武者小路実篤 武者小路実篤の概要

武者小路実篤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 06:14 UTC 版)

武者小路 実篤
誕生 1885年5月12日
日本 東京府東京市麹町区
(現・東京都千代田区
死没 (1976-04-09) 1976年4月9日(90歳没)
日本 東京都狛江市
墓地 中央霊園(東京都八王子市)
職業 小説家詩人劇作家画家
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴

学習院高等科卒業

東京帝国大学社会学中退
ジャンル 小説戯曲
主題 理想主義
文学活動 白樺派
代表作お目出たき人』(1911年)
『その妹』(1915年、戯曲)
『幸福者』(1919年)
友情』(1919年)
人間万歳』(1922年、戯曲)
愛慾』(1926年、戯曲)
愛と死』(1939年)
真理先生』(1951年)
主な受賞歴 文化勲章(1951年)
親族 勘解由小路資生(祖父)
武者小路実世(父)
武者小路公共(兄)
武者小路実光(甥)
武者小路公秀(甥)
武者小路穣(娘婿)
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姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、実篤は「むしゃこうじ」に読み方を変更した[1]。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。文化勲章受章。名誉都民日本芸術院会員。贈従三位(没時叙位)。

来歴

東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家の武者小路実世(さねよ)子爵勘解由小路家(かでのこうじけ)出身の秋子(なるこ)夫妻の第8子として生まれた。上の5人は夭折しており、姉の伊嘉子、兄の公共と育った。2歳の時に父が結核で死去。

1891年(明治24年)、学習院初等科に入学。得意科目は朗読と数学で、体操と作文が苦手だった。同中等学科6年の時、留年していた2歳年上の志賀直哉と親しくなる。同高等学科時代は、トルストイに傾倒、聖書仏典なども読んでいた。日本の作家では夏目漱石を愛読するようになる。1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らとつくった「十四日会」で創作活動をする。同年、東大を中退。翌年には処女作品集『荒野』を自費出版した。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれ、実篤は白樺派の思想的な支柱となる。「白樺」創刊号に「『それから』に就いて」を発表し、漱石から好意的な手紙を得た。そこでは「夏目漱石氏は真の意味に於ては自分の先生のやうな方である、さうして今の日本の文壇に於て最も大なる人として私かに自分は尊敬してゐる」と述べており、以後漱石の依頼で「朝日文芸欄」に執筆するなど、親密な交流を続けた。文学上の師を持たない主義であったため、いわゆる漱石門下とは区別されることが多いが、事実上の弟子とする見解もある[2]1913年(大正2年)、竹尾房子と結婚。1916年大正5年)には、柳宗悦志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。

理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に、村落共同体新しき村」を建設した。実篤は農作業をしながら文筆活動を続け、大阪毎日新聞に『友情』を連載。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに、村落共同体「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。

この両村は今日でも現存する[3]。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だった頃の活動は離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。

1922年(大正11年)、房子と離婚し、飯河(いごう)安子と再婚。翌年の関東大震災で生家が焼失。『白樺』も終刊となった。この頃からスケッチや淡彩画を描くようになる。また油絵も描き、1929年昭和4年)には東京・日本橋丸善で個展も開いた。執筆依頼がほとんどない「失業時代」で、トルストイ二宮尊徳井原西鶴大石良雄一休釈迦などの伝記小説を多く執筆した。

1936年(昭和11年)、4月27日からヨーロッパ旅行に出発。12月12日帰国。旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく[4]1937年(昭和12年)、帝国芸術院に新設された文芸部門の会員に選出される。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、日本文学報国会劇文学部会長を務めるなどの戦争協力を行った[5]

1946年(昭和21年)3月22日には貴族院議員に勅選[6]されるが(同年8月7日に辞職[7])、同年9月には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された[8]1948年(昭和23年)には主幹として『』を創刊、『真理先生』を連載。1951年(昭和26年)、追放解除となり[9]。同年に文化勲章を受章した。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」や「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙揮毫したことでも有名だった。1955年(昭和30年)、70歳で調布市仙川に移住、亡くなるまでこの地で過ごした。

