作家一般とは? わかりやすく解説

作家一般

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 23:52 UTC 版)

松本清張」の記事における「作家一般」の解説

森鷗外 創作活動初期から晩年まで清張間接的なものも含めて作品のモチーフとして取り挙げ続けた作家であり(『或る小倉日記』伝』『鷗外の婢』『削除の復元』など)、評伝作品両像・森鷗外』も執筆されている。 鷗外作品中清張が特に重点置いて言及しているものは、『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった史伝物である。清張鷗外夏目漱石よりも大人であると述べており、国文学者三好行雄との対談の中で、清張は「私は鷗外そんなに影響受けたとか、あるいは鷗外私淑して一生懸命文体なり、あるいはテーマ取り方なんかを学んだとは思いませんね。鷗外漱石というのを比べてみますと、大人という言葉使えば鷗外漱石よりはるかに大人です。」と語っている。対して漱石対す清張言及は、「批評家が『こころ』を漱石晩年の傑作のように言っているのが私には不可解です。要する漱石作品は、実生活経験がなく、書斎閉じこもって頭で書いたものだからです」といっている。清張鷗外終生関心持ち続けた動機・背景に関しては、現在でも議論続いている。 菊池寛 清張自身影響受けたことをしばしば表明していた。菊池文藝春秋創設者であるが、清張16・17歳から20歳過ぎまでかなり菊池考え方影響されたと述べ、『大島ができる話』『啓吉の誘惑』『妻の非難』『R』など、菊池寛の「啓吉もの」が自分読書歴の古典であり、今でも文章一部暗記しているくらいであると清張述べている。その作品を生活経験裏付けられたものとして高く評価した菊池論じた作品として、文藝春秋での佐佐木茂索との関係を軸にした『形影 菊池寛と佐佐木茂索』がある。 清張共鳴した菊池寛考え方を示すものとして、「小説家たらんとする青年与ふ」(『文芸倶楽部1921年9月掲載)がある。この中で菊池は「とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るといふことと、ある程度に、人生対する考へ、所謂人生観といふべきものを、きちんと持つといふことが必要である」と述べている。 文学史上における菊池寛を、清張次のようにいっている。 菊池のいうテーマ小説出現は、それまで自然主義的傾向小説白樺派人道主義的小説流れと切りはなしては云えない。田山花袋らに代表される自然主義的小説は「あるがままのものをあるがままに描く」ことをモットーとしたが、それは自己の経験中心にしたものであり、題材きわめて狭かった。狭いゆえに描写深化はあったが、その深化行き詰りつながっていた。(中略自然主義的小説人間生活の暗黒面強調され題材主として女と貧乏にかぎられようになった大正末期までの「私小説」は、葛西善蔵代表されるように生活落伍者と女関係とが主題になっている。(中略「告白」トルストイなどからの影響だが、その「告白」皮相的にあるいはストイックに解釈し、または意識的に自己流歪曲したのが大正期私小説いえようか。自然主義小説は、人生観照しても、実人生解決がない如く小説にも解決がない。自我主張するが、その自我因襲的な家族制度社会機構押し潰される。かくて自然主義小説絶望文学となり、虚無的となる。しかし、ここにも感傷的なロマンチシズムがあるのは見のがせない。これが愛読者得た理由でもある。けれども題材自己の経験周囲観察限られているため、同じような話をくりかえして書く結果になり、マンネリズムに陥って、衰弱したわずかに徳田秋声正宗白鳥などが命脈をつぐ。その自然主義小説反抗してあらわれたのが白樺派である。彼らはトルストイ告白面よりも、その人主義共鳴した有島武郎武者小路実篤志賀直哉長与善郎など学習院卒の、貴族の子弟がそのグループだった。(中略白樺派小説は、一部熱狂的な支持者得ても、一般からはひろい共鳴得られなかった。いわば、貴族お坊ちゃんひとりよがり小説としてその底の浅さを云われ、嘲笑された。そこに登場したのが、菊池芥川テーマ小説である。人間暗黒面、無解決、いつはじまってい終わったかわからないよう叙述小説興味抹殺したような平板単調な構成自然主義小説私小説類、もしくはそれとは対蹠的だが白樺派感傷的な人道主義小説または楽天的な理想小説不満だった読者は、明快理知的な人生裁断前面押し出した菊池小説歓迎した菊池小説は「自我」がテーマになっている自然主義小説にも自我はあったが、それは内在的なものとしてしか扱われていなかった。菊池はそれを正面押し出した。(中略)彼はその自我テーマに、現代小説にしても歴史小説にしても存分に面白物語つくりあげた 清張菊池作品に対する評価は、芥川龍之介志賀直哉作品比べても高い。