狂言記とは? わかりやすく解説

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きょうげんき〔キヤウゲンキ〕【狂言記】

読み方:きょうげんき

江戸時代に読み物として流布した、狂言詞章の版本の総称。万治3年(1660)から享保15年(1730)にかけて刊行された「ゑ入狂言記」「新板絵入狂言記外五十番」「絵入続狂言記」「絵入狂言記拾遺」の4種。いずれも50番を収め、詞章は群小諸派によるものといわれる。


狂言

(狂言記 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/10/10 17:54 UTC 版)

能舞台で二人の狂言師が演じている
2009年の姫路薪能における狂言上演

狂言(きょうげん)は、主として科(しぐさ)と白(せりふ)によって表現される、日本の古典的な喜劇・せりふ劇である。中世の猿楽から能とともに発展し、中世以来、能と同じ舞台で上演されてきた。能と狂言は芸態を異にする一方、同じ猿楽の座に属し、能と狂言の交互上演、能における間狂言、式三番における三番叟などを通じて密接な関係を保ってきた[1][2]。

能が謡・囃子・舞を中心とする歌舞劇であるのに対し、狂言はせりふとしぐさを中心とする科白劇と位置づけられる[3]。狂言の登場人物の多くは固有名をもたず、大名・太郎冠者・聟・夫婦・僧侶・山伏・座頭・盗人などのほか、神仏・鬼・動物なども登場し、中世社会の人物・生活・信仰を背景としながら、主従関係、夫婦関係、欲望、失敗、誤解などを笑いとして描く[4][5]。

ただし、狂言はせりふだけで構成されるわけではなく、謡・舞・語り・囃子を重要な要素とする曲もある。能と狂言との差異は、音楽を用いるか否かではなく、せりふ・所作・歌舞などの構成要素の比重と、その用い方にある[6][7]。

室町時代に成立・発展し、近世には大蔵流・和泉流・鷺流の三流が主要な流儀となった。現在、職業的な能楽師の流儀としては大蔵流と和泉流が継承され、鷺流の芸の一部は地域の伝承として残されている[8]。

狂言を含む能楽は1957年(昭和32年)12月4日に重要無形文化財に指定され[9]、2008年には「能楽」としてユネスコ無形文化遺産の代表一覧に記載された[10]。

語義と名称

「狂言」という呼称は、もともと滑稽な言説・言動ほどの意味をもつ語であり、「狂言綺語」などの語とも関係する。中世には狂言および狂言役者をヲカシと呼ぶことも多く、「ヲカシ」も滑稽な言説やしぐさを意味した[11]。

舞台芸能に関係する早い記録として、建武元年(1334年)の『丹後国分寺建武再興縁起』には、寺院の延年の一番として「咲(ヲカシ)」が記される。さらに観応3年・正平7年(1352年)の『周防国仁平寺本堂供養日記』には、同じく延年の演目として「狂言 山臥説法」と記されている。いずれも具体的な芸態は明らかでないが、独立した一番として数えられる程度のまとまりをもつ芸であったと考えられている[12]。

15世紀には、能とともに演じられる笑劇やその演者を「狂言」「ヲカシ」と呼ぶ用法が確認される。世阿弥も『習道書』や自筆能本で「ヲカシ」の語を用いたが、近世にはこの呼称は次第に用いられなくなり、「狂言」が一般的な名称として定着した[13]。

歴史

狂言の成立・発展は一時に完成したものではなく、長期間にわたる変化として捉えられている。能楽史では、おおむね南北朝時代から16世紀半ばまでを成立・流動期、16世紀半ばから17世紀半ばまでを筋書・台本の定着期、それ以降を台本の固定・伝承期とする時期区分が用いられている[14]。

前史と成立

奈良時代に大陸から伝来した散楽には物まねや滑稽芸が含まれ、平安時代には散楽から転じた猿楽にも滑稽な物まねや寸劇がみられた。平安時代中期の藤原明衡の作とされる『新猿楽記』にも、当時のさまざまな猿楽芸が記録されている。しかし、平安・鎌倉時代の滑稽芸と後世の狂言との間には資料上の空白があり、個々の芸が直接どのように狂言へ継承されたかを確定することは難しい[15]。

南北朝時代になると、前節で触れた延年の記録などに、後世の狂言につながる笑劇が独立した一番として記されるようになる[12]。

一方、能を演じる猿楽座の内部でも狂言が発達した。世阿弥の『習道書』には、神事・勧進などでは能三番と狂言二番を合わせて五番とするという記述があり、15世紀前半には狂言が能と併演される独立した一番として猿楽興行の中に定着していたことが確認できる。また『習道書』『申楽談儀』には狂言役者が本狂言だけでなく能の間狂言を演じることについての記述もあり、能と狂言の役割関係もこのころまでに形成されていた[16]。

狂言の成立を、役者の系譜だけでなく作品そのものの形成過程から捉える研究も進められている。橋本朝生は、『看聞御記』応永31年(1424年)3月11日条の「公家人疲労ノ事」を狂言上演の初出資料として位置づけ、鎌倉期の猿楽にみられた劇的な物真似の系譜や、成立期の能に残る能・狂言未分化の要素を検討したうえで、南北朝期に歌舞劇としての能が成立する過程で古猿楽の滑稽・物真似的要素が分化し、狂言が成立したと論じている[17]。

室町時代

室町時代の狂言は、後世に比べて即興性が強く、演じた内容を逐一台本に書き留める芸能ではなかったと考えられている。このため、能には世阿弥らの伝書や多数の能本が伝わるのに対し、同時代の狂言の具体的演出を知る資料は少ない[18]。

当時の狂言は、上演時の社会や観客に即応する性格を強くもっていた。『看聞御記』応永31年(1424年)3月11日条には、丹波猿楽の矢田座が伏見の御香宮で「公家人疲労の事」を狂言に仕組んだところ、場所柄をわきまえないとして叱責されたことが記される。同書には、比叡山で日吉山王の猿を題材にした狂言が山法師の怒りを買った例や、仁和寺で僧侶の不行跡を演じて処罰された例も記される[19]。

ただし、こうした事例のみから狂言の本質を社会批判や風刺に求めることには慎重な見方もある。表章・天野文雄は、狂言の本質を「ヲカシ」、すなわち滑稽な言説・しぐさに置き、風刺はその笑いに付随する一側面として捉えている[11]。

室町後期になると記録に残る曲名が増え、現行曲と対応する演目も多くなる。天正6年(1578年)の奥書をもつ『天正狂言本』は、人物の行動や話の展開を簡潔に記した筋書きを中心とする古い狂言書留である。所収曲には後世の台本にはみられない作品もあり、既存曲にも後世より自由な演出が記されている[20]。

一方、『天正狂言本』所収曲の多くは程度の差はあるものの現行狂言に対応し、16世紀には現在につながる曲の骨格が広く形成されていた[21]。この時期の狂言は固定した古典ではなく、観客に通じなくなった事柄を捨て、新しい社会現象や歌謡を取り入れる当代性をもっていた。現在の曲は、こうした長い流動期を経て、室町末期から近世初頭にかけて次第に定着したものと考えられている[22]。

