柳宗悦 柳宗悦の概要

柳宗悦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 21:30 UTC 版)

柳 宗悦
(やなぎ むねよし)
柳宗悦
誕生 (1889-03-21) 1889年3月21日
日本
東京府麻布区市兵衛町二丁目
(現: 東京都港区六本木
死没 (1961-05-03) 1961年5月3日(72歳没)
日本
東京都目黒区
日本民藝館西館(旧柳宗悦邸)
墓地 東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園27区13側2番
職業 思想家
美学
宗教哲学
最終学歴 東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修卒業
ジャンル 美学
工芸
民芸
主題 英米文学
日本民芸
アイヌ沖縄朝鮮台湾の文化
文学活動 白樺派
民藝運動
主な受賞歴 文化功労者(1957年)
配偶者 柳兼子(旧姓:中島)
子供 柳宗理(長男)
柳宗玄(次男)
柳宗民(三男)
親族 柳楢悦(父)
勝子(母)
嘉納治五郎(叔父、勝子の弟)
柳悦孝(甥)
石丸重治(甥)
今村成和(甥)
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宗教哲学、近代美術に関心を寄せ白樺派にも参加。芸術を哲学的に探求、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めた。著名な著書に『手仕事の日本』、『民藝四十年』などがある。

来歴

誕生

1889年(明治22年)3月21日[3]東京府麻布区市兵衛町二丁目に元海軍少将柳楢悦とその妻勝子の三男として生まれる[4][5][注 2]。1891年、宗悦が2歳の時に父はインフルエンザで死去、その後は母に育てられた[6]

教育

父・柳楢悦は爵位こそなかったが、没時は発足間もない貴族院議員に在任していた[7]。1895年に宗悦は、当時は入学の際に身分の条件があった学習院の初等学科に入学[7]し、西田幾多郎ドイツ語を、神田乃武鈴木大拙に英語を学んだ[6]。また中等科時代には、英語の教師で植物学者でもあった服部他之助に度々赤城山に連れて行かれ、自然に親しみ観察眼を養った[8]

中等科に進む頃に武者小路実篤志賀直哉らと知り合い交流し、同人文芸誌白樺』創刊を準備[4]し、学習院在学中の1909年9月には、来日し東京・上野でエッチング教室を行っていたバーナード・リーチを、創刊準備中の『白樺』同人仲間と訪問[9]し、後にリーチが版画指導するなど『白樺』同人たちと交流が始まった[9]

1910年に高等科を卒業[4]。学習院では優等生として知られており、卒業時には明治天皇から恩賜の銀時計[10][9]を授与された。この頃に妻となる中島兼子(当時東京音楽学校で声楽を専攻)と出会い交際を深めた[11]

1910年4月『白樺』を創刊[12]し、創刊時の宗悦は、神学に興味を持っており、初めて『白樺』に投稿した論文は「近世における基督教神学の特色」(1910年6月号)と題されたものであった[13]。この神学、宗教への関心から、1910年10月には東京帝国大学文科大学に進学する[13]

宗教に関心がありつつも、人生問題(老、病、死など)に対する「宗教的哲学的解釈」に不満を持った宗悦は、「実験と観察に基づいた科学」としての心理学によって人生問題へ科学的な答えを出すことに期待し、大学で心理学を専攻する[13]。1911年には最初の著作『科学と人生』を出版した[13]。処女作では、当時流行していた心霊主義の深い影響が見られる[13]

ロダン・ブレイクへの傾倒

この時期は、西洋近代美術を紹介する記事も担当しており、やがて美術の世界へと関わっていく[14]。『白樺』では、オーギュスト・ロダンなどの西洋近代美術を日本へ紹介することにも尽力した。また、イギリスの詩人で画家、神秘思想家でもあるウィリアム・ブレイクに傾倒する。