「芥川讃美するのはよいが、芥川作品の構成脆弱よりも、寛の鉄骨組み立てたような構造見事さは、もっと再評価されてよいのではなかろうか」(『随筆 黒い手帖』) 「菊池だったら文章効果的な省略はあっても、肝要なところは手抜きどしないで、きっちりくだろう思われるのである。それは志賀菊池の生活経験違いから来る。『暗夜行路』の主人公は(中略居所転々とし、その間放蕩」などするような自分の使う金に反省がないのみならず社会的感覚がまったくなく、あるのは都合のいい自己だけである」(『形影 菊池寛と佐佐木茂索』) 木村毅 16 - 17歳の清張が強い感銘受けた小説研究十六講』について「その前から小説は好きで読んでいた。しかし、小説を本気で勉強したり、小説家になろうとは思っていなかった。だが、この本を読んだあと、急に小説書いてみたい気になったそれほどこの本は私に強い感銘与えた」「(思い出の一冊にとどまらず)いまでも私に役立っている」と言っている。清張のこのエッセイ読んだ木村は「私のながい文学生涯において、これほど私にうれしかった文章めったにない中略)、若き松本清張君の訪問は、私をよろこばせ自信をつけ、再生思いをさせた」。鶴見俊輔によれば、『小説研究十六講』は、「昭和初期まで相当の影響力持っていた」はずだが、文学者の「最初に自分の眼をひらいてくれた本のことをあまり言いたがらない習慣」ゆえに、無視されるようになったという。 小倉から東京へ転居した際、清張真っ先木村自宅訪問しその後交流続けた。「(清張は)会見後はいよいよ私の支持者となって、ただに『小説研究十六講』ばかりか、私の書くたくさん著作飽きもせず渉猟して埋没した明治史の発掘者として、文藝春秋社のどれかの雑誌講演をして、長々と私をほめ、「えらい人」と言っている」。清張の『暗い血の旋舞』に先立ちクーデンホーフ光子伝記残している。 木村死去に際して清張は「葉脈探求の人-木村毅氏と私」を書き追悼した同文中で清張は「それまで私は小説はよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった小説解剖し整理し理論づけ、多く作品を博く引いて例証し創作方法文章論尽くしたこの本に、私を眼を洗われ心地となり、それからは小説読み方一変した。」「高遠な概念的文学理論欠かせないが、必要なのは小説作法技術的展開である。本書にはこれが十分に盛られていた。」「私は33歳のころまで乏し蔵書何度古本屋売ったことはあるが、この「小説研究十六講」だけは手放せず、敗色濃厚な戦局兵隊にとられた時も、家の者にかたく保存を云いつけて無事に還ったときの再会たのしみにしたものだった」と述べている。 水上勉 1952年以降文筆活動から遠ざかっていたが、清張活動刺激を受け、1959年推理小説と影』を発表その後社会派推理作家として認められた。水上清張から取材・執筆アドバイス与えられ直木賞受賞作品雁の寺』は激賞受けたという。 大岡昇平との論争 『日本の黒い霧』掲載誌文藝春秋には好意的な評価寄せられる一方作家大岡昇平は、「私はこの作者性格経歴潜む或る不幸なものに同情禁じ得なかったが、その現われ方において、これは甚だ危険な作家であるという印象強めたのである。「小倉日記」「断碑」は、国文学考古学の町の篤学者が、アカデミズム反抗して倒れ物語である(中略)。学問的追及記述するという点で、推理小説趣きであるが、推理モチーフではない。と言って感傷的な悲憤慷慨小説でもないので、学界アカデミズムというものの非情と共に、それに反抗して倒れて行く主人公偏執も、冷たく突放して描いてある。後日社会的推理小説家になってから書いた小説帝銀事件」「日本の黒い霧」は、朝鮮戦争前夜日本頻発した謎の事件を、アメリカ謀略機関陰謀として捉えたものであり、栄えるものに対す反抗という気分は、初期の作品から一貫している。しかし松本小説では、反逆者結局これらの組織悪に拳を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織破壊向うわけでもなければ、眼には眼の復讐目論むわけでもないせいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというような自己満足終るのを常とする。初期の「菊枕」「断碑」に現われ無力な憎悪一貫しているのである」 「(『日本の黒い霧』が)政治真実書いたものと考えたことは一度もない」「無責任に摘発された「真相」は松本自身感情によって歪められている」「彼(清張)の推理は、データ基づいて妥当な判断下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基づいて事実組み合わせるというふうに働いている。」 