貞明皇后
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貞明皇后 | |
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![]() 1912年(大正元年)撮影 | |
第123代天皇后 | |
皇后 | 1912年(大正元年)7月30日 |
皇太后 | 1926年(昭和元年)12月25日 |
誕生 |
1884年6月25日![]() (現:東京都千代田区神田錦町) 九条殿 |
崩御 |
1951年5月17日(66歳没)![]() |
大喪儀 | 1951年(昭和26年)6月22日 |
陵所 |
![]() (現:東京都八王子市長房町) 多摩東陵 |
諱 | 節子(さだこ) |
旧名 | 九条節子 |
追号 |
貞明皇后 1951年(昭和26年)6月8日 追号勅定 |
印 | 藤 |
氏族 | 九条家(藤原氏) |
父親 | 九条道孝 |
母親 | 野間幾子 |
配偶者 | 大正天皇 |
結婚 | 1900年(明治33年)5月10日 |
子女 |
昭和天皇(裕仁親王) 秩父宮雍仁親王(雍仁親王) 高松宮宣仁親王(宣仁親王) 三笠宮崇仁親王(崇仁親王) |
身位 | 皇太子妃→皇后→皇太后 |
昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。
生涯
生い立ち
1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生。道孝は明治4年(1871年)に正室和子を亡くしており、幾子は道孝の側室だった。
同年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と[1]呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ[2]。
大河原家は高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であったが、大河原家の敷地内には稲荷神社の祠もあった[3]。また、養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた[3]。
1888年(明治21年)には、赤坂福吉町の九条家に戻る。
皇太子妃候補として
1890年(明治23年)9月1日、華族女学校(後の女子学習院)初等小学科に入学し、1893年(明治26年)には高等小学科に進学する。さらに1896年(明治28年)には初等中学科に進学する。華族女学校では下田歌子、石井筆子、津田梅子らに師事した。中でも、石井筆子との師弟関係の絆は強く、公私の交際は生涯に亘って続いた。
当初、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛親王の長女である禎子女王が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇と皇后美子とも対面していた[4]。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され[注釈 1]1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。
九条節子は、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたこと、更には政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった。最終的には消去法にて、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された[5]。また、大河原家にあった幼少期の写真は没収された[6]。
皇太子妃時代
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結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王(当時)と節子
(1900年撮影) |
1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定された皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった[7]。節子は、和装と洋装を計5回着替え、明治天皇と皇后美子への拝礼を含む多くの行事をこなした。
婚儀は従来の公家様式に代わる、新たな様式であり[8]、婚礼の儀式や行事は、当時の最新マスメディアである新聞によって詳報され、一般市民の関心を集めた。そこで、翌1901年(明治34年)礼法講習会[注釈 2]が日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに日本社会に広く普及していった[8]。
結婚式の日の様子として、ドイツ帝国からの”お雇い外国人”であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した。一方、節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた[9]。
同年5月23日から6月7日にかけて皇太子同妃は、伊勢の神宮や神武天皇陵への奉告を含め、東海~近畿地方を旅行した[注釈 3]。
