柳宗悦 柳宗悦の概要

柳宗悦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:24 UTC 版)

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柳 宗悦
(やなぎ むねよし)
柳宗悦
誕生 (1889-03-21) 1889年3月21日
東京府麻布区市兵衛町二丁目
(現:東京都港区六本木
死没 (1961-05-03) 1961年5月3日(72歳没)
日本民藝館西館(旧柳宗悦邸)
墓地 東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園27区13側2番
職業 思想家
美学
宗教哲学
最終学歴 東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業
ジャンル 美学
工芸
民芸
主題 英米文学
日本民芸
アイヌ沖縄朝鮮台湾の文化
文学活動 白樺派
民藝運動
主な受賞歴 文化功労者(1957年)
配偶者 柳兼子(旧姓:中島)
子供 柳宗理(長男)
柳宗玄(次男)
柳宗民(三男)
親族 柳楢悦(父)
勝子(母)
嘉納治五郎(叔父、勝子の弟)
柳悦孝(甥)
石丸重治(甥)
今村成和(甥)
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来歴

誕生

東京府麻布区市兵衛町二丁目において、元海軍少将柳楢悦の三男として生まれる[3][4][5]。1891年、柳が2歳の時に父はインフルエンザで死去、その後は母に育てられた[6]

教育

柳家には爵位はなかったものの、父楢悦は海軍で最終的に少将までのぼり、短期間ではあったが貴族院議員であった[7]。そのため1895年には、当時は入学の際に身分の条件があった学習院の初等学科に宗悦は入学する[7]。学習院では、西田幾多郎にドイツ語を、神田乃武鈴木大拙に英語を学んだ[6]。また、中等科時代には英語の教師で植物学者でもあった服部他之助にしばしば赤城山に連れて行かれていたため、宗悦はこの時期から自然に親しみ、観察眼を養った[8]

中等科に進む頃に武者小路実篤志賀直哉らと知り合い交流し、同人雑誌白樺』の創刊を準備する[3]。学習院在学中の1909年9月には、来日してエッチング教室を開いていたバーナード・リーチを、のちの『白樺』同人の数人とともに訪問する[9]。リーチと宗悦を含めた『白樺』同人との交流はこの時に始まった[9]。1910年に高等科を卒業[3]。学習院では優等生として知られており、卒業時には天皇から恩賜の銀時計を授けられた[10][9]。このころ、のちに妻となる当時東京音楽学校で声楽を専攻していた中島兼子と出会い、交際を重ねる[11]

1910年4月、『白樺』を創刊する[12]。創刊当時、宗悦は神学に興味を持っており、初めて『白樺』に投稿した論文は「近世における基督教神学の特色」(1910年6月号)と題されたものであった[13]。この神学、宗教への関心から、1910年10月には東京帝国大学文科大学に進学する[13]。宗教に関心がありつつも、人生問題(老、病、死など)に対する「宗教的哲学的解釈」に不満を持った宗悦は、「実験と観察に基づいた科学」としての心理学によって人生問題へ科学的な答えを出すことに期待し、大学で心理学を専攻する[13]。1911年には最初の著作『科学と人生』を出版した[13]。この書籍では、当時流行していた心霊主義の影響が見られる[13]

のちには西洋近代美術を紹介する記事も担当しており、やがて美術の世界へと関わっていく[14]。『白樺』では、オーギュスト・ロダンなどの西洋近代美術を日本へ紹介することにも尽力した。また、イギリスの詩人で画家でもあるウィリアム・ブレイクに傾倒し、ブレイクに関するいくつかの著作もある。

民藝活動へ

1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業[15]。卒業論文は残されていないが、のちに宗悦自身はこの時「心理学は純粋科学たり得るか」という論題に取り組んだと述べている[16]。この時の結論は心理学は純粋科学とはなり得ないというのであり、当時の主流であった実験心理学の流れに逆らうものであった[16]。また、アカデミズムに対する違和感を覚え、のちに妻となる中島兼子に、もう2度とアカデミズムには戻りたくないと述べた手紙を送っている[16]。このような背景から、こののちの宗悦は独自の学問を形成していくこととなった[16]。このころからブレイクの「直観」を重視する思想に影響を受け、これが芸術と宗教に立脚する独特な柳思想の基礎となった[17]

1914年(大正3年)、声楽家の中島兼子(柳兼子)と結婚。母・勝子の弟嘉納治五郎千葉我孫子に別荘を構えており、宗悦も我孫子へ転居した。やがて我孫子には志賀直哉武者小路実篤白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行った[18]。陶芸家の濱田庄司との交友もこの地ではじまる[19]

