宮本武蔵 生涯

宮本武蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/29 17:25 UTC 版)

生涯

宮本武蔵
初決闘の地を記念した石碑(兵庫県佐用町平福

『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、16歳で但馬国の秋山という強力な兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を行い、全てに勝利したと記述される。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書[4] が存在することから、父と共に当時豊前国を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い[注釈 7][注釈 8][注釈 9]

『五輪書』には21歳の頃に[注釈 10]、京都で天下の兵法者(吉岡一門と考えられる) と数度戦ったが全てに勝利した旨の記述がある。この内容は吉川英治宮本武蔵』をはじめ多くの著名な文芸作品の題材とされている。

武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(巌流島)で、岩流なる兵法者[注釈 11]と戦ったとされるものである。この内容は江戸時代より現代に至るまで芝居、浄瑠璃、浮世絵、小説、映像作品など様々な大衆文芸作品の題材となっている。

大坂の陣では水野勝成客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている[注釈 12]

その後、姫路藩主・本多忠刻と交流を持ちながら活動。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)を行っている。この時期、神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で試合を行ったことが伝えられている[注釈 13]

元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路藩主・本多忠刻に出仕させる。

寛永元年(1624年)、尾張国(現在の愛知県西部)に立ち寄った際、円明流を指導する。その後も尾張藩家老・寺尾直政の要請に弟子の竹村与右衛門を推薦し尾張藩に円明流が伝えられる。以後、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆する。

寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石藩主・小笠原忠真に出仕させる[注釈 14]

寛永期、吉原遊廓[注釈 15] 開祖・庄司甚右衛門が記した『青楼年暦考』に、寛永15年(1638年)の島原の乱へ武蔵が出陣する際の物語[注釈 16]が語られ、直前まで江戸に滞在していたことが伝えられている。同様の内容は庄司道恕斎勝富が享保5年(1720年)に記した『洞房語園』にもあり、吉原名主の並木源左衛門、山田三之丞が宮本武蔵の弟子であった旨が記されている。これらの史料に書かれた内容は隆慶一郎などの文芸作品の題材となっている。

島原の乱では、小倉藩主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津藩主・小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡藩主の有馬直純に宛てた武蔵の書状に一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術高田又兵衛と試合したことが伝えられている。

寛永17年(1640年)、熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、鷹狩り[注釈 17]が許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。同じく客分の足利義輝遺児・足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。翌年に忠利が急死したあとも2代藩主・細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として、藩士がこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃、余暇に制作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。

寛永20年(1643年)、熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『独行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子・寺尾孫之允に与えている。

正保2年5月19日1645年6月13日)、千葉城(熊本)の屋敷で亡くなる。享年62。墓は熊本県熊本市北区龍田町弓削の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」。福岡県北九州市小倉北区赤坂の手向山には、養子伊織による武蔵関係最古の記録の一つである『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)がある。

武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門福岡藩黒田家に二天一流を伝えている。


注釈

  1. ^ ただし60余戦全ての詳細な経緯・戦績は記録に残っておらず2戦の簡易な記載に留まる。
  2. ^ 新免氏には藤原実孝を祖とする説(『徳大寺家系図』)、赤松氏家臣の衣笠氏、平田氏の支流の説(『中興系図』)もある。
  3. ^ 弁助、弁之助とも。
  4. ^ 弘化3年(1846年)以前に養子伊織の子孫作成。
  5. ^ 実父説と養父説がある。
  6. ^ 『東作誌』等で、武蔵の父親を「平田武仁」とする説があるが武蔵の誕生(天正8年(1580年))以前に死んでいる。また、それらの史料では、他の武蔵関係の記述も他史料との整合性が全く無く、武蔵に関しての史料価値はほとんど否定されている。
  7. ^ 如水の息子の長政に従い関ヶ原の本戦場で黒田勢の一員として戦っていたとする説もある。
  8. ^ 新免氏が宇喜多秀家配下であったことから、それに従って西軍に参加したとの説があった。
  9. ^ 黒田家臣・立花峯均執筆の『兵法大祖武州玄信公伝来』(『丹治峯均筆記』『武州伝来記』とも呼ばれる)では、黒田如水の軍に属して豊後国の石垣原(現在の大分県別府市)で西軍の大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や冨来城攻めでの奮戦振りの物語が語られている。
  10. ^ a b 天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。
  11. ^ a b 岩流には俗に佐々木小次郎の呼称があるが後年の芝居で名づけられ定着したもので根拠がない。また巖流は岩流の異字表現で、史料によっては他に岸流・岸柳・岩龍という呼称がある。
  12. ^ 従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。
  13. ^ この試合は『海上物語』では明石で、『二天記』では江戸で行われたと伝えられる。ただし『二天記』の原史料である『武公伝』にはこの内容は記載されていない。
  14. ^ 伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。
  15. ^ 当時は日本橋人形町近辺、元吉原とも。
  16. ^ 新町の置屋にいる遊女・雲井と馴染みで島原の乱の直前に雲居に指物の袋を依頼しこれを受け取り騎馬で出陣したとある。
  17. ^ 一般には家老以上の身分でなければ許可されなかった。
  18. ^ 染物業者となった吉岡一族は商業的に成功し、現代にもその名を継ぐ染色業者が残る。直綱が広めたと伝えられる憲法染は江戸時代を通じて著名となり「憲法染の掻取」が公家の正装としても扱われるようになった。
  19. ^ a b c 正確には吉岡亦七郎のほか、武装した門人数百名も加わっていたことになっている。
  20. ^ 宝暦元年(1751年)日出藩家老・菅沼政常が記録した平姓杉原氏御系図附言の木下延俊の項にも「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」と記載されている。
  21. ^ 細川家家老だった沼田延元の記録を編集。
  22. ^ 現物は巖流島の決闘の後に紛失した。
  23. ^ 二天一流で二刀を使う理由について、武蔵は『五輪書』の地の巻で、「太刀を片手で振ることを覚えさせるため」と記している。
  24. ^ 実名は渡辺茂。通称は久三郎。天正10年(1582年摂津国(現在の大阪府北中部等)生まれ。天竺巡礼したと称し、宝永8年(1711年)に130歳で死去したという。
  25. ^ 武蔵の円明流の弟子・竹村与右衛門との姓を混同したという説と、一時、竹村姓を名乗り、与右衛門は養子であったという説がある。
  26. ^ 沐浴は宗教的行為である。また、「入浴」項にあるとおり、庶民が風呂に入るようになるのは江戸時代になってからである。
  27. ^ 敵役である荒神(加藤雅也)が宮本武蔵を名乗る。

出典

  1. ^ a b いま鑑賞できる宮本武蔵 島田美術館(2021年4月21日閲覧)
  2. ^ a b 読売新聞』よみほっと(日曜別刷り)2021年4月18日1面【ニッポン絵ものがたり】「宮本武蔵肖像」剣聖の脱力とゆる体操
  3. ^ https://www.memorial-heiho-niten-ichi-ryu.com”. 平法新天一流記念館 - 平和と愛の記念碑。閲覧。
  4. ^ 慶長7年・同9年『黒田藩分限帖』
  5. ^ a b c d e 内田吐夢監督・中村錦之助(萬屋錦之介)主演の全五部作。
  6. ^ a b c d 同枠では1980年に同じ原作の中村錦之助(萬屋錦之介)主演映画五部作品も放送している。
  7. ^ 歌舞伎座テレビ映画部・関西テレビ製作
  8. ^ 『日本放送協会編『放送の五十年 昭和とともに』』日本放送出版協会、1977、pp.99-100「暗転する戦局」、p.330「年表 昭和18年(1943)」頁。 






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