまう皮肉な結果となった。
広告美術はポップアートの最初の継承者となった。特にポップアートが示した、商品や大衆文化のイコンをもとに刺激的な作品を作るという発想は、広告美術を単に大衆に迎合し商品の情報を提供して消費をあおるだけのものから、商品を記号化し新しいヴィジュアルイメージを構築し、大衆の視覚文化をリードするものに変えた。広告には優れた写真家やイラストレーター、美術家が起用され、純粋芸術の要素を取り入れた個性的で新鮮で洗練された広告美術が登場し、大衆文化の一部としてうけいれられた。
ポップアートの美術界における末裔
今日に至るまで、商品や広告のイメージは洗練される一方、広告による大量消費の呼びかけは日常生活を完全に侵食してしまっている。純粋芸術と大衆文化の間の壁がますます失われるにつれ、大衆的なイメージや大量生産商品を用いた美術はすでに当たり前のようになっている。
たとえば1980年代のニューヨークで大衆文化からの盗用を積極的に推し進めたシミュレーショニズムは、純粋芸術の崩壊と資本主義の高度化に対してポップアートをさらに過激にしたようなものだった。またソ連時代の1960年代からロシアでひそかに制作されていた、ありふれた公式美術の社会主義リアリズムを流用しながらソ連体制やロシア社会を批判した作品群は、ソ連末期以後公開されるようになり、ポップアートをもじって「ソッツ・アート」とよばれていた。
代表的なアーティスト
- ブリティッシュポップ
- エドゥアルド・パオロッツィ
- リチャード・ハミルトン
- R・B・キタイ
- デイヴィッド・ホックニー
- ピーター・ブレイク (画家)
- アレン・ジョーンズ (画家)
- ネオ・ダダ
- ポップアート
- アンディ・ウォーホル
- コンラッド・リーチ
- ロイ・リキテンスタイン
- トム・ウェッセルマン
- クレス・オルデンバーグ
- ジム・ダイン
- ジェームス・ローゼンクイスト
- ラリー・リヴァース
- ジョージ・シーガル
- キース・ヘリング
- ジャン=ミシェル・バスキア
- ロバート・インディアナ
- メル・ラモス
- ピーター・マックス
- エド・ルシェ
- アレックス・カッツ
- エドゥアルド・アロヨ
- ヴィック・ムニーズ
- マリーナ・カポス
- シミュレーショニズム
- ティンガティンガ
日本のポップアート・現代アート
- 草間彌生
- 靉嘔
- 田名網敬一
- 横尾忠則
- ヒロ・ヤマガタ
- 森村泰昌
- 日比野克彦
- 大竹伸朗
- 小沢剛
- 奈良美智
- 明和電機
- ヤノベケンジ
- 中村政人
- スーパーフラット
- 西山美なコ
- やなぎみわ
- 森万里子
- 小林史子 (アーティスト)
- トースティー
- 真珠子
- 渡辺おさむ
- Chim↑Pom
- 会田誠
- 日本画系
脚注
- ^ Livingstone, M., Pop Art: A Continuing History, New York: Harry N. Abrams, Inc., 1990
- ^ 山口藍 - 美術手帖ホームページ
関連項目
ポップアート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 08:43 UTC 版)
「キャンベルのスープ缶」の記事における「ポップアート」の解説
1960年にウォーホルは最初のカンバスを製作し始めたが、彼はその基礎をコミック・ストリップの題材においた。1961年後半に彼はフロリアーノ・ヴェッキ(Floriano Vecchi)にシルクスクリーンの工程を学んだが、彼は1953年以来、タイバー・プレス(Tiber Press)を経営していた。その工程は一般にステンシルのデッサンから始まるけれども、しばしば、接着剤とともに絹に移された引き伸ばした写真から発展する。いずれの場合でも、接着剤が基礎である2次元の陽画像(a positive two-dimensional image)が必要である(陽とは、塗料が現われる余地は残されているという意味である)。通例は、インクはローラーで媒介物に付けられ、それは絹を通り抜け、接着剤を通り抜けない。キャンベルのスープ缶は、ウォーホルの最初のシルクスクリーン作品の1つであった。最初は、合衆国の1ドル紙幣であった。諸片はステンシルで作られた。それぞれの色に1つずつ。ウォーホルが写真からシルクスクリーンに転向したのは、キャンベルのスープ缶のオリジナルのシリーズが製作されたのちのことである。 ウォーホルは、コミック・ストリップの、そして他のポップアートのシルクスクリーンを製作していたけれども、ロイ・リキテンスタインによるコミックの、より完成されたスタイルと競争することを避けるために当時、題材としてスープ缶におそらく自分を格下げした。実際に、彼はかつてこのように言った、「わたしは何かやらなきゃいけないのです、ほんとうに衝撃が大きくて、リキテンスタインとジェームス・ローゼンクイストとはじゅうぶん違っていて、たいへん個人的で、ちょうど彼らがしていることをわたしがしているように見えないようなことを。」