と批判した大岡批判に対して清張は、「(真実を)描き出していないと断定する以上、大岡氏はその真実実際知ってなければならぬ」 「大岡氏がどれだけ真実実際知っておられる教示乞いたいものである」 「『日本の黒い霧』どういう意図書いたか、という質問を、これまで私はたびたび人から受けた。これは、小説家仕事として、ちょっと奇異な感じ読者与えたのかもしれないだれもが一様にいうのは、松本反米的な意図でこれを書いたではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍謀略であるという一律構成片づけているような印象持たれているためらしい。そのほかこういう書き方が「固有の意味での文学でもなければ単なる報告評論でもない、何かその中間めいた"ヌエ的"なしろもの」と非難する人もあった。これも、私という人間小説家であるということから疑問持たれたのであろう。私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍謀略」というコンパス用いてすべての事件分割したでもないそういう印象になったのは、それぞれの事件追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。」 「「松本清張批判」をよく読んでみると、これは単独に私に向けられた矢だけとは思えない。私への批判その間に、伊藤整氏、平野謙氏という二枚フィルター嵌められていて、光線水中屈折するがごとく向かってくる」 「(大岡の言う)個人の拳が組織の悪を散々に破壊する力を持たないことは明白であり、そのようなものを書こうとしたら、チャチ活劇映画顔負けするような茶番になる」 「大岡氏一連の常識的文学論」は、多分に実証的批評で大変面白かったが、こと「松本清張批判に関する限り蓋然たる気分でものを云っておられると思う」 と反論している。。 司馬遼太郎 清張同様に直木賞選考委員務めた第62回 - 第82回清張第45回 - 第82回)。清張との対談行っており、両者人間観歴史観差異をうかがうことができる。 司馬日本の歴史上しばしばとりあげ時代は、戦国・安土桃山時代幕末・明治期であるが、清張が得意としたのは、江戸時代思わせる時代小説別にすれば、奈良時代以前古代昭和期であった両者ともに例外多数)。また、終生森鷗外関心持っていた清張対し晩年司馬夏目漱石評価している。 1994年文藝春秋創刊1000記念特集にあたり、同誌への執筆回数相撲の番付形式紹介しているが、清張東横綱、司馬東大関とされており(なお西横綱井上靖司馬死去1996年)、昭和期の同誌における両者存在感大きさがわかる。 三島由紀夫 1963年中央公論社文学全集日本の文学』を刊行する際、中央公論社側は清張ラインナップ加えたい意向示したが、三島由紀夫反対・拒否した。川端康成谷崎潤一郎清張加えることに必ずしも反対せず、妥協案も示したが、三島は譲らなかった。『江戸川乱歩全集』(講談社・全15巻1969 - 70年出版の際は、清張と共に編集委員務めた清張三島評として、1978年国文学者三好行雄との対談や、『過ぎゆく日暦カレンダー)』収録日記などがある。三好との対談清張は「三島由紀夫があんなふうに最後に右翼だとか、国家主義者だとか言われているのは、皮相観察だと私は思う。彼は題材求めてそこに流されていったと思うんです。(中略そのこと大江健三郎でもある程度言えそうですあの人はもともと左翼でもなければいわゆる進歩的文化人タイプじゃないと思う。学生からすぐに作家生活入った。だから「死者の奢りのような感覚的文章が本来の大江健三郎だと思います。ところがたまたま反米的な材料をとるというようなことから、これは小説のために材料をとったと言っていいところがある。(芥川三島大江の)三者共通しているのは、材料の(生活に根ざしていない人工的な面ですね」と述べている。また山崎豊子との対談中でも三島大江に関してほぼ同じ見解述べている。 思想史家仲正昌樹は、自らの実生活から作品材料掘り出していると自負する清張にとって、美の世界自己同化させようとしたり特殊な体験に基づき創作する芥川三島大江異質存在であった述べている。 もっとも清張三島才能そのもの高く評価しており、『半生の記』の雑誌初出である「回想自叙伝」では『花ざかりの森』を「才筆あふれている」と述べ、また後年にも「芥川龍之介)は三島前にあまりに小さすぎる」「才能三島のほうがはるかに川端(康成)を凌いでいる」などと述べ三島豊かな天分は特に短編発揮されたと評している。

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