還御した嘉仁親王と皇太子妃節子は、それぞれ別に国学、漢学、フランス語等の教育を受けた[10]。成婚当時は教育係の老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路の指導が自分の素養に大きく役立ったと感謝していた[11]。当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた[12]。特に大磯と日光には鍋島直大侯爵の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた鍋島伊都子(梨本宮守正王と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた[13]。
成婚後すぐに懐妊したため、宮中祭祀等には出られなかった[14]。20世紀の最初の年である1901年(明治34年)4月29日、満16歳(数え年18歳)で、第一皇男子(第一子)の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を出産した。しかし、このとき皇太子は葉山に滞在しており、4日後の5月3日になって義母の皇后美子が内孫と対面するのに合わせて帰京した[15]。迪宮は生後70日の7月7日に、川村純義伯爵(海軍中将)に預けられた。
嘉仁親王は地方行啓や、御用邸への滞在で不在がちであった。節子妃は孤独の中で第二子を懐妊し、精神的にも深く落ち込んだ[16]。この頃、下田歌子が神功皇后の故事にちなんで、節子妃を励ました[17]。1902年(明治35年)6月25日、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した。しかし、嘉仁親王は葉山に滞在して不在であり、7月22日に東宮仮御所に戻った[18]。節子妃と淳宮の母子は、葉山で過ごしたのち、淳宮は兄迪宮と同様に川村伯爵に預けられた。
成婚当初、皇太子と同妃節子が揃って過ごす機会は少なかった。1903年(明治36年)5月26日から6月10日にかけ、第五回内国勧業博覧会への台覧のため、皇太子同妃は大阪へ行啓した[19]。明治天皇と皇后が別々に行動したのに比し、皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった[19]。
帰京後の8月10日に第三子を懐妊するが、同月25日に流産した[20]。翌年に再び懐妊し、1905年(明治38年)1月3日に第三皇男子(第三子)光宮宣仁親王(のちの高松宮)を出産した。前年に川村伯爵が死去しており、迪宮と淳宮は沼津御用邸に移っていた。3月22日、皇太子妃節子は光宮とともに沼津に行啓し、3人の子供たちとの時間を持つことができた。光宮はそのまま沼津に、迪宮と淳宮は青山の東宮仮御所に隣接する皇孫仮御所に移った。皇太子妃節子は、別離の悲しみを和歌に残している。
ベルツは、帰国前の1905年(明治38年)の様子として、親子が同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子が成婚以前の快活な様子を取り戻したことや、家庭を持った皇太子にも良い影響があったと記している。週に数日とは言え、家族の時間を持てるようになったことは夫妻にとって喜ばしい一方、やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった。
1907年(明治40年)10月、皇太子妃節子が長年師事した下田歌子(学習院教授兼女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた乃木希典と対立して退職した[21]。翌1908年(明治41年)4月からは迪宮が、翌年からは淳宮が学習院に入学した。
1909年(明治42年)5月29日、皇太子同妃は横須賀に行啓し、戦艦敷島に乗艦して海軍の演習を台覧した[22]。軍事演習を台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌を33首も残すほど強い印象を受けた[23]。同年には、御成婚祝の新居として建設された東宮御所(赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子供たちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった[24]。
翌1910年(明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する和歌を遺すようになる[25]。体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が浜離宮や葉山へ誘った[26]。翌1911年(明治44年)1月27日には、姉の大谷籌子(西本願寺法主・大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸に滞在し、3月27日に発熱、3月31日に腸チフスの診断を受けた[27]。4月4日以降、回復傾向と伝えられ、7月1日に全快した[28]。長期の静養の間、皇太子や迪宮が葉山を直接見舞うことは無く[29]、また皇后は自ら賢所で祈願した米(賢所御供米)を贈った[28]。
皇后時代
