ルールの変遷
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第41期名人戦・挑戦者決定リーグ第118手 △7八同銀不成まで(この後、同一局面が9回出現)△谷川浩司 持駒:金銀 9 8 7 6 5 4 3 2 1 香 桂 香 一 金 王 二 馬 金 歩 歩 三 歩 桂 歩 歩 歩 四 角 桂 歩 歩 歩 五 歩 歩 銀 歩 歩 六 歩 七 玉 銀 香 八 香 桂 飛 九 ▲米長邦雄 持駒:飛金銀歩四 千日手の概念は江戸時代から存在していたが、終盤で駒を打ち合い、取り合う状況でしか発生しないものと考えられていた。そのためルールとしては「千日手となったときには攻め方が手を変える。どちらが攻め方か不明のときは、仕掛けた側から手を変える。」という曖昧な規定にとどまっていた。ところが1927年の対局(宮松関三郎六段対花田長太郎八段戦)で、序盤の駒組みの段階で同じ手を繰り返す局面が発生し、対局を中断して連盟に裁決をゆだねることとなった。これが局面にかかわらず「同一手順3回」という千日手の規定を明確にした端緒となったと考えられている。なお戦前、特に攻め方あるいは仕掛けた側から手を変えなければならないルールだった時代の書籍では、「千遍手」「百日手」などの名称も用いられていた。 以前は「同一局面に戻る同一手順を連続3回」というルールであったが、同一局面に戻る手順が複数ある場合、このルールでは無限に指し手を続けることが可能であるため、1983年5月に現在の「同一局面・同一手番が4回」に改定された。改定のきっかけになったのは1983年3月8日の米長邦雄-谷川浩司戦(名人戦挑戦者決定リーグ:現在の順位戦A級)であり、この対局では60手以上千日手模様が続き、同一局面が9回出現している(谷川が打開し、米長が勝利)。武者野勝巳がルール改正を提案し、可決された。同一局面4回であれば、同一手順を3回繰り返した時と同じであることから4回に制定された。 2019年10月1日、千日手に関する対局規定が改定され、「千日手が成立していても、両対局者が指し継いだ時点で千日手を打開したものとみなし、同一局面に戻らない限り、指し直しとはしない」ということが明文化された。
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ルールの変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 06:14 UTC 版)
1900年代頃に欧州でゴム製のラバー(現在の1枚ラバーに相当するラバー)が開発され主流となったが、それほど強い打球が打てなかったことやネットの高さが高かったこともあり、守りに徹した方が有利であった期間が長く続き、1936年に行われた第10回世界卓球選手権では1点取るのに2時間以上もかかった試合の記録が残っている。1937年、日本初の国際試合が行われ、ハンガリーの元世界チャンピオンと対戦し、その際日本選手は初めてラバーに接した。当時、日本選手のラケットには何も貼っていない状態(別称:木ベラ)でありながらも、好成績を収めた。その頃、男子アメリカチームによって、指を使い、様々な回転を生み出すサービス「フィンガースピンサービス」が開発され、1937年に行われた第11回世界卓球選手権にて、初めて強い回転をかけたプレーが持ち込まれた。これを駆使したアメリカチームは好成績を収めたが、その反面強い回転に慣れていない対戦相手はレシーブミスを連発し、ラリーが続かない展開となった。ラリーが長すぎる、一方では短すぎる、と両極端な展開で観客が退屈と感じる試合が続出したことから国際卓球連盟はルールの改正を行い、ネットの高さを引き下げ、試合時間の制限、指を使いボールに様々な回転を与えるサービス(フィンガースピンサービス)の禁止を決定。その影響で再び守備型が有利な状況となり、1940年代から1950年代初頭までは欧州の選手によるカット主戦型が全盛であった。 この状況が変化する転機は、第二次世界大戦後、1950年代に日本が新しい用具を続々と開発し、実戦に使用され結果を出したことである。先ずは従来のラバーを裏返しにして貼る「裏ラバー」が使われるようになった。これは従来のラバー(現在の1枚ラバー、裏ラバーに対して表ラバーとみなされる)と比較してボールとの接触面積が広いため摩擦が大きく、強い回転をかけやすくなり、それを大きく活かした攻撃を行うことが可能となった。