戦国・織豊期と流儀形成

戦国時代には、大和猿楽四座に属する狂言役者だけでなく、南都の禰宜衆や京都の狂言師など多様な演者が活動した。大和猿楽の座そのものが社会・政治状況の変化を受けるなかで、狂言は座の内部で能とともに演じられる一方、座の枠外にも広がりをもっていた[23][21]。

16世紀末から17世紀前半にかけては、家を単位とする芸の継承と流儀意識が強まり、大蔵家、鷺家、山脇和泉家などを中心とする芸系が整えられた。元和以降、幕府の猿楽保護政策が定着するなかで家・流儀ごとの伝承が明確になり、近世の大蔵流・和泉流・鷺流の三流体制へと再編されていった[24][25]。

同じ時期には台本の記録方法も変化した。『天正狂言本』のような筋書中心の書留に対し、17世紀前半には天理本『狂言六義』や大蔵虎明本など、せりふをより詳しく記録した台本が成立した。流儀形成と台本整備は並行して進み、狂言は当代の状況に応じて変化する芸能から、過去の詞章・演出を家ごとに継承する古典芸能としての性格を強めていった[26][27]。

江戸時代

江戸時代の能舞台で演者が上演する様子を描いた絵
1700年頃の能・狂言の上演図

江戸時代になると、能・狂言は幕府によって式楽として制度化され、諸藩もこれにならった。狂言役者は猿楽の各座に所属し、幕府・諸藩の扶持を受ける者も多くなり、大蔵流・和泉流・鷺流を中心とする流儀体制が定着した[24]。

流儀の定着は台本・伝書の整備とも結びついた。大蔵虎清は寛永16年(1639年)に間狂言や風流についての伝書を著し、大蔵虎明は寛永19年(1642年)に多数の本狂言を収めた『虎明本』を書写した。17世紀から18世紀にかけて各流・各家でせりふや所作が記録され、狂言の言葉も同時代の口語から次第に離れて、伝承される舞台語として整えられていった[28][26]。

ただし、台本が整備された後も、狂言は台本を一字一句そのまま再現する芸能となったわけではない。口承を基本として伝承され、同じ流派でも家や演者によってせりふの増減・言い換えや細部の演出差が存在した[29]。

近世には一般向けの版本『狂言記』も刊行され、狂言は上演芸能であると同時に絵入りの読み物としても享受された[30]。

また、式楽化によって狂言が武家社会だけに閉じられたわけではない。大坂では延宝年間以降、幕末までにおよそ20回の勧進狂言の興行が知られ、町人を含む都市の観客が大蔵・和泉・鷺などの狂言に接する機会となった[31]。

明治・大正期

明治維新は、幕府・諸藩の扶持や保護を基盤としてきた能楽界に大きな変化をもたらした。狂言方でも旧来の経済的基盤を失って廃業・転業する者が相次ぎ、大蔵流・鷺流では宗家が断絶し、和泉流でも宗家の継承が不安定になるなど、それまで流儀の中心に位置した家々の多くが衰退した[32][33]。

その一方で、近代の狂言は旧来の宗家体制をそのまま復元したのではなく、弟子家や流内の諸派を新たな担い手として再編された。京都では明治2年(1869年)、大蔵・和泉・鷺の狂言師が流派を越えて式目を取り決め、出演・楽屋作法などについて協調することを確認した。翌1870年には大蔵流で曲目の改訂が行われ、既存曲の整理とともに和泉流系統や古台本にみえる曲が取り入れられた[34]。東京でも維新直後の演者不足のなかで異流混演が行われ、1876年の岩倉具視邸行幸啓能では大蔵流・和泉流の役者が同一曲を共演し、1878年の青山御所舞台開きでは三流の役者による混演もみられた[35]。

東京では、和泉流三宅派の三宅庄市と加賀から上京した野村与作が明治7年(1874年)ごろから舞台に現れた。三宅庄市は明治11年(1878年)に青山御所の御能御用係となり、その後も金沢・名古屋・京都などから和泉流狂言師の上京が続いた[36][37]。大蔵流では山本東次郎家、京都の茂山家などが伝承を支えた[38]。

鷺流は宗家・主要な家々が相次いで芸界を離れ、中央の職業的な流儀としては大正初期までに途絶えた[39][33]。一方、大蔵流と和泉流は弟子家・諸派を中心として伝承を継続し、現在につながる近代の基盤を形成した。

戦後

第二次世界大戦後、狂言は能の番組に組み込まれて上演されるだけでなく、独立した演劇として鑑賞される機会を増やした。昭和22年(1947年)に東京で発足した冠者会以後、狂言だけの催しが増加し、1950年代には若い狂言師による公演、新作、異流共演などが活発になった[40][41]。

戦後の狂言界では、古典曲の伝承と並行して、古曲の復元、新作狂言、現代演劇への出演など新しい舞台活動も試みられた。こうした活動と研究・教育の広がりによって、狂言は能の上演に付随する芸という従来の位置づけを越え、独立した演劇としても広く上演・鑑賞されるようになった[41][42]。

台本と日本語史資料

狂言は長く口承を基本として伝承され、まとまった台本の成立は室町時代末期以降である。『天正狂言本』はその早い例で、記述の中心は登場人物の行動や話の展開を簡潔に示す筋書きであるが、謡や語りなどは比較的詳しく書き留められている[43]。

江戸時代に流派が整備されるのと並行して、せりふや所作を詳しく記した台本・伝書が作られた。大蔵流では大蔵虎清の伝書や、寛永19年(1642年)に大蔵虎明が書写した大蔵虎明本(虎明本)が重要である。虎明本は本狂言237曲を収めるほか、間狂言、謡・語りなどについての記録も含み、大蔵流に伝わる狂言の古態を知る主要資料となっている[44][45]。

和泉流では17世紀前半ごろに成立した天理本『狂言六義』、鷺流では延宝6年(1678年)の『延宝忠政本』や18世紀前半の『享保保教本』などが伝わる。これらの台本を比較すると、同一または類似する曲でも、せりふ、人物設定、演出などに流派ごとの差異がすでにみられる[46]。

近世後期には、狂言の言葉は同時代の日常口語から離れた舞台語として整理されていった。現在の大蔵流・和泉流で用いられる詞章も、基本的には近世に形成されたこの舞台語を伝えている。ただし、狂言は現在も口承による伝承を基本とし、同一流派・同一曲でも家や演者による小異がある[47][48]。

狂言のことばは一様な文体から成るわけではない。人物どうしの対話は話しことば的な性格が強い一方、語りや謡には書きことば的な性格が強く、小歌にはその双方の性格がみられる。また、名乗りやそれに続く道行の独白は、人物間の対話よりも改まった言い回しを用いる。敬語・待遇表現も人物間の関係や劇の進行に応じて使い分けられており、一曲の内部にも複数の言語的な層が存在する[49]。