1912年(明治45年・大正元年)7月30日、義父・明治天皇の崩御に伴う、夫・嘉仁親王の皇位継承(践祚)により皇后となる。3年後の1915年(大正4年)11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した。
1915年(大正4年)12月2日、第四皇男子(第四子/末子)澄宮崇仁親王(のちの三笠宮)を出産。
翌1916年(大正5年)春、神武天皇二千五百年山稜式年祭に合わせて天皇と共に関西に行幸啓し、一部別行動をとった[30]。3月29日に皇后は東京を発ち、名古屋を経て[注釈 4]、4月1日に伊勢の神宮を平安装束で参拝した[31]。皇后の天照大神への傾倒ぶりを示すように、新婚の15年前とは参拝の方法が全く異なっていた[31]。翌2日、春日大社を参拝後、京都で天皇と合流した[31]。翌3日は夫妻で神武天皇陵を拝礼し、4日は正倉院及び奈良帝室博物館を行幸啓し、その後、単独で奈良高等女子師範学校に行啓した[32]。皇后は正倉院で、光明皇后に対する関心を深めた[33]。4月5日、皇后は単独で京都を訪問した[33]。少女期以来の訪問となる京都御所では、昨年の即位礼のごとくかがり火がたかれ、大嘗祭のまま保存されていた各殿舎に拝礼し、大嘗祭を追体験した[34]。翌4月6日は、明治天皇陵及び昭憲皇太后陵への参拝後、九条家の菩提寺東福寺に行啓した[34]。東福寺では、妹大谷紝子(大谷光明夫人)や九条篷子(渋谷隆教男爵夫人)、義妹九条武子(九条良致夫人)ら九条家及び京都仏教ゆかりの人々と面会した[35]。4月7日は紫宸殿で高御座・御帳台を見学後、関西行啓中の裕仁親王と会い、さらに翌4月8日は石清水八幡宮を参拝後、皇后の希望で二条城へ行啓した[36]。4月9日、名古屋の熱田神宮を経由して帰京[37]。
その後も、たびたび天皇の行幸に同行した。昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組んだ。養蚕業に関心を持ち続け、1917年(大正6年)及び1920年(大正9年)に関東近郊の紡績工場を訪問している[38]。灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた[39]。
日本赤十字社により、1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。皇后は4回、見舞金を下賜している。また実際に、単独公務として日本国内の施設に収容されたポーランド孤児たちを慰問するなどもした。
華族女学校時代の恩師である石井筆子と、その夫の石井亮一が経営する滝乃川学園(日本最初の知的障害者施設)を物心両面から支援し、それは生涯にわたって続いた。1921年(大正10年)に、滝乃川学園が園児の失火から火災を起こし、施設が焼失し、園児にも死者が出たことから、事業の継続を一時断念した石井夫妻に、内旨と下賜金を贈り、再起を促したのも皇后の尽力であった。そのため、学園では、創立者の石井亮一・筆子夫妻、理事長の渋沢栄一に加え、貞明皇后を「学園中興の母」として語り継ぎ、今なお崇敬している。
やがて大正天皇の体調悪化が顕著となり、1919年(大正8年)秋には自ら新嘗祭を執り行えない事態となった[40]。翌1920年(大正9年)春から、政府は天皇の体調不良を公表するようになる[41]。
一方、皇后は救癩事業(ハンセン病)に使命感を抱くようになり、沼津御用邸へ赴く途上、ハンセン病療養施設「神山復生病院」があることに気付くと、翌1921年(大正10年)に下賜金を与えて活動を支援した[42]。皇太子裕仁親王の欧州訪問については当初反対の立場で、下田歌子を通じ霊能者と称する飯野吉三郎の「霊旨」にも影響されていたが、やがて容認に傾いた[43]。原敬首相は、皇后の反対理由が天皇の体調問題にあると見抜き、皇后から「政事に干渉せざる積なり」との譲歩を引き出して皇太子洋行を実現させた[44]。皇后は神功皇后に縁深い香椎宮(福岡)や住吉大社(大阪)に使者を派遣し、皇太子の無事を祈願した[44]。皇太子が帰国後、後宮改革に着手しようとすると、一夫一妻制を推進していたはずの皇后は難色を示した[45]。
大正天皇の療養、皇后単独での活動
1921年(大正10年)11月25日、大正天皇の「久シキニ亘ル疾患」を理由に、皇太子裕仁親王が満20歳(数え年21歳)で摂政に就任した[46]。大正天皇は実権を喪失した。
この摂政就任に際し、その正当性の強調のため大正天皇は幼少期の病に起因した「御脳力の衰退」等の病状があることが公表された[47]が、天皇自身はまだ言葉や判断力も明晰で、葉山御用邸近傍に行幸することも可能だった[48]。侍従の間では、在位を続けるべき派と、引退して療養に専念すべき派で対立が続いていた[49]。