当時、宗悦を含めた白樺同人たちはロダンに傾倒していた[15]。それを象徴するように、『白樺』第1巻第8号では「ロダン第七十回誕生記念号」という特集が組まれ、宗悦もそこに「宗教家としてのロダン」という論文を発表した[15]。この『白樺』第1巻第8号と浮世絵三十点をロダンに送ったところ、1911年の9月にロダンから直筆の礼状が送られてきた[16]。その礼状の中には、ロダンが3点のブロンズ像を『白樺』へ贈るということと、デッサン展の開催の依頼が記されていた[16]。ロダンからのブロンズ像は同年12月に横浜に入港し、宗悦が受け取りに横浜まで出向き、『白樺』の同人たちのもとに届けられた[17]。この時贈られたのは「ロダン夫人胸像」、「ある小さき影」、「巴里ゴロツキの首」の3点である[18]

民藝活動へ

1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業[19]。卒業論文は残されていないが、のちに宗悦自身はこの時「心理学は純粋科学たり得るか」という論題に取り組んだと述べている[20]。この時の結論は心理学は純粋科学とはなり得ないというのであり、当時の主流であった実験心理学の流れに逆らうものであった[20]。また、アカデミズムに対する違和感を覚え、のちに妻となる中島兼子に、もう2度とアカデミズムには戻りたくないと述べた手紙を送っている[20]。このような経緯により、独自の学問を形成提起していくこととなった[20]。このころからブレイクの「直観」を重視する思想に影響を受け、これが芸術と宗教に立脚する宗悦独自の思想大系の基礎となった[21]

1914年(大正3年)2月、かねてから交際していた声楽家の中島兼子と結婚[22]。結婚後、しばらく二人は離れて住んだが、同年9月に宗悦の母の弟である嘉納治五郎が、千葉我孫子に別荘と農園を構えていた縁で、同地に転居した[22][23]。やがて我孫子には志賀直哉武者小路実篤白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行った[24]。陶芸家の濱田庄司との交友もこの地ではじまる[25]

前述のロダンから贈られたブロンズ像は、宗悦が自宅で保管していた[26]。1914年、朝鮮の小学校で教鞭をとっていた浅川伯教は、ロダンの彫刻を見に宗悦の家を訪れ、その際、手土産に「李朝染付秋草文面取壺」と呼ばれる陶磁器を持参した[27]。この陶磁器を見て宗悦は形の美の感覚が最も発達した民族は古朝鮮人であると認識するようになり、朝鮮の工芸品に注目するようになる[27][14]1916年(大正5年)以降、たびたび朝鮮半島を赴き、朝鮮の古仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された[21] [25]

1914年12月、同年4月に『白樺』に発表したブレイク論をもとに書き下ろした『ヰ(ウィ)リアム・ブレイク』(洛陽堂)を出版[28]、750頁余りの大著で、宗悦をブレイクの研究に向かわせたリーチに本書を捧げると記されている[29]。当時、ブレイクの本国イギリスにおいても、まだ本格的な研究はされておらず、宗悦が示したブレイクを「無律法主義者」として捉えるという考え方は、本書の出版の40年以上後にようやくイギリスの研究者が指摘するようになった[30]

1919年(大正8年)に東洋大学教授となり[31]1921年(大正10年)からは明治大学予科にも出講した[31]

1923年(大正12年)の関東大震災(兄・悦多を亡くした)を機に京都へ転居した。同志社大学同志社女学校専門学部[32]関西学院の講師となる[31]木喰仏に注目し、1924年から全国の木喰仏調査を行う[14][25]。民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界を紹介するため、1925年(大正14年)から「民藝」の言葉を用い[21]、翌年、陶芸家の富本憲吉濱田庄司河井寛次郎の四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した[33]。『工藝の道』(1928年刊)では「用と美が結ばれるものが工芸である」など工芸美、民藝美について説いた[21][25]

1931年(昭和6年)には、雑誌『工藝』を創刊、民藝運動の機関紙として共鳴者を増やした。1934年(昭和9年)、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会が設立される。1936年(昭和11年)に、実業家大原孫三郎の支援により、宗悦が初代館長となり東京駒場に日本民藝館を創設した[21]。また沖縄台湾などの南西諸島の文化保護を訴えた[14]