狂言のことばを特定の時代の日常口語とそのまま同一視することもできない。室町時代末期の『天正狂言本』や天理本『狂言六義』では、謡・秀句・小歌などが比較的詳しく書き留められる一方、細かなせりふは演者の裁量に委ねられていたと考えられる。これに対して、17世紀前半の大蔵虎明本では、ほぼ完全な形でせりふが記録されるようになった。さらに近世を通じて語法・待遇表現などにも変化が生じ、流派を越えて「狂言らしい」舞台語が形成されていった[50]。

このような性格から、狂言台本は日本語史の資料としても利用されてきた。せりふとト書きを中心とする対話劇であるため、発話者、相手、人物間の身分関係、発話の場面などを比較的明確に把握でき、中世から近世にかけての語彙、文法、待遇表現などを研究する資料となる[45]。したがって、狂言台本を日本語史資料として用いる際には、成立・書写年代だけでなく、口承・改訂・舞台語化の過程を考慮する必要がある[50][45]。

流派・家に伝わる台本とは別に、近世には版本『狂言記』も刊行された。万治3年(1660年)の『狂言記』、元禄13年(1700年)の『狂言記外五十番』『続狂言記』、享保15年(1730年)の『狂言記拾遺』はいずれも50曲を基本として収める。これら四部は大蔵・和泉・鷺の三流の家元台本とは一致せず、江戸初期の多様な狂言の詞章を反映する資料である。また、絵入りの読み物としても享受された[51][52]。

荻野千砂子は、版本『狂言記』には家元台本で保持された古い舞台語とは異なり、待遇表現、命令形、語彙などに同時代の言語変化を比較的早く取り入れた例があることを指摘している[52]。

上演形態

狂言方が能楽で担当する芸には、独立した劇である本狂言、能の一部として演じる間狂言、式三番における三番叟などがある。近世には『翁』に付随する祝言芸である風流も狂言方によって演じられた[53][54]。

本狂言

本狂言は、独立した筋をもつ一曲の演劇で、一般に単に「狂言」という場合には本狂言を指す。現行曲の数は、流派・家、番外曲や復曲などをどこまで含めるかによって異なる。大蔵・和泉両流に共通する曲が多い一方、一方の流派にだけ伝わる曲もあり、同一曲でも曲名、登場人物、詞章、シテ・アドの配役、囃子の有無、結末などが異なる場合がある[48]。

『狂言鑑賞案内』は、当時上演されていた狂言から180曲を選んで解説している。同書が強調するように、相違は流派間だけでなく、同一流派の家々の間にもみられる[48]。

能と能の間に狂言を置く番組構成は中世以来行われてきたが、近世には狂言を主体とした勧進狂言なども開催された。近代以降、とくに第二次世界大戦後には狂言のみを複数番上演する公演が一般化し、本狂言が能から独立した演劇作品として鑑賞される機会が増えた[55]。

間狂言

間狂言(あいきょうげん)は、能のなかで狂言方が担当する役およびその演技をいい、「間」「アイ」とも呼ばれる。狂言方は土地の者、能力、強力、船頭、従者などの役で登場し、能の進行、前後の場面の連絡、物語や土地の由来の説明などを担う[56][57]。

間狂言は、その機能からアシライアイとカタリアイに大きく分けることができる。アシライアイには、能の冒頭に登場して開幕・進行に関与するものや、『安宅』の強力、『船弁慶』の船頭のように能の諸役と応対しながら劇の進行に参加するものなどがある。カタリアイは、前シテが退場して後シテとして再登場するまでの間に登場し、ワキなどとの問答ののち、前場の人物に関する伝説、土地の由来、物語の背景などを語る[58]。

世阿弥の時代のアイは現在より簡潔なつなぎ役であったと考えられ、室町時代末期以降、前場と後場の間でまとまった語りを行う形式が発達したと推定されている[56]。本狂言と同様に口承を基本として伝えられたが、近世には各流・各家で詞章や演出を記録した台本・伝書が作成された。

大蔵流では17世紀前半から間狂言台本・伝書が比較的多く残る。一方、和泉流・鷺流では同時期の資料の把握・翻刻が十分でない時期が長かった。21世紀以降に資料整備が進み、2024年の『間狂言資料集成』には、升形本『あい之本』、『鷺流間狂言付』、『鷺流狂言型附遺形書』、『鷺流間の本』、『大蔵流間習分』、『和泉流間狂言伝書』の6種が翻刻・集成された[59]。さらに2026年には、鷺伝右衛門派の宝暦名女川本のうち現存する間狂言本5冊が、能楽資料叢書10『宝暦名女川本間狂言資料集成』として一書にまとめられた[60]。

これらに大蔵流の虎明本、和泉流の正保頃の台本、鷺流の元文・宝暦期の台本などを合わせることで、江戸初期から中期の間狂言を流派間で比較する研究が進められている。稲田秀雄は、慶長期から江戸初期の脇方資料に断片的に残るアイの詞章と後世の三流の台本を比較し、古い詞章の継承状況が流派によって異なることを示している。間狂言は能の一部でありながら、時代・流派・家によって詞章や演出に差異を生じつつ伝承されてきた[61]。

三番叟・風流

三番叟は、能楽の儀式芸である『翁』で狂言方が担当する役・舞である。大蔵流では「三番三」とも表記する。その前身にあたる「三番猿楽」は中世から狂言役者が担当しており、能と狂言が分化する以前から続く狂言方の重要な職掌の一つである[62]。

現在の三番叟は、素面で力強く舞う「揉ノ段」と、黒式尉の面を着け、鈴を持って舞う「鈴ノ段」を中心に構成される[63]。

風流は『翁』に付随して演じられた祝言芸で、神仏や福神などに扮した役が登場してめでたい由来を語り、舞う。近世には大蔵・和泉・鷺の各流に風流の台本・伝書が作られ、しだいに大規模な催しで演じられる特殊な芸となった[54]。

登場人物と曲目

役柄

4人の人物が登場する狂言の場面を描いた図
1800年頃の狂言の一場面(アメリカ議会図書館蔵)

本狂言の中心となる役はシテ、その相手役はアドと呼ばれる。アドが複数の場合、主要なアド以外を小アドと呼ぶ場合がある。また、参詣人、花見客など同種の人物が集団で登場する場合は立衆といい、その統率役を立頭と呼ぶ[64]。

狂言の登場人物の多くは固有名をもたず、「大名」「太郎冠者」「聟」「女」「出家」「山伏」「座頭」「すっぱ」「商人」「鬼」など、身分・職業・社会的役割を表す名称で呼ばれる。この人物類型は曲の分類とも密接に関係する[5]。

中世以来の古典曲は、固定した台本に基づいて一時に成立したものばかりではなく、上演のたびに内容を変化させながら伝承された。室町時代の流動的な狂言から、近世初頭に筋書・詞章が固定されていく過程で、類似する筋立てから複数の曲が形成された例や、古い曲が改変された例も多い[65]。

