武者小路実篤
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家族・親族
家族
- 父・武者小路実世(さねよ)
- 1851年(嘉永4年)12月21日生 - 1887年(明治20年)10月27日没。
- 武者小路家8代当主・実建 (1810-1863) の次男(のち兄・公香の養子となる[13])。童名は多嘉丸。1868年(明治元年)18歳で秋子と結婚。1870年(明治3年)上京、翌年1871年(明治4年)11月に岩倉使節団の留学生としてドイツに2年半滞在し1874年(明治7年)7月帰朝。9代当主となった22歳年上の兄・公香 (1828-1876) が亡くなり、公香の男子も夭折していたため、26歳で10代当主となる。華族会館司計局長、麹町区議会議員、熊谷裁判所判事を務め、参事院では大日本帝国憲法発布の準備に関わったという。1884年(明治17年)7月に子爵となるも1887年(明治20年)10月27日、37歳で結核により死去[14][15]。なお、公香の妻・菅子は藤井行学の長女[16]、公香の長女・唯子(1851-1904)は子爵三室戸和光の妻[17]。
- 母・秋子(なるこ)
- 1853年(嘉永6年)9月13日生 - 1928年(昭和3年)11月1日没。
- 勘解由小路資生の娘。16歳で実世に嫁ぎ、8人の子を産んだが第1子は死産、長男・和丸、長女、次女・且、次男・公城と夭折している。35歳で未亡人となり、三女・伊嘉子、三男・公共、四男・実篤の3子を育てた。1928年(昭和3年)11月1日、76歳で死去[15]。
- 姉・伊嘉子
- 1879年(明治12年)11月5日生 - 1899年(明治32年)12月12日没。
- 秋子が伊香保温泉で養生して生まれたことから伊嘉子と名付けられた。東京帝大出身の化学者で学習院の講師をしていた平田敏雄と20歳で結婚したが、まもなく結核を発病、母に引き取られ、1899年(明治32年)12月12日、21歳で死去[15]。平田はその後東京女子高等師範学校教授となり、日本最初の女性化学者黒田チカを育てた[18][19]。
- 兄・公共
- 1882年(明治15年)8月29日生 - 1962年(昭和37年)4月21日没。
- 父・実世の亡き後、6歳で家督を相続。少年時代は従兄の甘露寺受長と皇太子時代の大正天皇の遊び相手を務めている。学習院ではとびぬけた秀才として有名だった。20歳で従五位に叙せられる。東京大学法学部独法科卒。在学中に外交官試験に合格、外務省に入省、各国の公使を務める。ドイツ大使在任中は日独防共協定に調印した[15]。
妻子
- 妻・房子(旧姓・竹尾)
- 1892年(明治25年)3月10日生 - 1990年(平成2年)没。
- 実篤最初の妻。福井県出身、衆議院議員竹尾茂の娘[20]、日本女子大学付属女学校中退。実篤のもとを訪ね、翌年の1913年(大正2年)2月、22歳で実篤と結婚(届け出は翌年3月21日)するが、「新しき村」の青年と同棲を始め、1929年(昭和4年)12月9日離婚[15]。1932年(昭和7年)に青年と結婚。実篤は、房子と青年を養子にして、武者小路姓を名乗らせた。
- 1988年放送のNHK特集「どんなご縁で〜ある老作家夫婦の愛と死〜」に、96歳でインタビュー出演。新しき村を訪ねた耕治人ら、実篤の理想に共鳴した青年たちの印象を尋ねられたが、「知らない」「(彼らの気持ちなど)こっちが訊きたいくらいだ」と言うばかりで、さしたる証言は得られなかった。
- 妻・安子(旧姓・飯河)
- 1899年 (明治32年)9月6日生 - 1976年(昭和51年)2月6日没。
- 実篤の再婚相手。静岡県出身、共立女子職業学校卒。1921年(大正10年)11月、22歳で「新しき村」に入村し、実篤の身の回りの世話をしていた。1923年(大正12年)12月長女出産。1929年(昭和4年)12月18日入籍。新子、妙子、辰子の3人の娘を産む。1976年(昭和51年)2月6日、77歳で夫より2か月前に亡くなった[15]。
- 長女・新子
- 1923年(大正12年)12月1日生 - 1986年(昭和61年)12月8日没。
- 次女・妙子
- 1925年(大正14年)2月25日生 -
- 三女・辰子
- 1928年(昭和3年)11月4日生 -
- 養女・喜久子
- 1909年(明治42年)11月9日生 - 1943年(昭和18年)8月9日没。
- 従妹の勘解由小路康子の娘。康子が夫と死別し、志賀直哉と再婚したため、実篤に引き取られた。2度の離婚を経て志賀家の戸籍に入り、1941年に三井物産社員と再々婚したが、2年後の1943年(昭和18年)8月9日、35歳で死去[15][21]。
親族
- 孫娘・河村有紀子 - 歌舞伎役者四代目中村梅玉の妻。父は実篤の婿養子・穣、母は実篤の娘・辰子。
- 甥・武者小路公秀 - 国際政治学者。父は実篤の兄・武者小路家10代目当主公共、母は伊東義五郎の娘で公共の後妻・不二子。
- 従兄・甘露寺受長 - 元東宮侍従、侍従次長。
- その他の親族 - 下に掲載されている系図を参照。
毛利元徳 | 万子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路実光 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路公共 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路公秀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
不二子 | 木村龍蔵 | 木村雅世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路実世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新子 | 錦子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋子 | 武者小路侃三郎 | 武者小路篤信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路信和 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