さらに、太平洋戦争時に航空機燃料タンク防弾用など、軍事用に用いられていた独立気泡スポンジが卓球の用具として使われるようになる。これは反発力が強く、従来のラバーと比べて打力が飛躍的に向上した。それをラケットの打球面に貼り付けた「スポンジラバー」、裏ラバーとスポンジを貼りあわせた「裏ソフトラバー」や、一枚ラバー(表ラバー)とスポンジを貼りあわせた「表ソフトラバー」が開発された。また、表ソフトのツブを発展させた「ツブ高ラバー」も開発された。それらの特徴を大きく活かしたスマッシュ攻撃を武器に、1952年の第19回世界卓球選手権で日本は大会初参加ながら、女子団体・男子シングルス・男子ダブルス・女子ダブルスの4種目で優勝と黄金時代の口火を切り、1950年代の世界選手権において日本選手が各種目にて優勝者を多数輩出した。 しかし1959年に国際卓球連盟は用具の制限に乗り出した。スポンジのみの使用は禁止され、スポンジラバーは消滅した。その他のラバーについても厚みが4 mmまでに制限された。 2000年から、ボールの直径は38 mmから40 mmになった。これによってボールの空気抵抗が増し、従来よりもラリーが続くようになった。しかしその一方で回転がかけにくくなり、またラバーが回転の影響を受けにくくなったために、カット型や前陣速攻型のような戦型は苦戦している[要出典]。 2001年には、従来の21点制から11点制に変更され、サービスも5本ずつの交代から2本ずつの交代に変更された。 2002年にはサービス時にボールを隠す行為(ハンドハイドサービス、ボディーハイドサービス)が完全に禁止された。 2007年9月から日本国内での主要大会において有機溶剤性接着剤の使用が禁止された。2008年9月から全面的に有機溶剤性接着剤の使用が禁止され、その1カ月後に補助剤を用いた後加工が禁止された。また、アンチ加工された粒高ラバーの使用も禁止された。 2014年からボールの直径は40 mmのままでセルロイドボールからプラスチックボールが登場し、2015年からは主要な国際大会においても使用された。
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ルールの変遷
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「フリースタイルダンジョン」の記事における「ルールの変遷」の解説
番組の放送開始以降、試合のルールや番組の演出が数度に渡って変更されている。以下に、変更内容を記載する。
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ルールの変遷
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2008年12月20日までは出場するユニットが出すコントの評価を司会者の3人が「お宝」か「ガラクタ」の札で判定するシステムになっていた。「お宝」が2枚以上上がるとお宝に認定され、コントの映像が携帯動画として配信された。また、11月1日からはお宝の認定時にポイントが加算されるシステムを導入する事により、同年12月27日放送の年末スペシャル出場ユニットを決定した。 2009年1月17日からは前述のポイント加算システムが導入された。司会の3人が1〜10点の持ち点で審査され、合計獲得ポイントの一番高かった芸人のネタのみが携帯動画で配信されるという形に変更となった。1月24日は獲得ポイントが一番高かったマイコーりょうが携帯動画配信の対象となったが、ネタ中に使用した曲 の使用許可が下りなかったため、結局配信不可能となった。また、2月7日にもセクシー寄席が携帯動画配信の対象となったが、こちらもネタ中に使用した曲 の著作権の理由から配信不可能となった。さらに、同月21日でも先述の2組が携帯動画配信対象となったにも拘らず、前回と同様の理由で配信不可能となった。
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ルールの変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 01:18 UTC 版)
