作家一般
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森鷗外 創作活動の初期から晩年まで、清張が間接的なものも含めて作品のモチーフとして取り挙げ続けた作家であり(『或る『小倉日記』伝』『鷗外の婢』『削除の復元』など)、評伝的作品『両像・森鷗外』も執筆されている。 鷗外の作品中、清張が特に重点を置いて言及しているものは、『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった史伝物である。清張は鷗外が夏目漱石よりも大人であると述べており、国文学者・三好行雄との対談の中で、清張は「私は鷗外にそんなに影響を受けたとか、あるいは鷗外に私淑して、一生懸命文体なり、あるいはテーマの取り方なんかを学んだとは思いませんね。鷗外と漱石というのを比べてみますと、大人という言葉を使えば、鷗外が漱石よりはるかに大人です。」と語っている。対して、漱石に対する清張の言及は、「批評家が『こころ』を漱石晩年の傑作のように言っているのが私には不可解です。要するに漱石の作品は、実生活の経験がなく、書斎に閉じこもって頭で書いたものだからです」といっている。清張が鷗外に終生関心を持ち続けた動機・背景に関しては、現在でも議論が続いている。 菊池寛 清張自身が影響を受けたことをしばしば表明していた。菊池は文藝春秋の創設者であるが、清張は16・17歳から20歳過ぎまでかなり菊池の考え方に影響されたと述べ、『大島ができる話』『啓吉の誘惑』『妻の非難』『R』など、菊池寛の「啓吉もの」が自分の読書歴の古典であり、今でも文章の一部を暗記しているくらいであると清張は述べている。その作品を生活経験に裏付けられたものとして高く評価した。菊池を論じた作品として、文藝春秋での佐佐木茂索との関係を軸にした『形影 菊池寛と佐佐木茂索』がある。 清張が共鳴した菊池寛の考え方を示すものとして、「小説家たらんとする青年に与ふ」(『文芸倶楽部』1921年9月号掲載)がある。この中で菊池は「とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るといふことと、ある程度に、人生に対する考へ、所謂人生観といふべきものを、きちんと持つといふことが必要である」と述べている。 文学史上における菊池寛を、清張は次のようにいっている。 菊池のいうテーマ小説の出現は、それまでの自然主義的傾向の小説、白樺派の人道主義的小説の流れと切りはなしては云えない。田山花袋らに代表される自然主義的小説は「あるがままのものをあるがままに描く」ことをモットーとしたが、それは自己の経験を中心にしたものであり、題材はきわめて狭かった。狭いゆえに描写の深化はあったが、その深化は行き詰りにつながっていた。(中略)自然主義的小説は人間生活の暗黒面が強調され、題材も主として女と貧乏にかぎられるようになった。大正末期までの「私小説」は、葛西善蔵に代表されるように生活落伍者と女関係とが主題になっている。(中略)「告白」はトルストイなどからの影響だが、その「告白」を皮相的にあるいはストイックに解釈し、または意識的に自己流に歪曲したのが大正期の私小説といえようか。自然主義小説は、人生を観照しても、実人生に解決がない如く、小説にも解決がない。自我を主張するが、その自我も因襲的な家族制度と社会機構に押し潰される。かくて自然主義小説は絶望の文学となり、虚無的となる。しかし、ここにも感傷的なロマンチシズムがあるのは見のがせない。これが愛読者を得た理由でもある。けれども題材が自己の経験や周囲の観察に限られているため、同じような話をくりかえして書く結果になり、マンネリズムに陥って、衰弱した。わずかに徳田秋声や正宗白鳥などが命脈をつぐ。その自然主義小説に反抗してあらわれたのが白樺派である。彼らはトルストイの告白面よりも、その人道主義に共鳴した。有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎など学習院卒の、貴族の子弟がそのグループだった。(中略)白樺派の小説は、一部に熱狂的な支持者を得ても、一般からはひろい共鳴を得られなかった。いわば、貴族のお坊ちゃんのひとりよがりの小説としてその底の浅さを云われ、嘲笑された。そこに登場したのが、菊池や芥川のテーマ小説である。人間の暗黒面、無解決、いつはじまっていつ終わったかわからないような叙述、小説の興味を抹殺したような平板、単調な構成の自然主義小説や私小説類、もしくはそれとは対蹠的だが白樺派の感傷的な人道主義小説または楽天的な理想小説に不満だった読者は、明快で理知的な人生裁断を前面に押し出した菊池の小説を歓迎した。菊池の小説は「自我」がテーマになっている。自然主義小説にも自我はあったが、それは内在的なものとしてしか扱われていなかった。菊池はそれを正面に押し出した。