烏丸光亨 | 武者小路実篤 | 妙子 | 小絵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
武者小路穣 | 武者小路知行 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
操子 | 四代目中村梅玉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
辰子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
甘露寺義長 | 甘露寺受長 | 績子 | 有紀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
勘解由小路資生 | 立子 | 甘露寺方房 | 近藤荒樹 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
近藤荒一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎久弥 | 澄子 | 伊久子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎彦弥太 | 直子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寧子 | 岩崎隆弥 | 池田行彦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩崎恒弥 | 池田勇人 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
紀子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
満枝 | 石橋慶一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
勘解由小路資承 | 柳宗悦 | 柳宗玄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
康子 | 祥子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊子 | 万亀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
銀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志賀直吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
副島種臣 | 志賀直哉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志賀直道 | 志賀直温 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志賀直三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
副島道正 | 順子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- ^ 調布市武者小路実篤記念館 よくある質問とその答え
- ^ 長尾剛『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 (朝日新聞出版、2018年)
- ^ 村民になるには原則40歳以下の年齢制限がある。
- ^ 董炳月『新しき村から「大東亜戦争」へ : 周作人と武者小路実篤との比較研究』 東京大学〈博士(文学) 甲第13815号〉、1998年。doi:10.11501/3162331。NAID 500000183210 。
- ^ 「太平洋戦争期においても、武者小路の天皇に対する愛と尊敬は一度も変わったことがなかった。戦争中、武者小路は転向し、戦争に賛成し、協力したのである。これは小さい時から彼の心に滲みこんだ愛国思想と強い国家意識にかかわる」(夏艷文『武者小路實篤自我思想的形成』 (PDF) )[リンク切れ]
- ^ 『官報』第5757号、昭和21年3月26日。
- ^ 『官報』第5871号、昭和21年8月9日。
- ^ 『朝日新聞』1946年9月27日一面。
- ^ 『朝日新聞』1951年8月7日二面。
- ^ 実篤公園 - 調布市
- ^ 武者小路実篤記念館 - 調布市
- ^ 旧実篤邸が国登録有形文化財に登録 調布市ホームページ(2018年12月17日)2019年1月2日閲覧。
- ^ 武者小路實世アジ歴 地名・人名・出来事事典
- ^ 亀井志乃「〈裸体をもつてほこる〉詩人 : 武者小路実篤こおける〈詩〉の成立」『国語論集』第11巻、北海道教育大学釧路校国語科教育研究室、2014年3月、19-54頁、doi:10.32150/00008721。
- ^ a b c d e f g 大津山国夫「武者小路実篤の系族(下)」『語文論叢』第17巻、千葉大学文学部国語国文学会、1989年10月、3-22頁、NAID 110000449798、2023年5月6日閲覧。
- ^ 武者小路公共『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929
- ^ 子爵 三室戸敬光『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929
- ^ 西正寺 ~武者小路実篤姉の菩提寺~ (和歌山市和歌浦中)和歌山社会経済研究所
- ^ 平田敏雄『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 「武者小路実世」『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年、ム2頁。
- ^ 弦巻克二、吉川仁子「池田小菊関連書簡 -志賀直哉未発表書簡を含めて-」『叙説』第33巻、奈良女子大学文学部、2006年3月、244-267頁、hdl:10935/67、ISSN 0386-359X、CRID 1050282813367604992。
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