そのため古典曲の多くは作者を確定できない。近世の大蔵家に伝わる系譜・伝書では、玄恵(玄恵法印)、金春四郎次郎、宇治弥太郎らを狂言の形成や作曲に結びつける伝承が記されている[66]。ただし、こうした伝承を個々の作品の確実な作者表示とみなすことはできず、玄恵を狂言作者としてどこまで認められるかについても研究上の留保がある[67]。

本狂言の分類

本狂言には古くから曲の分類があるが、その分類原理は必ずしも一貫していない。大蔵流で用いられてきた分類は主として登場人物の類型を基礎とする一方、脇狂言は祝言性、舞狂言は曲の構成・演出形式による分類である[5]。

大蔵虎寛本では、脇狂言・大名狂言・小名狂言・聟女狂言・鬼山伏狂言・出家座頭狂言・集狂言の7類に分けられていた。小山弘志らは、聟と女、鬼と山伏、出家と座頭をそれぞれ分け、さらに舞狂言を独立させる分類を提示した[5]。『狂言鑑賞案内』も、所収180曲を次の11類に分けている[48]。

分類 主な内容・分類上の特徴 代表的な曲
脇狂言 神仏、果報者、百姓などが登場し、福徳、豊作、天下泰平などを寿ぐ祝言性の強い曲。 『末広がり』『宝の槌』『福の神』『筑紫奥』
大名狂言 主従関係を軸とし、大名やそれに準じる主人が中心となる曲。 『靱猿』『蚊相撲』『鬼瓦』『萩大名』『二人大名』
小名狂言 主従関係を軸とし、太郎冠者を中心に据える曲。 『附子』『棒縛』『千鳥』『木六駄』『素袍落』
聟狂言 聟取りや聟入りなど、婚姻に伴う聟と舅・家族との関係を中心とする曲。 『二人袴』『船渡聟』『岡太夫』『猿聟』
女狂言 妻や女性を主要人物として、夫婦関係、求婚、男女の駆け引きなどを扱う曲。 『水掛聟』『鎌腹』『箕被』『花子』『伯母ヶ酒』
鬼狂言 鬼、閻魔、雷など超人的な存在が登場する曲。 『節分』『首引』『神鳴』『八尾』
山伏狂言 山伏を中心人物または重要人物とする曲。 『柿山伏』『蟹山伏』『蝸牛』『腰祈』
出家狂言 僧、新発意など仏教者を主要人物とする曲。 『宗論』『布施無経』『悪太郎』『地蔵舞』
座頭狂言 座頭を主要人物とし、その生活、夫婦関係、人との交流などを描く曲。 『伯養』『清水座頭』『川上』『月見座頭』
舞狂言 能、とくに夢幻能に類似する構成・演出をもち、シテの謡や舞を中心とする曲。 『通円』『楽阿弥』『祐善』
集狂言 盗人、すっぱ、商人、親子・兄弟など、他の類に収めにくい多様な人物・題材を集めた曲。 『瓜盗人』『連歌盗人』『茶壺』『磁石』『釣狐』

この11分類も絶対的なものではない。分類は曲の性格を理解するための便宜的な枠組みであり、資料・流派・研究者によって所属の異なる曲がある。たとえば『狂言の世界』では『花子』『釣狐』を通常の類から外した別格の曲として扱うのに対し、『狂言鑑賞案内』では『花子』を女狂言、『釣狐』を集狂言に含める[68][48]。

新作狂言

近代以降に新たに創作された作品は一般に新作狂言と呼ばれる。新作には、古典狂言の人物類型・せりふ・演技様式を用いて現代的な題材を扱う作品、民話・文学などを狂言化した作品、狂言の演技技法を実験的に応用した作品などがある[69]。

近代には九世三宅藤九郎が1920年代から多数の新作を発表するなどの試みがあったが、多くは少数回の上演にとどまった[70]。第二次世界大戦後、とくに1950年代には、劇作家や演出家と狂言師との共同による新作上演が活発になった。

飯沢匡の『濯ぎ川』は、16世紀フランスの小咄を下敷きとして飯沢が1952年に書き下ろした原作を狂言にアレンジした作品で、茂山千五郎などによって上演を重ねている[71][72]。1955年には木下順二作、武智鉄二演出の『彦市ばなし』が京都で狂言として上演され、その後も再演された[73]。

その後も新作狂言の制作は続き、小松左京作『狐と宇宙人』は1979年に初演され[74]、高橋睦郎作『梅の木』は1997年に国立能楽堂で上演された[75]。いとうせいこう作『鏡冠者』は2000年の国立劇場特別公演で初演され、その後も再演されている[76]。帆足正規作・二世茂山千之丞演出の『死神』のように、古典以外の物語を狂言の技法で舞台化し、継続的に再演される作品もある[77]。

2024年には能楽学会誌『能と狂言』第22号が「狂言―研究と実践の諸相」を特集し、新作狂言を独立した研究対象として取り上げた[78]。

笑いと主題

狂言は中世に「ヲカシ」とも呼ばれ、笑いを重要な要素として発達した芸能である。しかし、すべての曲が一曲を通して観客を笑わせることを目的とするわけではない。歌舞や語りを主要な見せ場とする曲、哀感や緊張を強くもつ曲もあり、笑いもせりふ、動作、人物関係、舞台上の状況など多様な要素から生じる[79][80]。

言葉による笑い

狂言では、語の取り違え、同音異義語、掛詞、こじつけなど、言葉そのものを利用した笑いが多用される。古くは「戯れ言」「秀句」などと呼ばれた技法で、『附子』で語を取り違える場面、『仏師』で「真仏師」を「まむし」と聞き違える場面などがその例である[81]。

一方、笑いは個々の語だけから生じるとは限らない。人物が相手の言葉を字義どおりに受け取ること、知識の不足によって誤解すること、同じ言葉を反復しながら状況が変化することなど、対話全体の構成から生じる場合もある[82]。

パロディと能との関係

狂言は能と同じ猿楽の座・舞台のなかで発達したため、能の詞章・人物・構成・演技を素材とする作品が多数ある。これには単なる引用だけでなく、能の荘重な表現を日常的・卑俗な題材へ置き換えるパロディも含まれる[83]。

たとえば舞狂言『通円』は、源頼政を描く能『頼政』の形式・詞章を利用しながら、宇治橋の合戦を、橋供養の茶を点て続けて死んだ茶屋坊主の奮闘へ置き換えている[84]。

山伏狂言などにも能の詞章や謡を利用する例があり、能を知る観客に対して対照的な効果を生む。このように能と狂言は単純な「悲劇と喜劇」の対立ではなく、狂言側が能の表現を引用・変形して利用する関係にもあった[83]。

人物関係と立場の逆転

狂言では、大名と太郎冠者、僧侶と俗人、山伏と在地の人々など、社会的立場の異なる人物の関係がしばしば笑いの基盤となる。成立期の狂言には、現実の公家・僧侶などを笑いの対象とした例も確認される[19]。

また、中世の狂言では、主人に従う太郎冠者や社会的に低い位置に置かれた人物が、知恵や芸によって主人や武士を翻弄する展開も形成された。後世に祝言的な結末へ整えられた曲にも、古い台本では主人をより強く嘲弄する形を伝える例がある[85]。