2005年に制定されたテクニカルフォールの要綱は以下の通りである。 6点差がついたとき 3点の技を2度決めたとき 5点の技(大技の投げ技)を決めたとき 2013年5月に変更されたテクニカルフォールの要綱は以下の通りである。(フリー・グレコ共通) 7点差がついたとき 5点技1回・3点技2回を成立させ、且つ相手よりポイントが多い場合テクニカルフォールとする。 2014年1月に変更されたテクニカルフォールの要綱は以下の通りである。(男女フリー・グレコ共通) 10点差がついたとき 5点技1回・3点技2回のテクニカルフォールは廃止 2016年に変更されたテクニカルフォールの要綱は以下の通りである。(グレコ) 8点差がついたとき なお、テクニカルフォールの条件を満たした段階で直ちに試合を止めるのではなく、攻撃側の選手のアクションが終了するまで待つように示されている。そのため、テクニカルフォールの条件を満たした後にフォール勝ちに持ち込むことも可能となっている。
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ルールの変遷
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「全米女子プロ野球リーグ」の記事における「ルールの変遷」の解説
1943年設立当初に上記評議会が制定したルールは、野球よりもソフトボールの規格に近いものであったが、ボールの大きさや塁間・投手本塁間の距離などが少しずつ見直され、徐々に野球のフィールドに近い規格で試合が行われるようになった。 年度毎のボールサイズ、投法、塁間・投手本塁間距離の規格の変遷 年度ボールサイズ塁間の距離投手-本塁間投法1943年 12インチ 65フィート 40フィート 下手投げのみ 1944年 11.5インチ 68フィート 40フィート 〃 1945年 11.5インチ 68フィート 42フィート 〃 1946年 11インチ 72フィート 43フィート 下手投げ横手投げ(制限あり) 1947年 11インチ 72フィート 43フィート 横手投げ 1948年 10 3/8インチ 72フィート 50フィート 上手投げ 1949年 10インチ 72フィート 55フィート 〃 1950年 10インチ 72フィート 55フィート 〃 1951年 10インチ 72フィート 55フィート 〃 1952年 10インチ 72フィート 55フィート 〃 1953年 10インチ 75フィート 56フィート 〃 1954年 9インチ 85フィート 60フィート 〃
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ルールの変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 14:56 UTC 版)
当初はレクリエーションとして考案されたことから、ボールを落とさないようにネット越しに打ち合う以外には特にルールはなく、返球までの回数も無制限だった。元になった「ミントン」(ボールを使ったバドミントン)を踏襲し、サイドアウト制が採用され、これは極東を除き、1998年まで続いた。ネット高は当初6フィート6インチが1900年に7フィート6インチ (229cm) に引き上げられた。 1910年ごろに日本に伝えられた時には、4人×4人の16人、21点制で行われており、1913年の東洋オリンピック、その後の極東選手権大会も同様であった。日本独自のルールとして、12人制ののち、9人制が普及した。これは日本の提案で1923年、1927年に極東選手権にも取り入れられた。アメリカでは1922年までには6人制、15点制、ネット高244cmとなっていた。1930年に日本で導入されたラリーポイント制は1934年の極東選手権でも採用された。 大きな変更は1912年、フィリピンで導入された「3回以内返球」ルールであり、これによりレクリエーションとして考案されたバレーボールは全く別のものに、競技スポーツに進化した。このルールはアメリカでも、フィリピンに派遣されていたE.ブラウンの提案により1922年までには導入された。このルールの導入により、初めて公式大会が開催されるようになった。 極東ではネットの高さは初めから230cmであった。女子はほとんど不明だが1931年時点の日本では200cmだった。国際大会と無縁となった日本では1941年、ネット高は225cmに引き下げられた。1955年から1962年まで行われたアジア選手権の極東ルール(9人制)ゲームにおいては230cmで行われた。 