中国の仏教 中国の仏教の概要

中国の仏教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/21 08:40 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

後漢(伝来)

中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。

伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢永平10年(67年)の明帝洛陽白馬寺に纏わる求法説話である。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録がある[1]

また、1990年代以降に古代中国仏教が伝来した時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からもこの時代に仏像が伝来していたことが立証されている。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。

また、後漢末期の武将として小説『三国志演義』にも登場する笮融が、揚州に大寺を建立した事で知られている。

桓帝の時代にインドや西域の仏教者が漢土に到来し、洛陽を中心に仏典の翻訳に従事した。なかでも安世高、安玄、支婁迦讖(支讖)、笠仏朔(笠朔仏)、支曜、康巨、康孟詳、笠大力らが経典の訳出に携わった。また初めての漢人出家者として厳仏調が現れ、安玄の訳経を助けた[2]。 この時代の仏教書としては『牟氏理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられるが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強い。明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となる。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の禅観に関する経典やアビダルマ論書である『阿毘曇五法行経』を訳した。

また『出三蔵記集』巻七、「道行経後記」によれば、霊帝の時代に笠仏朔、支婁迦讖らが大乗経典の『道行般若経』を訳出したという[3][2]。また『般舟三昧経』が光和2年(179年)の10月8日に胡本から漢訳された(『道行般若経』は同年10月18日)。なかでも、『般舟三昧経』が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されるに至った。インドや西域など幅広い地域から部派仏教大乗仏教双方の仏典が時を同じくして相次いで訳された。[2]

三国・両晋・五胡十六国

紀元3世紀頃より、サンスクリット仏典漢訳が開始された。この時代は華北のみならず、江南地方でも支謙康僧会によって訳経が始まり、それと同時に仏教が伝えられた。その一方で、中国人の出家者が見られるのはこの時代からである。記録に残る最初の出家者は、朱士行である。また、この時代の主流は、支遁314年 - 366年)に代表される格義仏教であった。訳経僧の代表は、敦煌菩薩と呼ばれた竺法護である。

紀元4世紀頃から、西方から渡来した仏図澄(? - 348年)や鳩摩羅什344年 - 413年)などの高僧が現われ、旧来の中国仏教を一変させるような転機を起こす。前者は後述の釈道安314年 - 385年)の師であり、後者は、唐の玄奘訳の経典群に比較される程の数多くの漢訳仏典を後世に残している。

仏図澄の弟子である釈道安が出て、経録(経典目録)を作り、経典の解釈を一新し、僧制を制定したことで、格義仏教より脱却した中国仏教の流れが始まる。釈道安の弟子である廬山慧遠334年 - 416年)は、白蓮社を結成した。

南北朝

5世紀になると、『華厳経』、『法華経』、『涅槃経』などの代表的な大乗仏典が次々と伝来するようになる。また、曇鸞476年 - 542年)が浄土教を開いた。東アジア特有の開祖仏教はこの時から始まる。

またこの時代、北朝北魏では、太武帝廃仏三武一宗の廃仏の第1回目)の後、沙門統曇曜を中心に仏教が再興され、平城郊外には大規模な仏教石窟寺院である雲岡石窟が開削された。その後、孝文帝洛陽に遷都すると、仏教の中心も洛陽に移り、郊外の龍門に石窟が開かれた。また、洛陽城内には、永寧寺に代表される堂塔伽藍が建ち並び、そのさまは『洛陽伽藍記』として今日に伝えられている。永寧寺の壮大な伽藍を見た達磨は、連日「南無」と唱えたという。

一方、南朝でも仏教は盛んであったが、中でも、希代の崇仏皇帝であり、またその長命の故にか、リア王に比せられるような悲劇的な最期を遂げることになる、武帝の時代が最盛期である。都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市であった。

このような北魏及びの南北両朝における仏教の栄華は、6世紀、北においては六鎮の乱に始まる東西分裂、南では侯景の乱によるあっけない梁の滅亡によって、一転して混乱の極地に陥ることとなる。そして、それを決定づけたのが、北周武帝の仏教・道教二教の廃毀と、通道観の設置である(三武一宗の廃仏の第2回目)。当時、慧思の「立誓願文」に見られるような、中国で流行し出していた末法思想と相まって、また、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えたものとして、中国仏教の大きな分岐点の一つとなったのが、この2度目の廃仏事件である。




  1. ^ 岡部和雄、田中良昭・編 2006, p.97-p.98.
  2. ^ a b c 岡部和雄、田中良昭・編 2006, p.98.
  3. ^ 「光和二年十月八日。河南洛陽孟元士口授。天竺菩薩竺朔仏時伝言者訳。月支菩薩支讖時侍者南陽張少安南海子碧。勧助者孫和周提立。正光二年九月十五日洛陽城西菩薩寺中沙門仏大写之。」(道行経後記第二)
  4. ^ 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 講談社文庫 11刷1997年(1刷1990年) ISBN 4-06-184784-8 p.322.
  5. ^ 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 p.323.
  6. ^ 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 p.325.


「中国の仏教」の続きの解説一覧


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中国の仏教」の関連用語

中国の仏教のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中国の仏教のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの中国の仏教 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2020 Weblio RSS