ただし、こうした人物関係をただちに社会的・政治的な「風刺」と同一視することには注意を要する。橋本朝生は、狂言は笑いを主眼とし、風刺性はその属性として現れるのであって、個々の作品が現実の制度や人物への批判そのものを主目的としたとは限らないと指摘している[86]。

近世に台本・演出が固定化するにつれて特定の時事や人物に依存した表現は減り、主従、夫婦、欲望、失敗、誤解などを中心とする古典劇へ変化していった[87]。

祝言と和楽

狂言の笑いには、人物の失敗や愚かさを嘲笑するものだけでなく、舞台上の人物がともに笑い、歌い、舞うことによって観客もその明るい雰囲気に加わるような性格がある。脇狂言では神仏による福の授与、年貢納入の成就、果報者の繁栄などが描かれる。『末広がり』では主人と太郎冠者が最後に囃子物に浮かれ、『鬼瓦 (狂言)』では帰国して妻に再会できる喜びから主従が笑って終わる。こうした舞台上の和解や喜びに観客が同調して生じる笑いは、他者を嘲笑する笑いとは異なる「和楽」の性格をもつものとして論じられてきた[88][80]。

祝言性は脇狂言だけに限定されず、聟狂言、主従狂言などにもみられる[89]。

滑稽を中心としない曲

狂言のなかには、明朗な笑いだけでは説明できない作品もある。座頭狂言には晴眼者が盲人をからかう曲が多い一方、盲人の心境を深く描く作品もある[90]。『川上』では、盲目の夫と妻が離別を迫られながらも連れ添うことを選ぶ夫婦の関係が描かれる[91]。『月見座頭』では月見の夜の交流が一転し、最後に座頭が独り野辺に残される結末が「情趣が深い」と評されている[92]。

また、舞狂言では能を模した謡・舞そのものが作品の主要な鑑賞対象となる。このような作品の存在からも、狂言は笑いだけに還元できない複数の芸態・主題を内包している[93]。

狂言の喜劇性を、個々の笑いの技法ではなく作品全体の構造から捉える研究もある。柴田勝二は、狂言の中心人物が窮地や抑圧を経たのちに活力を回復する展開に注目し、狂言を単なる笑劇ではなく喜劇的な構造をもつ演劇として論じている[94]。

演出と演技

舞台と構成

橋掛り、舞台、狂言座などを示した能舞台の平面図
能舞台の平面図。11は狂言座

狂言は原則として能舞台で演じられる。常設の背景装置をほとんど用いず、舞台上の位置、演者の移動、せりふ、所作、小道具などによって、家、街道、山野、寺院、都など異なる場所を表現する[95]。

登場人物が舞台を一巡することで長い距離を移動したことを示す「道行」のように、現実の時間・距離を舞台上で圧縮して表現する技法も用いられる。劇中でその場にいない人物は、狂言座・後見座などへ移って着座することによって一時的に劇中の場面から外れる[96]。

多くの狂言には、名乗り、呼出し、道行、案内など、一定の機能をもつ小さな場面単位が存在する。小山弘志らはこれを「小段」として整理し、一曲が複数の小段の組み合わせによって構成されていることを指摘している[97]。

結末にも一定の型があり、追いかけながら退場する追込み、主人が従者を叱って終わる叱り留め、大きく笑って終わる笑い留め、謡や舞で終わる謡留め・舞留めなどがある。同一曲について複数の留め方が伝えられる例もある[98]。

構エ・運ビと所作

狂言の身体技法は日常動作をそのまま舞台へ移したものではなく、長い伝承によって様式化されている。基本となる姿勢を構エ(かまえ)、その姿勢を保って舞台上を歩くことを運ビ(はこび)という[99]。

構エでは背筋を伸ばし、重心を低くして下半身を安定させる。運ビでは構エを保ったまま摺り足で移動する[99]。これらは小舞などの稽古を通して習得され、舞・日常的な動作・役柄の演技に共通する身体技法となる[100]。

舞台上では、一足前へ出る、一足後ろへ下がる、相手へ身体を向けるなどの小さな動きにも一定の型があり、人物間の関係や舞台空間を表す。能と共通する所作もある一方、飲食、酔態、争い、物真似など、狂言独自の具体的な演技も発達している[101]。

身体技法には呼吸も関与する。狂言の演技を単純に「能より写実的」とするのは十分ではなく、様式化された身体技法の上に、日常生活を思わせる具体的動作や物真似が組み合わされている。大蔵流山本家の狂言師を対象とした小林ゆい・森下はるみの実験では、基本所作と呼吸との対応関係が舞台経験によって異なり、熟練者では所作と呼吸相が単純に同期しない傾向がみられた。一方、小舞では経験を積んだ演者の呼吸が謡の旋律と対応することが報告されている[102]。

せりふと発声

狂言のせりふは、中世から近世の話しことばを基盤としながら、伝承の過程で舞台語として様式化されてきた[103]。蜂谷清人は、狂言のことばにも一様な性格があるのではなく、対話、名乗り・道行、語り、謡、小歌などで文体や改まり方が異なることを指摘している[50]。発声には、広い能舞台や野外・半野外の空間でも届く、明瞭で力強い声が求められる[104]。

狂言師の稽古では、師の発声を弟子が一句ずつ模倣する口伝が基本となる。単に大声を出すのではなく、姿勢、呼吸、間、リズムを統合してせりふを発する技術を身につける[105]。二世茂山千之丞は、狂言のせりふについて発声法・アクセントだけでなく、リズム、メロディー、役者と観客との間合いを含む音声表現として論じている[106]。

曲中には日常的な会話に近い場面から、語り、囃子詞、僧侶の読経、中国語を模した「唐音」など、さまざまな声の表現が用いられる[7]。

謡・舞・囃子

狂言はせりふ劇である一方、謡・舞・囃子も重要な構成要素である。音楽的には歌謡と囃子があり、能との間に多くの共通点をもつ一方、能の音楽を単純に縮小・転用したものではなく、先行・同時代のさまざまな芸能や歌謡を取り込みながら様式化してきたと論じられている[107][108]。能では節のないコトバを含めて広く「謡」と呼ぶのに対し、狂言では節付けされた部分を謡と呼ぶ。狂言の謡には能の謡を取り入れたものと、狂言独自のものとがある[109]。

室町時代末期の『天正狂言本』には、劇中で歌われた多数の歌謡が詞章として記録されている。『末広がり』の囃し物、『田植』の田植歌、『昆布売』の売り声などには、現行の詞章と共通する部分もある。久野寿彦は、こうした資料から、狂言が固定した古典となる以前からさまざまな歌謡を劇中に取り入れていたことを指摘している[107]。

狂言に用いられる歌謡には、中世から近世にかけての流行歌謡、能の詞章を取り入れたもの、狂言のなかで伝承されてきたものなどがある[6][107]。

小笠原恭子は、狂言小歌と小舞謡を区別し、狂言小歌は必ずしも舞踊を伴うものではないのに対し、小舞謡は舞うことを前提とする歌謡で、曲から独立して演じられることもあるとする。また、小舞謡の一部には女歌舞伎・若衆歌舞伎の踊り歌などと共通する詞章があり、中世末から近世初頭の流行歌謡・踊りとの交流のなかで形成・伝承された可能性を論じている[110]。