戦後・晩年

1952年(昭和27年)5月から、毎日新聞社の後援を得て国際工芸家会議に列席のため志賀直哉、濱田庄司、梅原龍三郎らとヨーロッパ・北米の周遊旅行を行った(志賀と梅原は体調不良などで8月に切り上げ帰国)、翌53年(昭和28年)2月に再会したバーナード・リーチ(18年ぶりに来日)を伴い帰国した[34]。1954年から翌55年に一般向けに「選集」全10巻が刊行し広く認知されたが、1956年暮れからリウマチ心臓発作との闘病を余儀なくされつつも民藝運動の進展に向け執筆活動を続けた。

1957年(昭和32年)11月に「民藝理論の確立・日本民藝館の設立・民藝運動の実践の業績」により、文化功労者[35]に顕彰された。1960年に朝日文化賞を授賞。

1961年(昭和36年)4月29日、日本民藝館で昼食・談話時に脳出血で倒れ、昏睡が続いたが、5月3日午前4時2分に逝去した[36][注 3]享年72歳。5月7日、日本民藝館で葬儀を行った。

家族

1914年大正3年)、中島兼子と結婚、兼子は近代日本を代表するアルト声楽家だった。インダストリアルデザイナー柳宗理は長男、美術史家柳宗玄は二男、園芸家の柳宗民は三男。甥(兄・悦多(よしさわ)の子)に染織家の柳悦孝、柳悦博。他に美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。


注釈

  1. ^ 「宗悦」の読みは「むねよし」が正しいが、「そうえつ」と音読みされることが多く、本人自身、英文の解説ではYanagi Soetsuとクレジットしていた。公式サイトの英文表記も Soetsu となっている[2]
  2. ^ 柳の誕生当時、父楢悦は海軍少将で退役、元老院議官であった[5]
  3. ^ 逝去後に勤行が行われ、一旦病理解剖のために飯田橋警察病院に運ばれ、その日のうちに日本民藝館に戻った[37]
  4. ^ 1919年5月11日に執筆され読売新聞に掲載された「朝鮮人を想ふ」が最初の朝鮮に関する言及(『柳宗悦全集』第六巻収録)
  5. ^ 柳宗悦から鈴木大拙へ
    先生は、絶えず希望を持ち計画を立て、いつも何か新しい仕事を企てられているが、九十歳の老齢で、この旺盛な意欲を持たれ前進して行かれるのは驚くほかはない。恐らくこれがまた、先生をして長寿を保たせているその秘訣かと思われるが、嘗てブライスが私に言ったように全くirreplacable-man(かけがえのない人)という評が大いに当たっていよう。 — 柳宗悦、「かけがえのない人」<コレクション1>ちくま学芸文庫、2010年12月 ISBN 9784480093318
  6. ^ 鈴木大拙から柳宗悦へ(弔辞)
    君は天才の人であった。独創の見に富んでいた。それはこの民藝館の形の上でのみ見るべきでない。日本は大なる東洋的「美の法門」の開拓者を失った。これは日本だけの損失でない、実に世界的なものがある。まだまだ生きていて、大成されることを期待したのであったが、世の中は、そう思うようには行かぬ。大きな思想家、大きな愛で包まれている人、このような人格は、普通に死んだといっても、実は死んでいないと、自分はいつも今日のような場合に感ずるのである。不生不死ということは、寞寞寂寂ということではない。無限の創造力がそこに潜在し、現成しつつあるとの義である。これを忘れてはならぬ。これは逝けるものを弔うの言葉でなくて、実は参会の方々と共に自分を励ます言葉である。 — 鈴木大拙、「柳君を憶ふ」『民藝』1961年6月号。2013年10月号で再掲
  7. ^ p367「1938年12月27日~1939年 1月13日」p369「1939(昭和 14)年3月~4月、同年12月~1940(昭和15)年1月、同年7月~8月」並松信久2016『柳宗悦と沖縄文化』京都産業大学論集人文科学系列第49号
  8. ^ 初刊は、昭和書房〈民藝叢書〉全6巻(1941-43年・52年)、芹沢銈介装幀。刊行書目は、第1篇 柳の「民藝とは何か」、第2篇「琉球の文化」、第3篇「現在の日本民窯」(式場と共編)、第4篇「琉球の陶器」、第5篇 本山桂川「満洲の民藝」、第6篇 外村吉之介「岡山県の民藝」(戦後刊)
  9. ^ 単行判表記は「南無阿彌陀佛」。特製版(限定千部)も刊行。