当時、白樺派の中では、西洋美術を紹介する美術館を建設しようとする動きがあり、宗悦たちはそのための作品蒐集をしていた。彼らはフランスの彫刻家ロダンと文通して、日本の浮世絵と交換でロダンの彫刻を入手する。

宗悦が自宅で保管していたところ、朝鮮の小学校で教鞭をとっていた浅川伯教が、その彫刻を見に宗悦の家を訪ねてくるが、その際、浅川が手土産に持参した「染付秋草文面取壺」を見て宗悦は朝鮮の工芸品に心魅かれる[14]1916年(大正5年)以降、たびたび朝鮮半島を訪ね、朝鮮の仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された[17] [19]1924年(大正13年)にはソウルに「朝鮮民族美術館」を設立、李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を展示し、その中の美を評価した[17]

1919年(大正8年)に東洋大学教授となり[20]1921年(大正10年)からは明治大学予科にも出講した[20]

1923年(大正12年)の関東大震災を機に京都へ転居し、同志社大学同志社女学校専門学部[21]関西学院の講師となる[20]木喰仏に注目し、1924年から全国の木喰仏調査を行う[14][19]。民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界を紹介するため、1925年(大正14年)から「民藝」の言葉を用い[17]、翌年、陶芸家の富本憲吉濱田庄司河井寛次郎の四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した[22]。『工藝の道』(1928年刊)では「用と美が結ばれるものが工芸である」など工芸美、民藝美について説いた[19][17]

1931年(昭和6年)には、雑誌『工藝』を創刊、民芸運動の機関紙として共鳴者を増やした。1934年(昭和9年)、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会が設立される。1936年(昭和11年)に、実業家大原孫三郎の支援により、宗悦が初代館長となり東京駒場に日本民藝館を創設した[17]。また沖縄台湾などの南西諸島の文化保護を訴えた[14]

1957年(昭和32年)、「民藝理論の確立・日本民藝館の設立・民芸運動の実践の業績」により、文化功労者に顕彰された[23]

晩年

晩年はリウマチ心臓発作との闘病を余儀なくされたが、なおも執筆活動を続けた。1961年(昭和36年)4月29日、日本民藝館で昼食を取っている際に脳出血で倒れ、昏睡を続けたが、5月3日午前4時2分に逝去した[24][26]享年72歳。

1984年、韓国から宝冠文化勲章を授与された[23]

家族

1914年大正3年)、中島兼子と結婚、兼子は近代日本を代表するアルト声楽家だった。インダストリアルデザイナー柳宗理は長男、美術史家柳宗玄は二男、園芸家の柳宗民は三男。甥に染織家の柳悦孝、美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。


注釈

  1. ^ 「宗悦」の読みは「むねよし」が正しいが、「そうえつ」と音読みされることが多く、本人自身、英文の解説ではYanagi Soetsuとクレジットしていた。公式サイトの英文表記も Soetsu となっている[2]
  2. ^ 1919年5月11日に執筆され読売新聞に掲載された「朝鮮人を想ふ」が最初の朝鮮に関する言及(『柳宗悦全集』第六巻収録)
  3. ^ 柳宗悦から鈴木大拙へ
    先生は、絶えず希望を持ち計画を立て、いつも何か新しい仕事を企てられているが、九十歳の老齢で、この旺盛な意欲を持たれ前進して行かれるのは驚くほかはない。恐らくこれがまた、先生をして長寿を保たせているその秘訣かと思われるが、嘗てブライスが私に言ったように全くirreplacable-man(かけがえのない人)という評が大いに当たっていよう。 — 柳宗悦、柳宗悦コレクション「かけがえのない人」筑摩書房 2010.12 ISBN 9784480093318
  4. ^ 鈴木大拙から柳宗悦へ(弔辞)
    君は天才の人であった。独創の見に富んでいた。それはこの民藝館の形の上でのみ見るべきでない。日本は大なる東洋的「美の法門」の開拓者を失った。これは日本だけの損失でない、実に世界的なものがある。まだまだ生きていて、大成されることを期待したのであったが、世の中は、そう思うようには行かぬ。大きな思想家、大きな愛で包まれている人、このような人格は、普通に死んだといっても、実は死んでいないと、自分はいつも今日のような場合に感ずるのである。不生不死ということは、寞寞寂寂ということではない。無限の創造力がそこに潜在し、現成しつつあるとの義である。これを忘れてはならぬ。これは逝けるものを弔うの言葉でなくて、実は参会の方々と共に自分を励ます言葉である。 — 鈴木大拙、「柳君を憶ふ」『民藝』2013年10月号
  5. ^ p367「1938年12月27日~1939年 1月13日」p369「1939(昭和 14)年3月~4月、同年12月~1940(昭和15)年1月、同年7月~8月」並松信久2016『柳宗悦と沖縄文化』京都産業大学論集人文科学系列第49号
  6. ^ 初刊は、昭和書房〈民藝叢書〉全6巻(1941-43年・52年)、芹沢銈介装幀。書目は、第1篇「民藝とは何か」(柳の著書)、第2篇「琉球の文化」、第3篇「現在の日本民窯」(式場と共編)、第4篇「琉球の陶磁」、第5篇「満洲の民藝」(本山桂川著)、戦後刊で第6篇「岡山県の民藝」(外村吉之介著)。
  7. ^ 初刊は『民藝図(圖)鑑』全3巻、日本民藝協会編、宝(寶)文館、1960-63年。
  8. ^ 表記は「南無阿彌陀佛」。特製版(限定千部)も刊行。