こうした中、1922年(大正11年)3月、貞明皇后は大正天皇の快癒祈願のため、福岡県への行啓を行った[50]。皇后の九州行啓は、神功皇后以来とされた一方、天皇が重態と推測されることから盛大な奉迎は見送る世相であった[51]。しかし、最終的には主目的の香椎宮の他、福岡県内の神社や公的機関、経路上の厳島神社(広島県)や住吉大社(大阪府)が追加され、さらに皇后の希望で海軍兵学校在学中の第3皇子高松宮宣仁親王との面会も設けられ、皇后単独としては異例の大規模な行啓となった[52]。こうして3月21日、香椎宮で皇后が計20分に及ぶ長い祈りを神功皇后に捧げたのと同日、宮中では皇太子裕仁親王により春季皇霊祭が執り行われていた[53]。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災発生当時、天皇・皇后は日光田母沢御用邸に滞在中だった。皇后は天皇に代わる政治的主体として動き、9月13日に「宮内省巡回救療班」を設置し、計8万枚配布したビラには、皇后の御心に由来するメッセージが記されていた[54]。第2皇子秩父宮雍仁親王は直ちに帰京し、9月3日に被災地を巡回したが、摂政宮皇太子は事態対応に追われ、巡回できたのは15日になってからだった[55]。政府が帝都復興院を設置したのは9月27日だった。皇后は9月29日に帰京すると、泉橋慈善病院を訪問し、翌30日には日本赤十字社病院を皮切りに、病院や罹災者収容施設を多数訪問した[56]。一度、日光に戻るが、10月15日に天皇と共に帰京後も精力的に被災地訪問を続けた[57][注釈 5]。
震災により皇太子の良子女王との結婚は延期されたが、この結婚について皇后は皇太子に新嘗祭を「御親祭の後式事御挙行の事」と天皇同様に行う条件をつけていた[58]。皇太子は台湾行啓から戻った春以降、半年余りにわたって準備と練習を重ね、無事に執り行うことができた[59]。震災以来規模を縮小していた宮中祭祀は、この新嘗祭から通常規模に戻された[58]。また、皇后は深夜まで起きて儀式の無事を気にかけ、この夜だけで44首の和歌を詠んだ[60]。さらに年末12月27日、虎ノ門事件に際しては、皇太子の無事を「神の守り」と感謝する和歌を詠んでいる[61]。
1924年(大正13年)秋、皇后は再び単独で関西を行啓した[62]。陵墓や社寺を訪問する中、12月7日には京都御所で袿袴を着用し和歌の披講会を催した他、雅楽や蹴鞠を観賞している[63]。
1926年(大正15年)8月、天皇の体調悪化は顕著で、天皇・皇后は葉山に滞在する。同年10月21日、詔書が発され長慶天皇が歴代天皇に加えられた[64]が、神功皇后は見送られた。翌22日、宮中三殿で親告の儀が執り行われた[65]が、皇后は典侍正親町鐘子に代拝させた[66]。儀式と同日、貞明皇后は遺書を書いていた[66][注釈 6]。高松宮はその内容について、筧克彦の書籍を秩父宮や三笠宮崇仁親王に形見分けすることや、周囲の人々への感謝が綴られていたとしている[66]。
12月25日午前1時25分、皇后の看護や祈願も空しく、大正天皇が葉山御用邸で崩御[67]。摂政を務めていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)の皇位継承および皇太子妃良子(香淳皇后)の立后に伴い皇太后となる。大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の柳原愛子を傍に居させた。三笠宮妃百合子によれば、以後ずっと黒または紫の衣服しか着用しなくなった[68]。
皇太后時代
1927年(昭和2年)11月12日、皇太后は居所を青山東御所へ移す[69]。さらに1930年(昭和5年)5月1日、赤坂離宮青山御所内に新築された御殿が新たに「大宮御所」[注釈 7]として皇太后の居所となった[70]。この大宮御所には皇太后宮大夫入江為守が描いた大和絵(大正天皇の遺影)が奉納された「御影殿(みえでん)」が造営され、毎日2回過ごすようになった[68]。沼津御用邸にも「御日拝室」が設けられ、滞在中は同様に過ごした[71]。大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると御影殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるように」語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。
1931年(昭和6年)、皇太后からの下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。皇太后の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のためとして強制隔離が正当化された面も否めない。また一連の活動が皇太后の真意に関わらず「皇恩」「仁慈」として、その後も政治利用された側面もある[72]。
終戦前、沼津の御用邸で過ごしていた貞明皇后と接触の深かった山本玄峰老師は田中清玄らに、「皇太后様は、戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた。
大戦末期、貞明皇后の大宮御所を軽井沢(旧末松謙澄別荘[73])へ移転させる案が浮上し、別荘の改修工事が急ピッチですすめられていた。1945年5月には東京の大宮御所が空襲により焼失し、同年7月には沼津御用邸も焼失。皇太后は直前まで天皇らとともに東京に残ることを望んだが、皇室内での直々の説得もあって最終的には軽井沢への疎開を了承した。しかし別荘の工事完成を目前にして終戦となり、その結果皇太后は終戦5日後から4ヶ月ほど軽井沢に疎開することになった[74][75]。
皇太子明仁親王(現:明仁上皇)を含む九人の孫(昭和天皇の皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子女2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、甯子内親王と寬仁親王はたびたび御所に訪問したことから、一緒に羽根つきやままごと遊びを付き合った[76]。