小舞謡に合わせて舞う小舞は、狂言役者が担う歌舞一体の芸で、本狂言・間狂言の一部を独立させた曲だけでなく、小舞専用の曲も含む[111]。江戸初期の資料からは、小舞が舞台だけでなく座敷・宴席でも演じられ、上演空間に応じて舞い方を変える意識があったことが知られる[111]。現在では、構エ、運ビ、所作、謡のリズムなどを身につける基礎的な稽古としても重要である[112][105]。

小舞の旋律・節付は同じ流派でも一様ではない。東京文化財研究所と金沢大学による和泉流の比較調査では、金沢と名古屋の伝承について「海道下り」「石河藤五郎」「鐘の音」などの小舞を実演比較し、系統ごとの伝承差を検討している[113]。高桑いづみはこの調査をもとに、和泉流各家の小舞謡のフシを比較する研究を進めている[114]。

囃子を伴う演目には、三段ノ舞、舞働、神楽、カケリ、楽、獅子などがある。このうち能と名称・形式を共有するものもあるが、狂言では曲の性格に応じて用いられる[7]。久野は、狂言の囃子・舞には能との共通性だけでなく、風流や田楽など先行芸能に由来すると考えられる要素も含まれる可能性を指摘している[108]。

また、語りも狂言師の重要な技芸である。合戦などの情景を身振りを交えて表現するものから祝言的な語りまであり、単独の芸として演じられるものもある[6]。

稽古と伝承

狐に扮した人物を描いた狂言『釣狐』の図
河鍋暁斎による『釣狐』の図(1870年)

狂言の技芸は、台本を読んで習得することを基本とせず、師の発声・謡・所作を弟子がまねて覚える口伝を中心として伝承されてきた。現在の稽古でも、小謡・小舞を経て、師と対面して一句ずつ模倣しながら曲を習う方法が行われている[115]。謡・舞・語りを基礎として、構エ・運ビ・呼吸・間などを身体的に習得する[105]。

修業の過程や曲を習う順序は流派・家によって異なる[116]。「猿に始まり狐に終る」という言葉は、おもに和泉流の修業についていわれるもので、「猿」は『靱猿』の猿、「狐」は『釣狐』を指す[117]。一方、大蔵流では幼少期に『以呂波』などから始める例がある[118]。

修業上の重要な節目とされる芸には、能『八島』の間狂言で演じる「奈須与市語」や三番叟などがある[119]。『釣狐』は一人前になるための重要な課題とされ、通常の狂言で身につけた身体技法をあえて抑え、狐独特の姿勢・足運び・身振りを演じる点に特徴がある[120]。

『釣狐』や『花子』など高度な技芸を必要とする曲を初めて正式に演じることを披く(ひらく)という。ただし、各曲の位置づけや披く順序は流派・家によって異なる[121]。

面・装束・道具

複数の異なる表情をもつ狂言面
狂言面
大黒を表す木彫彩色の狂言面
17世紀の大黒型狂言面(東京国立博物館蔵)

狂言では、太郎冠者、大名、主人、聟、僧など人間の日常的な役の多くを直面(ひためん)、すなわち面を着けない素顔で演じる。一方、老人・老婆、神、鬼、動物など、人間の日常的な姿から離れた役では狂言面を用いることがある[122][123]。

代表的な狂言面には、老人を表す祖父、鬼などに用いる武悪、女性・老婆に用いられる乙・尼・ふくれ、動植物などの異類に広く用いられるうそふき・賢徳、そのものの姿を写した猿・狐などがある。うそふき・賢徳のように、一つの面が鳥・魚・昆虫・植物など異なる存在を表すために用いられる例もある[124]。

狂言面は能面と同じように木彫・彩色によって作られるが、能面ほど種類が多くなく、同じ名称でも造形が一様に規格化されていない例がある。また、能では面が主としてシテに用いられるのに対し、狂言では超自然的な役であればアドが面を着ける場合もある[125]。面を役そのものではなく、劇中人物が別のものに扮するための小道具として使う例もあり、『瓜盗人』では案山子、『石神』では石神、『抜殻』では眠った太郎冠者にかぶせる面として用いられる[126]。

袖のない狂言用肩衣
19世紀の狂言用肩衣(ブルックリン美術館蔵)
狂言で用いる素襖の装束
19世紀の狂言用素襖(ジョージ・ワシントン大学テキスタイル博物館蔵)

装束も役柄の身分・職業・年齢・性別などを示す要素である。狂言の装束は能装束に比べて麻などを用いた比較的簡素なものが多く、中世末期から近世初期の衣服の形式を基礎として舞台衣装へ様式化したものがみられる。太郎冠者は肩衣と狂言袴を基本とし、肩衣には動植物や器物などを大きく図案化した文様がみられる[127][128][129]。

女性役も伝統的には男性の狂言師が演じる。通常の女性役では女面を用いず、美男(びなん)と呼ばれる長い白布を頭に巻き、顔の両側から前へ垂らして女性を表す。一方、老婆など役柄によっては面を用いることもあり、性別・年齢・身分は面・装束・所作の組み合わせによって示される[130]。

狂言では大がかりな舞台装置をほとんど用いず、少数の道具をさまざまな物に見立てる。代表的なものが扇と葛桶(かずらおけ/くずおけ)である。扇は通常の扇としてのほか、盃、箸、包丁、筆などに見立てられる[131]。葛桶は腰掛けとして用いるほか、容器や台などに見立て、その蓋を大盃として使う場合もある[95]。

さらに、実物の道具がない場合でも、戸を開閉する、物を切る、水を注ぐといった所作や擬音によって、その物や空間が存在するものとして表現される。こうした見立ては、演者の身体・言葉と観客の想像力を結びつけ、簡素な能舞台上に多様な場所や物を成立させる表現手段となっている[95]。

流派

近世に主要な流儀として成立したのは大蔵流、和泉流、鷺流の三流である。職業的な能楽師の流儀として現在まで継承されているのは大蔵流と和泉流で、鷺流は中央の職業的流儀としては断絶したものの、その芸の一部が地域の伝承として残されている[8]。

各流の成立過程は、後世の家系伝承だけでなく、現存台本・伝書・上演記録を相互に比較して復元されている。橋本朝生は、流派の成立・消長や狂言師の活動を作品史・上演史とあわせて検討する必要を指摘しており、現代においても新出資料によって流派史の再検討が続いている[132]。また、同時期に成立した異流の台本を比較することで、詞章だけでなく会話の組み立てや演出上の方向性にも差異が見いだされている[133]。