出典

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “柳宗悦”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年1月21日閲覧。
  2. ^ About the Museum”. 日本民藝館. 2019年6月11日閲覧。
  3. ^ a b c 思想家紹介 柳宗悦”. 京都大学大学院文学研究科・文学部. 2019年6月11日閲覧。
  4. ^ a b 中見 2013, p. 16-17.
  5. ^ 柳の誕生当時、父楢悦は退役し、元老院議官であった[4]
  6. ^ a b 中見 2013, p. 17.
  7. ^ a b 中見 2013, p. 19.
  8. ^ 中見 2013, pp. 19–20.
  9. ^ a b c 中見 2013, p. 20.
  10. ^ 官報. 1910年04月05日 - 国立国会図書館デジタルコレクション” (日本語). dl.ndl.go.jp. 2022年1月21日閲覧。
  11. ^ 中見 2013, pp. 21–22.
  12. ^ 東京国立近代美術館編 2021, p. 246.
  13. ^ a b c d e 中見 2013, p. 21.
  14. ^ a b c d 増田穂 (2017年2月10日). “「直観」で見る「美」――『柳宗悦と民藝運動の作家たち』展 日本民藝館職員、月森俊文氏インタビュー”. シノドス. 2017年2月10日閲覧。
  15. ^ 『官報』第286号、大正2年7月12日、p.312
  16. ^ a b c d 中見 2013, p. 23.
  17. ^ a b c d e f 民藝運動の父、柳宗悦”. 日本民藝協会. 2017年2月10日閲覧。
  18. ^ 白樺文学館の沿革、我孫子市白樺文学館”. 我孫子市ホームページ. 2017年2月10日閲覧。
  19. ^ a b c d 柳宗悦と日本民藝館”. 日本民藝館. 2017年2月10日閲覧。
  20. ^ a b c 柳宗悦 - 東文研アーカイブデータベース
  21. ^ 同志社人物誌 94 柳宗悦
  22. ^ 沿革”. 日本民藝館. 2017年2月10日閲覧。
  23. ^ a b 中見 2013, p. 40.
  24. ^ 水尾 2004, pp. 462–465.
  25. ^ 水尾 2004, p. 465.
  26. ^ 逝去後、勤行が行われた後に、病理解剖のために一度飯田橋警察病院に運ばれ、その日のうちに日本民藝館に戻った[25]
  27. ^ 東京国立近代美術館編 2021, p. 250.
  28. ^ 故柳宗悦に韓国文化勲章 - 東京文化財研究所、2021年1月30日閲覧。
  29. ^ 日本人民芸運動家の『柳宗悦』展が韓国で…工芸運動の観点から再解釈 中央日報日本語版 2013.06.06
  30. ^ 『民藝』 102号(1961-06)「柳君を憶ふ / 鈴木大拙」 p4
  31. ^ 『季刊 新沖縄文学 80』特集:沖縄と柳宗悦(沖縄タイムス社刊、1989年)に詳しい[要文献特定詳細情報]
  32. ^ 琉球の陶器 復刻版 沖縄学古典叢書3 柳宗悦 編 平良邦夫 解題 榕樹社 ISBN:4947667281
  33. ^ 英文版「JAPANESE FOLK CRAFTS 柳宗悦コレクション」(マイケル・ブレーズ英訳、出版文化産業振興財団、2020年)がある。






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