(中略)彼はその自我をテーマに、現代小説にしても歴史小説にしても、存分に面白い物語をつくりあげた 清張の菊池作品に対する評価は、芥川龍之介や志賀直哉の作品に比べても高い。「芥川を讃美するのはよいが、芥川作品の構成の脆弱よりも、寛の鉄骨で組み立てたような構造の見事さは、もっと再評価されてよいのではなかろうか」(『随筆 黒い手帖』) 「菊池だったら文章に効果的な省略はあっても、肝要なところは手抜きなどしないで、きっちり書くだろうと思われるのである。それは志賀と菊池の生活経験の違いから来る。『暗夜行路』の主人公は(中略)居所を転々とし、その間「放蕩」などするような自分の使う金に反省がないのみならず、社会的感覚がまったくなく、あるのは都合のいい自己だけである」(『形影 菊池寛と佐佐木茂索』) 木村毅 16 - 17歳の清張が強い感銘を受けた『小説研究十六講』について「その前から小説は好きで読んでいた。しかし、小説を本気で勉強したり、小説家になろうとは思っていなかった。だが、この本を読んだあと、急に小説を書いてみたい気になった。それほどこの本は私に強い感銘を与えた」「(思い出の一冊にとどまらず)いまでも私に役立っている」と言っている。清張のこのエッセイを読んだ木村は「私のながい文学生涯において、これほど私にうれしかった文章はめったにない(中略)、若き松本清張君の訪問は、私をよろこばせ、自信をつけ、再生の思いをさせた」。鶴見俊輔によれば、『小説研究十六講』は、「昭和初期まで相当の影響力を持っていた」はずだが、文学者の「最初に自分の眼をひらいてくれた本のことをあまり言いたがらない習慣」ゆえに、無視されるようになったという。 小倉から東京へ転居した際、清張は真っ先に木村の自宅を訪問し、その後も交流を続けた。「(清張は)会見後はいよいよ私の支持者となって、ただに『小説研究十六講』ばかりか、私の書くたくさん著作を飽きもせず渉猟して、埋没した明治史の発掘者として、文藝春秋社のどれかの雑誌に講演をして、長々と私をほめ、「えらい人」と言っている」。清張の『暗い血の旋舞』に先立ち、クーデンホーフ光子の伝記を残している。 木村の死去に際して清張は「葉脈探求の人-木村毅氏と私」を書き、追悼した。同文中で清張は「それまで私は小説はよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて例証し、創作の方法や文章論を尽くしたこの本に、私を眼を洗われた心地となり、それからは小説の読み方が一変した。」「高遠な概念的文学理論も欠かせないが、必要なのは小説作法の技術的展開である。本書にはこれが十分に盛られていた。」「私は33歳のころまで乏しい蔵書を何度か古本屋に売ったことはあるが、この「小説研究十六講」だけは手放せず、敗色濃厚な戦局で兵隊にとられた時も、家の者にかたく保存を云いつけて、無事に還ったときの再会をたのしみにしたものだった」と述べている。 水上勉 1952年以降文筆活動から遠ざかっていたが、清張の活動に刺激を受け、1959年に推理小説『霧と影』を発表、その後社会派推理作家として認められた。水上は清張から取材・執筆のアドバイスを与えられ、直木賞受賞作品『雁の寺』は激賞を受けたという。 大岡昇平との論争 『日本の黒い霧』掲載誌の文藝春秋には好意的な評価も寄せられる一方、作家の大岡昇平は、「私はこの作者の性格と経歴に潜む或る不幸なものに同情を禁じ得なかったが、その現われ方において、これは甚だ危険な作家であるという印象を強めたのである。「小倉日記」「断碑」は、国文学や考古学の町の篤学者が、アカデミズムに反抗して倒れる物語である(中略)。学問的追及を記述するという点で、推理小説の趣きであるが、推理がモチーフではない。と言って感傷的な悲憤慷慨小説でもないので、学界、アカデミズムというものの非情さと共に、それに反抗して倒れて行く主人公の偏執も、冷たく突放して描いてある。後日社会的推理小説家になってから書いた「小説帝銀事件」「日本の黒い霧」は、朝鮮戦争前夜の日本に頻発した謎の事件を、アメリカ謀略機関の陰謀として捉えたものであり、栄えるものに対する反抗という気分は、初期の作品から一貫している。しかし松本の小説では、反逆者は結局これらの組織悪に拳を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織の破壊に向うわけでもなければ、眼には眼の復讐を目論むわけでもない。せいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというような自己満足に終るのを常とする。初期の「菊枕」「断碑」に現われた無力な憎悪は一貫しているのである」 「(『日本の黒い霧』が)政治の真実を書いたものと考えたことは一度もない」「無責任に摘発された「真相」は松本自身の感情によって歪められている」「彼(清張)の推理は、データに基づいて妥当な判断を下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基づいて事実を組み合わせるというふうに働いている。」 