大蔵流

大蔵流は、大和猿楽の金春座に属した大蔵家を中心として形成された。宗家の伝承系図は中世以前まで芸系をさかのぼらせるが、その初期部分には史料上確定できない点が多い[134]。小林責は、宇治弥太郎から大蔵弥右衛門、さらに大蔵弥右衛門虎政へ芸系が継承された可能性を論じる一方、その相承の実態は明らかでないと留保している[135]。虎政以後は史料上の事跡が明瞭になり、その後、虎清、虎明の時代に家としての伝承と流儀意識が明確になった[136]。

江戸時代には宗家の弥右衛門家のほか、分家・弟子家が成立し、幕府・諸藩の能楽組織のなかで活動した。京都の茂山家、山本東次郎家なども大蔵流の芸統を伝える家として発展した[137]。

大蔵流の詞章・演出を知る主要台本には、寛永19年(1642年)に大蔵虎明が書写した大蔵虎明本、18世紀末の大蔵虎寛本などがある。虎明本は現存する近世初期の大蔵流狂言を知る主要資料の一つである[44][138]。同じ大蔵流でも宗家・分家・弟子家によって演出に差があり、流派内部が完全に均一であったわけではない[26]。

和泉流

和泉流は、江戸時代初期の京都を中心とする狂言師の系統から形成された。小林責は、山脇家の由緒書と周辺史料を検討し、鳥飼和泉守元光の代に山脇和泉家が狂言の「家」として確立したと推定し、その次代の山脇和泉守元宜の代に「流儀」としての和泉流が成立したと区別している[139]。元宜は京都に居住したまま慶長19年(1614年)に尾張藩に抱えられた[140][141]。小林は、この召抱えと三宅藤九郎家・野村又三郎家の編入を、和泉流が流儀として確立する二つの要件とみている[142]。

小林は、三宅藤九郎家と野村又三郎家を山脇家の一般的な弟子家とは異なる有力な手猿楽系の家と捉え、両家が和泉流成立後も流内で大きな自立性を保ったと論じている[143]。江戸時代には宗家の山脇和泉家のほか、尾張・加賀などに仕えた複数の家が主要な芸系となり、各家はそれぞれ異なる台本・演出を伝えたため、和泉流内部でも詞章や演出の差が生じた[144]。こうした差は現在の伝承にも認められ、東京文化財研究所の調査では、狂言共同社、野村又三郎家、金沢系の野村万蔵・万作家という和泉流の複数系統で、同一曲の謡・演出に違いがあることが記録・比較されている[145][146]。

和泉流の古い台本としては天理本『狂言六義』があり、その後も和泉家古本、波形本、雲形本などが伝わる[147]。虎明本と『狂言六義』を比較した八坂尚美は、依頼場面の会話構成や行為要求表現に相違があることを示し、同時代の大蔵流・和泉流の詞章に異なる演劇的方向性が認められると論じている[133]。また、法政大学能楽研究所所蔵の「和泉流明和中根本」など、近世中後期の台本からは和泉流内部における詞章・演出の変化も追跡できる[148]。

鷺流

鷺流は、16世紀末から17世紀初頭に活動した鷺三之丞や鷺仁右衛門宗玄らの芸系から形成された。後世の宗家系図は室町期まで家系をさかのぼらせるが、小林責はその前半をそのまま史実とはみなさず、三之丞から宗玄へつながる芸系を史料から復元し、宗玄を近世鷺流成立の中心人物と位置づけている[149][150][151]。宗玄は慶長19年(1614年)9月3日に観世座付を命じられたことが同時代記録から確認される[152][151]。江戸時代には宗家仁右衛門家と分家伝右衛門家を中心として勢力をもち、大蔵流・和泉流と並ぶ三流の一つとなった[25]。

鷺流の『延宝忠政本』『享保保教本』などの台本には、大蔵流・和泉流とは異なる詞章・演出が記録されている[153]。なかでも享保年間の保教本は、まとまった分量をもつ鷺流狂言詞章として早い時期の資料であり、鷺伝右衛門派の詞章変遷を検討する基礎資料となっている[154]。鷺流では宗家の仁右衛門派と分家の伝右衛門派との間にも詞章・演出の差があり、同一流派内でも伝承が一様ではなかったことが研究されている[155]。近年は宝暦名女川本などの翻刻も進み、間狂言を含む鷺流の詞章を他流と比較するための資料基盤が拡充している[60]。

明治維新後、鷺流は中央の職業的な流儀として途絶えたが、その芸統は地方にも伝えられた。山口県山口市には鷺流狂言が伝承され、1967年に山口県の無形文化財に指定された[156]。

新潟県佐渡地方では一時伝承が衰えたものの、20世紀後半に伝承者や台本をもとに再興され、1981年に佐渡鷺流狂言研究会が発足、1984年に新潟県の無形文化財に指定された[157]。

佐賀県神埼市千代田町高志地区の高志狂言にも鷺流系の芸が伝承され、1971年に佐賀県重要無形民俗文化財に指定された[158]。

流派間の交流

三流は独立した芸系を形成したが、互いに完全に隔絶していたわけではない。江戸では異なる流儀の狂言師が同じ催しに出演することがあり、共演のために他流の曲・演出を学ぶ場合もあった[25]。

台本にも流派間の交流の痕跡が残り、同じ曲が異なる流派へ取り入れられたり、一方の流派の演出を参考に改作されたりした例がある。1870年の大蔵流のレパートリー改訂でも、和泉流系の曲が取り入れられた[34]。一方、近年の間狂言台本の比較研究では、同じ詞章が流派ごとに異なる形で継承された例や、同一流派の宗家・分家の差も確認されており、流派間の交流と各家固有の伝承の双方を考慮する必要がある[159]。

他の芸能・文学との関係

歌舞伎との関係

狂言と歌舞伎の関係は、完成した狂言から歌舞伎へ一方向に影響が及んだものとして単純に捉えることはできない。室町時代末期から近世初頭には、猿楽の座に属する狂言役者だけでなく、南都禰宜衆や京都などの狂言師も活動していた。この時期は歌舞伎の形成期とも重なり、狂言と初期歌舞伎の間には演者、演目、歌謡・舞踊など複数の面で接触があった[160][161]。

慶長9年(1604年)の『時慶卿記』には、南都の禰宜による狂言と少年によるかぶき踊が同じ場で演じられたことが記録されており、近世初頭には両者が近接した芸能環境に存在していたことがわかる。南都禰宜衆をはじめ、四座に直属しない狂言演者の活動と初期歌舞伎との関係も論じられている[160]。

初期歌舞伎は踊りを中心として出発したが、次第に劇的な内容を発達させた。承応元年(1652年)に若衆歌舞伎が禁止されたのち、前髪を剃った成人男子の役者による「物真似狂言尽」として歌舞伎の再興を願い出て許可されたと伝えられる。ただし、その具体的な事情や時期には江戸と京坂で相違があったと考えられ、正確な経緯には不明な点も残る[162]。野郎歌舞伎期には、能・狂言や浄瑠璃などから筋立てを借りることで、歌舞伎の台本の領域が広げられていったともされる[162]。