国際バレーボール連盟 (FIVB) では1947年に6人制の国際ルールを制定した。 FIVB主催の大会におけるおもなルール改正としては、以下のものが挙げられる。従来はオリンピックのたびに4年ごとのルール変更だったが、1994年からは変更頻度が上がった。 「ラリーポイント制」も参照 1965年 ブロックのオーバーネットの許容。 1967年 サーブ5秒以内(1999年に8秒以内に変更)。 1969年 アンテナをサイドラインから20cm外側に取りつけ。ボール重量270グラム±10グラム。 1973年 パッシング・ザ・センターラインの緩和。 1977年 ブロックのワンタッチをカウントしない。アンテナはサイドバンド上に取りつけ。スリーボールシステム(1試合に3つのボールを使用しデッドタイムをなくす)の導入。 1984年 サーブに対するブロックの禁止(FIVBロサンゼルス五輪総会にて)。ファーストコンタクト(1回目のレシーブのこと)における、ドリブル(現在のダブルコンタクト)を許容(アンダーハンドのみ)。 1989年 5セット目のみをラリーポイント制に。セット間2分間。プレー中にベンチからの指示を許可。 1994年 サービスゾーンが、従来の右隅から3メートルの範囲から、エンドラインいっぱい(9メートル)に広がる(FIVBアテネ世界選手権総会にて)。 1995年 膝から下での打球も反則ではなくなる。ファーストコンタクトではオーバーハンドも含め、ダブルコンタクト・ホールディング(現在のキャッチ)をとらないことになる。 1998年 リベロ制の正式導入(低身長の選手にも活躍の可能性を与えることが目的)。ボールの内気圧の低減(最大値を0.425kgf/cm2から0.325kgf/cm2へ)。カラーボールの使用許可。 1999年 サーブのネットインを認める。5セットマッチの全ラリーポイント制の導入(サーブ権ポイント制では試合時間が一定せず、テレビ放映権が売りにくかったことによる変更)。デュースの際の勝敗は、2点差がつくまで無制限になる。サーブ8秒以内。 2007年 ネット上で両チームの選手がボールを押し合った場合も、プレー続行となる(以前はプレーを止めノーカウントとした)。 2009年 両足より上部の身体のいかなる部分が、相手コートに触れても、相手のプレーを妨害しない限り許される(以前は両手などがセンター・ラインを超えて相手コートに触れると反則であった)。競技者がネット(上部の白帯は除く)に触れても、相手のプレーを妨害しない限り許される(以前はネットのいかなる部分も触ると反則であった。ネットに触れてもいいものの、わざとネットを引き下げアタックを打つなどの行為をすると、スポーツマンシップに反する行為として、罰則が与えられる可能性がある)。2014年に廃止された。 2011年 第1リベロと第2リベロ同士の交代制限撤廃。 2013年 前年の総会で承認された、指を用いたオーバーハンドサーブレシーブにおけるダブルコンタクト・キャッチの厳罰化適用を、実施延期と発表。 2013年チャレンジシステム(ビデオ判定)の試験導入。各チームごと、1セット2回失敗するまで要求可能。 10月に開催するU-23世界選手権で次の2つの特別ルールを試行。現行の25点制を21点制に変更、これによりテクニカルタイムアウトは8点・16点から、12点に。 主審の吹笛後にサーブを打つまでの時間を、現行の8秒から15秒に変更。 2014年 ボールをプレーする動作中の選手による両アンテナ間のネットへの接触は反則とし、2009年の緩和(白帯のみ)が撤回となった。2015年度から適用。 2015年 この年のW杯など、勝ち点よりも勝数が順位決定方法で優先されるようになった。 2016年 チャレンジシステムは当該プレー後5秒以内の申請となり、ラリー中にも適用されることとなった。
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ルールの変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 14:42 UTC 版)
ベースボールは誕生した後もルールの変更を繰り返している。ルールの度重なる変更の狙いは「試合時間の短縮化」と「試合のスリリング化」の2つが挙げられる。
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