と批判した。 大岡の批判に対して、清張は、「(真実を)描き出していないと断定する以上、大岡氏はその真実の実際を知っていなければならぬ」 「大岡氏がどれだけ真実の実際を知っておられるか教示を乞いたいものである」 「『日本の黒い霧』をどういう意図で書いたか、という質問を、これまで私はたびたび人から受けた。これは、小説家の仕事として、ちょっと奇異な感じを読者に与えたのかもしれない。だれもが一様にいうのは、松本は反米的な意図でこれを書いたのではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍の謀略であるという一律の構成で片づけているような印象を持たれているためらしい。そのほか、こういう書き方が「固有の意味での文学でもなければ単なる報告や評論でもない、何かその中間めいた"ヌエ的"なしろもの」と非難する人もあった。これも、私という人間が小説家であるということから疑問を持たれたのであろう。私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。」 「「松本清張批判」をよく読んでみると、これは単独に私に向けられた矢だけとは思えない。私への批判はその間に、伊藤整氏、平野謙氏という二枚のフィルターが嵌められていて、光線が水中で屈折するがごとく向かってくる」 「(大岡の言う)個人の拳が組織の悪を散々に破壊する力を持たないことは明白であり、そのようなものを書こうとしたら、チャチな活劇映画も顔負けするような茶番になる」 「大岡氏の一連の「常識的文学論」は、多分に実証的批評で大変面白かったが、こと「松本清張批判」に関する限り、蓋然たる気分でものを云っておられると思う」 と反論している。。 司馬遼太郎 清張と同様に直木賞選考委員を務めた(第62回 - 第82回、清張は第45回 - 第82回)。清張との対談も行っており、両者の人間観・歴史観の差異をうかがうことができる。 司馬が日本の歴史上しばしばとりあげた時代は、戦国・安土桃山時代や幕末・明治期であるが、清張が得意としたのは、江戸時代を思わせる時代小説を別にすれば、奈良時代以前の古代と昭和期であった(両者ともに例外多数)。また、終生森鷗外に関心を持っていた清張に対し、晩年の司馬は夏目漱石を評価している。 1994年の文藝春秋創刊1000号記念特集号にあたり、同誌への執筆回数を相撲の番付形式で紹介しているが、清張は東横綱、司馬は東大関とされており(なお西横綱は井上靖、司馬の死去は1996年)、昭和期の同誌における両者の存在感の大きさがわかる。 三島由紀夫 1963年、中央公論社が文学全集『日本の文学』を刊行する際、中央公論社側は清張をラインナップに加えたい意向を示したが、三島由紀夫は反対・拒否した。川端康成と谷崎潤一郎は清張を加えることに必ずしも反対せず、妥協案も示したが、三島は譲らなかった。『江戸川乱歩全集』(講談社・全15巻・1969 - 70年)出版の際は、清張と共に編集委員を務めた。 清張の三島評として、1978年の国文学者・三好行雄との対談や、『過ぎゆく日暦(カレンダー)』収録の日記などがある。三好との対談で清張は「三島由紀夫があんなふうに最後に、右翼だとか、国家主義者だとか言われているのは、皮相な観察だと私は思う。彼は題材を求めてそこに流されていったと思うんです。(中略)そのことは大江健三郎でもある程度言えそうです。あの人はもともと左翼でもなければ、いわゆる進歩的文化人のタイプじゃないと思う。学生からすぐに作家生活に入った。だから「死者の奢り」のような感覚的文章が本来の大江健三郎だと思います。ところがたまたま反米的な材料をとるというようなことから、これは小説のために材料をとったと言っていいところがある。(芥川・三島・大江の)三者に共通しているのは、材料の(生活に根ざしていない)人工的な面ですね」と述べている。また山崎豊子との対談中でも、三島・大江に関してほぼ同じ見解を述べている。 思想史家の仲正昌樹は、自らの実生活から作品の材料を掘り出していると自負する清張にとって、美の世界に自己を同化させようとしたり特殊な体験に基づき創作する芥川・三島・大江は異質の存在であったと述べている。 もっとも清張も三島の才能そのものは高く評価しており、『半生の記』の雑誌初出である「回想的自叙伝」では『花ざかりの森』を「才筆にあふれている」と述べ、また後年にも「芥川(龍之介)は三島の前にはあまりに小さすぎる」「才能は三島のほうがはるかに川端(康成)を凌いでいる」などと述べ、三島の豊かな天分は特に短編に発揮されたと評している。
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