1951年(昭和26年)5月17日、狭心症により大宮御所で崩御。享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま崩御した。なお当日、昭和天皇は学者たちより進講を受けており、あまりにも突然の母宮の訃報を聞きしばらく言葉が無かった。
大喪の儀
1951年(昭和26年)6月7日に「貞明皇后(ていめいこうごう)」と追号され(昭和天皇勅定)、宮内庁長官より同年6月9日に官報告示が執り行われた[77]。「貞明」の出典は、『易経』の一文「日月之道、貞明者也」(日月の道はただしくして明らかなり)から採られた。
「大喪の儀」は6月22日に行われ、長男の昭和天皇は以下の誄辞(るいじ、追悼の言葉)を述べている。
「裕仁」敬みて、皇妣(母)の霊前に白す、皇考(父・先帝)の喪を服してより二十有五年、慈恩を仰き奉養に勉め楽を尽すの一日も長からむことを願へるに俄に大故に遭ふ、驚愕悲痛追慕止むなし、親(櫬)殿に殯宮に親祭すること三十余日、茲に礼を具へ儀を挙け将に多摩皇考山陵の次に斂葬せむとす、霊車停め難く幽明永へに違ふ嗚呼哀しいかな— 昭和26年6月22日「大喪の儀」にて
御陵は多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)。歴代皇后の中で、初めて関東の地に御陵が造営された。
日本国憲法と現行の皇室典範に基づき葬られた最初の皇后である。戦後の新皇室典範では皇族の葬儀の規定が設けられていないこと、また当時は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下であることから国葬とすることが憚られる状況にあった[78]。このため、国葬の有無を明確にしないまま「事実上の国葬」として扱われ、一連の大喪儀の儀式が行われた[79]。
翌1952年(昭和27年)1月1日付で、皇太后宮職が廃止された[80]ことにより、日本の後宮制度は終焉を迎えた。
年譜
- 1884年(明治17年)6月25日、東京府神田区神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)九条殿にて誕生。
- 1890年(明治23年)9月、華族女学校初等小学科入学。
- 1893年(明治26年)9月、華族女学校高等小学科入学。
- 1896年(明治28年)9月、華族女学校初等中学科入学。
- 1900年(明治33年)2月11日、皇太子嘉仁親王と婚約、皇太子妃冊立。
- 1912年(大正元年)7月30日、皇太子嘉仁親王の践祚に伴い立后、皇后冊立。
- 1926年(昭和元年)12月25日、大正天皇崩御及び皇太子裕仁親王の践祚に伴い、皇太后冊立。
- 1951年(昭和26年)5月17日、崩御。享年66。
注釈
- ^ 明治天皇の后昭憲皇太后(一条美子)には子が無く、明治天皇もその他の側室との間に、男子が皇太子嘉仁親王以外いない状況であった。その嘉仁親王も、幼少期から健康状態が不安定だった。なお、禎子女王は山内豊景侯爵に降嫁したが、子は無い。
- ^ 華族女学校校長の細川潤次郎、同校教師の下田歌子が関与する、日比谷大神宮の内部機関[8]。
- ^ 実質的な新婚旅行として皇室ゆかりの地を訪問する習慣は、昭和天皇、上皇(明仁)、今上天皇(徳仁)をはじめ、天皇及び皇族に定着した。
- ^ この際利用した8号御料車は解体され、一部が鉄道博物館に現存する[31]。
- ^ 大規模災害に際し、まず皇室がメッセージを発信し、その後実際に被災地を訪問するというプロセスは、現代も続いているが、天皇の権威が強い大正期の方が「皇后単独で」活躍する余地が大きかった[57]。
- ^ 崩御後に大宮御所で発見された[66]。
- ^ これに伴い京都皇宮内の大宮御所は「京都大宮御所」と改称された。
- ^ 皇室ジャーナリスト河原敏明の複数の著書より
出典
- ^ 『歴代皇后125代総覧』412頁10行目
- ^ 『歴代皇后125代総覧』413頁2行目。(新人物往来社)
- ^ a b 原 2017 p.146
- ^ 原 2017 p.136
- ^ 原 2017 p.141-143
- ^ 原 2017 p.145
- ^ 原 2017 p.132-133
- ^ a b c 住友 2014 p.68
- ^ 原 2017 p.135
- ^ 原 2017 p.150
- ^ 『歴代皇后125代総覧』の413頁
- ^ 原 2017 p.150-151
- ^ 原 2017 p.151-158
- ^ 原 2017 p.161-162
- ^ 原 2017 p.163
- ^ 原 2017 p.164
- ^ 原 2017 p.164-168
- ^ 原 2017 p.168
- ^ a b 原 2017 p.170
- ^ a b 原 2017 p.174
- ^ 原 2017 p.189
- ^ 原 2017 p.184
- ^ 原 2017 p.185
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- ^ 『貞明皇后御歌集』(全国敬神婦人連合会編、主婦の友社、1988年(昭和63年)、解説筧素彦)
- ^ 西川泰彦『貞明皇后その御歌と御詩の世界 貞明皇后御集拝読』を参照。
- ^ 出雲井晶『天の声 小説・貞明皇后と光田健輔』を参照
貞明皇后と同じ種類の言葉
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