出典

  1. ^ "柳宗悦". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2022年1月21日閲覧
  2. ^ About the Museum”. 日本民藝館. 2019年6月11日閲覧。
  3. ^ 水尾 2004, p. 13.
  4. ^ a b c 思想家紹介 柳宗悦”. 京都大学大学院文学研究科・文学部. 2019年6月11日閲覧。
  5. ^ a b 中見 2013, p. 16-17.
  6. ^ a b 中見 2013, p. 17.
  7. ^ a b 中見 2013, p. 19.
  8. ^ 中見 2013, pp. 19–20.
  9. ^ a b c 中見 2013, p. 20.
  10. ^ 官報. 1910年04月05日 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2022年1月21日閲覧。
  11. ^ 中見 2013, pp. 21–22.
  12. ^ 東京国立近代美術館編 2021, p. 246.
  13. ^ a b c d e 中見 2013, p. 21.
  14. ^ a b c d 増田穂 (2017年2月10日). “「直観」で見る「美」――『柳宗悦と民藝運動の作家たち』展、日本民藝館学芸員・月森俊文氏インタビューの”. シノドス. 2017年2月10日閲覧。
  15. ^ a b 水尾 2004, p. 54.
  16. ^ a b 水尾 2004, p. 55.
  17. ^ 水尾 2004, p. 55-56.
  18. ^ 水尾 2004, p. 56.
  19. ^ 『官報』第286号、大正2年7月12日、p.312
  20. ^ a b c d 中見 2013, p. 23.
  21. ^ a b c d e f 民藝運動の父、柳宗悦”. 日本民藝協会. 2017年2月10日閲覧。
  22. ^ a b 水尾 2004, p. 76.
  23. ^ 水尾 2004, p. 85.
  24. ^ 白樺文学館の沿革、我孫子市白樺文学館”. 我孫子市ホームページ. 2017年2月10日閲覧。
  25. ^ a b c d 柳宗悦と日本民藝館”. 日本民藝館. 2017年2月10日閲覧。
  26. ^ 水尾 2004, p. 87.
  27. ^ a b 水尾 2004, p. 88.
  28. ^ 中見 2013, p. 25.
  29. ^ 中見 2013, pp. 25–26.
  30. ^ 中見 2013, p. 26.
  31. ^ a b c 柳宗悦 - 東文研アーカイブデータベース
  32. ^ 同志社人物誌 94 柳宗悦
  33. ^ 沿革”. 日本民藝館. 2017年2月10日閲覧。
  34. ^ 民藝協会のあゆみ 昭和20年〜昭和39年(1945年~1964年)”. 日本民藝協会サイト. 2023年9月30日閲覧。
  35. ^ a b 中見 2013, p. 40.
  36. ^ 水尾 2004, pp. 462–465.
  37. ^ 水尾 2004, p. 465.
  38. ^ 東京国立近代美術館編 2021, p. 250.
  39. ^ 日本植民地下、光化門撤去を止めた日本人の直筆原稿を発見 朝日新聞(東亜日報)2020.06.13
  40. ^ 他の電子出版は「工芸の道」「手仕事の日本」「工芸文化」「沖縄の人文」。
  41. ^ 故柳宗悦に韓国文化勲章 - 東京文化財研究所、2021年1月30日閲覧。
  42. ^ 日本人民藝運動家の『柳宗悦』展が韓国で…工芸運動の観点から再解釈 中央日報日本語版 2013.06.06
  43. ^ 『民藝』第102号(1961年6月)「柳君を憶ふ / 鈴木大拙」 p4
  44. ^ 『季刊 新沖縄文学 80号 特集 沖縄と柳宗悦』(沖縄タイムス社、1989年)に詳しい[要文献特定詳細情報]
  45. ^ 1997年に榕樹社から榕樹書林に社名変更。
  46. ^ 没後半世紀経て版権が切れ、大半の刊行著作がAmazon Kindle版(全16作品、新字新かな表記)で電子出版。
  47. ^ 英文版「JAPANESE FOLK CRAFTS 柳宗悦コレクション」(マイケル・ブレーズ英訳、出版文化産業振興財団、2020年)が出版






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