17世紀には、本狂言と類似した筋や人物をもつ歌舞伎の演目も確認される。服部幸雄は、初期歌舞伎の茶屋を舞台とする狂言などに先行する狂言の劇構成との関連を指摘している。ただし、これらをすべて現行狂言からの直接的な移植とみなすことはできず、狂言・歌舞伎双方が同時代の歌謡、踊り、風俗、滑稽芸などを共有しながら成立・変化したことを考慮する必要がある[160][161]。

歌謡・舞踊についても両者の交流が指摘されている。小笠原恭子は、狂言の小舞謡と女歌舞伎・若衆歌舞伎の踊り歌との間に共通する詞章があることを示し、狂言側から歌舞伎へ伝わったと考えられる例がある一方、当時流行した歌舞伎の歌謡を狂言側が取り入れた可能性のある例も論じている[110]。

その後、幕藩体制のもとで大蔵・和泉・鷺の各流が形成され、台本・演技の伝承を整えていった狂言は、能楽の一部として古典化していった。一方の歌舞伎は都市の興行演劇として新しい題材・演出・音楽を取り込みながら発展し、近世を通じて両者は異なる芸能としてそれぞれの様式を形成した[161]。

幕末以降には、狂言を題材とし、その演技・せりふ・舞踊の様式を歌舞伎舞踊へ移した狂言舞踊が発達した。幕末には『末広がり』を題材とする作品が現れ、明治時代には『素襖落』『二人袴』、明治末から大正時代にかけては『身替座禅』『棒しばり』『茶壺』『太刀盗人』などが歌舞伎舞踊として作られた。これらの多くは能舞台を模した松羽目を背景とする松羽目物として上演される[163][164]。

文学・口承文芸との関係

説話

説話は狂言の筋立てや趣向を構成する重要な素材の一つである。『附子』には『沙石集』にみえる「児ノ飴クヒタル事」と共通する話型があり、『磁石』『腹不立』などにも説話との関係が指摘されている。ただし、説話の筋をそのまま舞台化するだけではなく、秀句、語り、所作、登場人物の追加など、狂言役者の芸を組み合わせることによって一曲の狂言へ作り替えられている[165]。

同じ話型は説話集、口承の昔話、狂言など複数の媒体に伝承される場合がある。このため、類似する物語が後代の文芸にみられることだけから狂言を直接の典拠とみなすことはできず、個々の作品について伝承経路を検討する必要がある[165]。

連歌・和歌

連歌、とりわけ俳諧連歌も狂言と密接な関係をもつ。『八句連歌』では金銭をめぐって対立する二人が実際に八句の連歌を詠み、『大黒連歌』『連歌毘沙門』などの福神狂言でも連歌が物語の展開に組み込まれる。『富士松』『竹の子』などでは、当時流布した俳諧連歌の句が詞章や趣向の形成に関係した可能性が指摘されている[166]。

狂言と連歌の関係は、単に作品中で和歌や句を引用することにとどまらない。即興性、言葉遊び、その場に応じた機知といった点でも両者は近接しており、大蔵虎明も『わらんべ草』で能と連歌、狂言と俳諧を対比している[166]。

歌謡

狂言には中世・近世のさまざまな歌謡が取り込まれている。『閑吟集』所収歌と共通する小歌も多く、『花子』『枕物狂』『鳴子』『御茶の水』などでは小歌が人物の行動や恋愛場面の展開そのものを担う。流派・台本によって使用する小歌が異なる例もあり、既存の曲へ後世の流行歌謡が追加・差し替えられたこともあった[167]。

また、小舞謡には能の小謡、室町期の小歌、近世初頭の歌舞伎歌謡などと共通する詞章があり、狂言が同時代の歌謡文化と継続的に交渉していたことがうかがえる[167][110]。

能の利用

能と同じ猿楽のなかで発達した狂言は、能の謡・人物・構成を作品形成の素材としても利用した。舞狂言では能一曲の構成や詞章を下敷きとする例が典型的であるほか、一般の狂言でも能の謡を一場面へ取り入れたり、能の有名な場面を日常的な状況へ置き換えたりする例がある[168]。このうち、能を滑稽化する効果については上述の「パロディと能との関係」を参照のこと。

後世文学への影響

狂言の詞章や趣向は、近世の文学にも取り入れられた。井原西鶴や近松門左衛門の作品、川柳、小咄などへの影響が指摘され、とりわけ十返舎一九の『東海道中膝栗毛』および『続膝栗毛』には、『丼礑』『附子』『墨塗』など狂言の趣向が利用されているとされる[169]。『丼礑』の趣向が『東海道中膝栗毛』の塩井川の場に取り入れられたことも指摘されている[170]。

近現代演劇との関係

第二次世界大戦後には、狂言師の発声・身体技法・舞台表現を古典狂言以外の演劇に用いる試みも行われた。

1954年には花友会主催の「能・狂言様式による創作劇の夕べ」が開催され、『夕鶴』『東は東』などが能・狂言の演者を交えて上演された[171]。

1971年には観世寿夫らによる演劇集団「冥の会」の『オイディプース王』に野村万作らが出演するなど、能・狂言の演者と現代演劇との共同も行われた[172]。

海外公演と国外での受容

狂言の本格的な海外公演は第二次世界大戦後に始まった。1957年、パリ国際演劇祭に日本の能楽団が参加し、野村万之丞・野村万作・野村又三郎らによって狂言が上演された。これは狂言にとって最初の本格的な海外公演とされる[173][174]。

それ以前には、日本語のせりふを中心とする狂言は外国語圏では理解されにくいのではないかという見方もあったが、公演を通じて、人物関係、所作、擬音、舞台上の状況など言語以外の要素によって笑いが伝わることも認識されるようになった[175]。

1963年には野村万作がアメリカ合衆国のワシントン大学客員教授として渡米し、実技指導を行った。1965年には野村狂言団がヨーロッパを巡演し、その後も北米、アジア、ヨーロッパなどで公演・指導が続けられた[176][174]。

チェコでは、1947年に『花子』のチェコ語訳が刊行され、その後も翻訳が進められた。1982年にはチェコ語による舞台上演が行われ、2000年には大蔵流狂言師の茂山七五三を招いた実技ワークショップで『柿山伏』がチェコ語で稽古・上演された[177]。こうした活動を背景として現地の演者による狂言劇団が形成され、日本の狂言師による指導を受けながらチェコ語での上演が継続されている[178]。

2024年の能楽学会誌『能と狂言』第22号では、チェコの狂言劇団Divadlo kjógenを事例とする「海外における狂言受容」が特集論文として取り上げられた[179]。

脚注

出典

  1. ↑ 表 & 天野 1987, pp. 237–240.
  2. ↑ 小山, 田口 & 橋本 1987, p. 57.
  3. ↑ 小山, 田口 & 橋本 1987, p. 58.
  4. ↑ 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 67–79.
  5. 1 2 3 4 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 98–114.
  6. 1 2 3 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 54–60.
  7. 1 2 3 小山, 田口 & 橋本 1987, pp. 307–312.
  8. 1 2 表 & 天野 1987, pp. 252–258.
  9. ↑ “能楽”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2026年9月7日閲覧。
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