1962年2月、リキテンスタインは、レオ・カステリ(Leo Castelli)の名前を取ったレオ・カステリ・ギャラリー(Leo Castelli Gallery)で漫画絵を展示して完売し、ウォーホルの、漫画絵を展示する可能性を終らせた。実際に、カステリは1961年にウォーホルの画廊を訪れ、自分がここで見た作品はリヒテンシュタインの作品にあまりにも似ていると言ったけれども、ウォーホルとリキテンスタインのコミックの美術品は、題材と技法において異なる(たとえば、ウォーホルのコミック・ストリップの諸人物はポパイのようなユーモラスなポップ・カルチャーのカリカチュアであったいっぽうで、リヒテンシュタインのは一般に、冒険とロマンスに夢中なコミック・ストリップから霊感を受けた、ステレオタイプなヒーローとヒロインであった)。カステリはそのとき両方の美術家を代表することを選ばなかったが、しかし彼は1964年に、キャンベルのトマト・ジュース・ボックス(Campbell's Tomato Juice Box)、1964年、や、ブリロ・ソープ・ボックシズ(Brillo Soap Boxes)のようなウォーホルの諸作品を展示することになる。彼は1966年にふたたびウォーホルの作品を展示することになる。リキテンスタインの1962年の展示の直後に、ウェーン・ティーボー(Wayne Thiebaud)の1962年4月17日のアラン・ストーン・ギャラリー(Allan Stone Gallery)での、全米の食品を特集した個展が開かれたが、ウォーホルは、これは彼自身の食品関連のスープ缶の作品を危険にさらしたと感じて、動揺した。ウォーホルはボドリー・ギャラリーに戻ることも考えていたが、しかしボドリーのディレクターは彼のポップアートの諸作品を好まなかった。1961年にウォーホルは、アラン・ストーン(Allan Stone)から、ローゼンクイストおよびロバート・インディアナとの、ストーンの、東82丁目18番地でのギャラリーでの3人展の申し出を受けたが、3人全員がこの申し出には侮辱を受けた。 アーヴィング・ブラム(Irving Blum)が、ウォーホルのスープ缶の絵を展示する最初の画商であった。ブラムはぐうぜん1962年5月にウォーホルのもとを訪ねていたが、そのときウォーホルは、リヒテンシュタイン、ローゼンクイストおよびウェーン・ティーボーとともに、『タイム』1962年5月11日号の記事「ケーキ一切れ派」("The Slice-of-Cake School")で特集を組まれていた。記事中で写真が実際に掲載された美術家はウォーホルだけであったが、これはマス・メディアを操縦する彼の特技を表わしている。ブラムはその日、『100個のスープ缶』(One-Hundred Soup Cans)をふくむ、多くのキャンベルのスープ缶のヴァリエーションを見た。ブラムは、ウォーホルがギャラリー展示の手筈をとっていないことに衝撃を受け、彼にロス・アンジェルスのフェラス・ギャラリーでの7月の展示会を申し出た。これが、ウォーホルの、ポップアートの最初の個展であることになる。あらたに創刊された雑誌『アートフォーラム』(Artforum)のオフィスはギャラリーを過ぎたところにあったが、ウォーホルはブラムによって、それが展示会の記事を掲載するにちがいないと確信した。この展示はウォーホルの最初の画廊個展であっただけでなく、ポップアートの西海岸での初公開であると見なされた。アンディ・ウォーホルの最初のニュー・ヨークでのソロのポップ(Pop)展覧会は1962年11月6日から24日までエリノア・ウォード(Eleanor Ward)のステーブル・ギャラリー(Stable Gallery)で開かれた。展示された作品には、『マリリンのディスパッチ』(Marilyn Diptych)、『緑色のコカ・コーラのびん』(Green Coca-Cola Bottles)および『キャンベルのスープ缶』(Campbell's Soup Cans)もふくまれていた。
※この「ポップアート」の解説は、「キャンベルのスープ缶」の解説の一部です。
「ポップアート」を含む「キャンベルのスープ缶」の記事については、「キャンベルのスープ缶」の概要を参照ください。
「ポップアート」の例文・使い方・用例・文例
- Driscollはポップアート運動の代表的芸術家で、この展覧会では彼の絵画やデッサン、シルクスクリーン、彫刻を含む、200 点もの作品を紹介しています。
- 米国のポップアート作家(1928年生まれ)
- 米国のアーティストでポップアートの提案者(1930年生まれ)
- 米国の画家で、ポップアートの主要な提唱者(1923年−1997年)
- 米国の芸術家で、ポップアート運動のリーダー(1930年−1987年)
- ポップアートという様式の芸術作品
- ポップアートという,日常生活の中のものを用いる芸術様式
- キティタウンルームは,買い物をしたり遊園地で楽しんだりしているキティを描いた,ポップアート風のデザインを売りにしている。
ポップ・アートと同じ種類の言葉
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