1971年に志賀直哉が亡くなった際、実篤は彼の葬儀に駆けつけて弔辞を述べたが細々とした声で聞き取れた人はいなかったという。

1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある東京慈恵会医科大学附属第三病院尿毒症により死去。享年92(満90歳没)。

実篤公園

晩年の20年間居住した調布市の自宅敷地および建物が、没後に「実篤公園」[10]「調布市武者小路実篤記念館」[11]として公開されている。主屋は2017年11月2日付で国の登録有形文化財となった[12]

評価

  • 白樺派の代名詞的存在とされ、理想郷の建設に代表される理想主義的・空想社会主義的行動には現実離れしているという批判もつきまとった。
  • 気紛れで始めたことを簡単に投げ出すという無責任とも取れる言動を批判されることもあった。ただし、作品は必ずしも思想的背景に依るものではなく、それゆえ現代に至るまで広く一般に読まれている(『友情』『愛と死』などの代表作を生んだ、近代日本を代表する作家の一人としての知名度の方が遥かに高い所以である)。
  • 全集小学館より全18巻が出版されている。

  1. ^ 調布市武者小路実篤記念館 よくある質問とその答え
  2. ^ 長尾剛『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 (朝日新聞出版、2018年)
  3. ^ 村民になるには原則40歳以下の年齢制限がある。
  4. ^ 董炳月『新しき村から「大東亜戦争」へ : 周作人と武者小路実篤との比較研究』 東京大学〈博士(文学) 甲第13815号〉、1998年。doi:10.11501/3162331NAID 500000183210https://doi.org/10.11501/3162331 
  5. ^ 「太平洋戦争期においても、武者小路の天皇に対する愛と尊敬は一度も変わったことがなかった。戦争中、武者小路は転向し、戦争に賛成し、協力したのである。これは小さい時から彼の心に滲みこんだ愛国思想と強い国家意識にかかわる」(夏艷文『武者小路實篤自我思想的形成』 (PDF)[リンク切れ]
  6. ^ 『官報』第5757号、昭和21年3月26日。
  7. ^ 官報』第5871号、昭和21年8月9日。
  8. ^ 朝日新聞』1946年9月27日一面。
  9. ^ 『朝日新聞』1951年8月7日二面。
  10. ^ 実篤公園 - 調布市
  11. ^ 武者小路実篤記念館 - 調布市
  12. ^ 旧実篤邸が国登録有形文化財に登録 調布市ホームページ(2018年12月17日)2019年1月2日閲覧。
  13. ^ 武者小路實世アジ歴 地名・人名・出来事事典
  14. ^ 亀井志乃「〈裸体をもつてほこる〉詩人 : 武者小路実篤こおける〈詩〉の成立」『国語論集』第11巻、北海道教育大学釧路校国語科教育研究室、2014年3月、19-54頁、doi:10.32150/00008721 
  15. ^ a b c d e f g 大津山国夫「武者小路実篤の系族(下)」『語文論叢』第17巻、千葉大学文学部国語国文学会、1989年10月、3-22頁、NAID 1100004497982023年5月6日閲覧 
  16. ^ 武者小路公共『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929
  17. ^ 子爵 三室戸敬光『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929
  18. ^ 西正寺 ~武者小路実篤姉の菩提寺~ (和歌山市和歌浦中)和歌山社会経済研究所
  19. ^ 平田敏雄『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  20. ^ 「武者小路実世」『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年、ム2頁。
  21. ^ 弦巻克二、吉川仁子「池田小菊関連書簡 -志賀直哉未発表書簡を含めて-」『叙説』第33巻、奈良女子大学文学部、2006年3月、244-267頁、hdl:10935/67ISSN 0386-359XCRID 1050282813367604992 


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