伝説の起源
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石神井城の跡の三宝寺池のあたりは石神井公園となり、区民の憩いの場となっている。池のそばに照姫の姫塚と豊島泰経を弔ったという殿塚がある。 史実では泰経は石神井城落城の時には死なず、脱出して翌文明10年(1478年)に平塚城で再挙している。道灌が平塚城攻撃に向かうと、泰経は戦わずして逃亡、以後行方不明となった(以前の通説では泰経はその後小机城(神奈川県横浜市)へ逃れた」とされていたが、現在この説はほぼ否定されている[要出典])。 泰経は石神井城落城の時には死んでいないので、その姫が悲嘆にくれて後を追うわけもなく、照姫の哀話は伝説とされている。照姫にあたる女性も豊島氏関連の系図類には存在しない。 姫塚については、石神井にある三宝寺六世住職照日上人の墓という別の伝承もある。 照姫伝説がいつ頃から現地で言い伝えられたのかは判然としない。 石神井にある豊島氏の菩提寺とされる道場寺(南北朝時代の豊島輝時開基と伝わる)には豊島輝時、豊島景村(輝時の養父)、豊島氏落城一族英霊の位牌に並んで、照姫の位牌(「峯雲軒山照妙沢姫儀」)がある。また、寺には三基の石塔があり、泰経夫妻と照姫のものとされている。 豊島氏研究の先駆者平野実の「豊嶋氏の遺跡その他」(「豊嶋氏の研究」収録、昭和32年)によると泰経の墓とされる殿塚と姫塚は、肥後国の菊池氏の家臣内田政治に嫁いだ泰経の二女秋子の子孫という所伝を持つ人が、それに従って(昭和32年時点から)最近、殿塚の場所に墓碑を、姫塚の場所に秋子の姉の長女を弔う小さな社を建てて、由来を記し、竹垣を結い囲んだものである。 この人の家の由来系図については、他の各種豊島氏系図のものとはかなり異なる独自の信仰的なものであると平野実は述べている。 照姫伝説については、意外と新しい近代になってからのものであるという説もある。 平成17年(2005年)に『豊島氏千年の憂鬱』(風早書林)を執筆した難波江進は練馬区郷土資料室の人から明治29年(1896年)に出版された小説『照日の松』(遅塚麗水、春陽堂)を紹介された。難波江進は解説しか読んでいないが、その内容は公卿の娘の照日姫が旅の途中の山吹の里で太田道灌と出会って、有名な七重八重の歌を交わす、照日姫は泰経の弟の泰明の妻となり、その後、道灌との合戦で泰経は敗れ、やがて、照日姫は最期を迎えるという話である。難波江進はこの小説が照姫伝説の基ではないかと感想を述べている。なお、難波江進はこんなことは大した問題ではないとして、照姫まつり実行委員会へ応援のエールを送っている。 『東京公園文庫30 石神井・善福寺公園』(佐藤保雄著、1981年、郷学舎)に照姫伝説についての昭和13年(1938年)に吉田真夫が残した聞き書きが収録されているが、これは難波江進が読んだという『照日の松』の解説とほぼ同じストーリーである。この聞き書きは9ページのちょっとした短編小説じみたもので、山吹の里で出会った太田道灌と照日姫との恋愛話も含まれ、ラストは落城の時に照日姫は三宝寺池に身を投げ、道灌に救い上げられるが、舌を噛み切って自害するというもの。そのストーリー構成は伝説にしては細かく整っており、史実もある程度だが反映されており、伝承伝説というよりも近代の大衆小説に近いものである。 月刊「ムー」2001年7月収録の記事「【怪奇探偵・小池壮彦の恐怖の現場/第7回】照姫怨霊伝説がいまに生きる石神井川界隈」でも照姫伝説が紹介され、伝説は明治の小説がもとになったと述べている。 『照日の松』の作者遅塚麗水(1866年-1942年)は静岡県生まれの作家・ジャーナリストで、明治・大正期の紀行文の大家として知られ、大衆小説には菅原道真を主人公とした『菅丞相』やアイヌに題材をとった『蝦夷大王』などがあり、また大正7年(1918年)には日本の初期の無声映画『乳屋の娘』(日活向島制作)の脚本も務めている。 遅塚麗水は東京の下町の庶民に広く読まれた「都新聞」(昭和17年(1942年)に国民新聞と合併して現在の東京新聞となった)の記者であり、『照日の松』は麗水生名義で都新聞で連載された大衆小説である。 『照日の松』の登場人物照日姫のストーリーが、紀行文作家の遅塚麗水が現地の照姫の言い伝えに着想を得て膨らませたものか、それとも完全なオリジナルかは明らかではない。
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伝説の起源
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この米原からは、硬く割れにくい土団子が見つかった。これは自然現象で生じる火山豆石の一種であり、熊本県北部では広い範囲で見つかるものだが、昔この団子は金持ちが使用人に配した団子の残りが変化したものと考えられ、長者だごと呼ばれた。『鹿本郡誌』や『肥後昔話集』また『管内実態調査書』城北編等では、米や昼食用の団子が後編の物語において焼け固まりできたものとして、米原長者とその没落が語り継がれるようになった。 また、古くから炭化した米も大量に出土した。米原(よなばる)の「はる・ばる」は九州地方の方言で「台地および台地状の平地」を言う。「よな」は、本来は阿蘇山の火山灰を指し、また砂地をも意味する。「よなばる」は火山灰質または砂質の高台であり、水や地味に乏しく痩せ、水田耕作には適さない。米という漢字を当てた背景には願望があったものと考えられる。そのような稲作地ではない所から炭化米が見つかる不可解さが、長者伝説を生む要因となった。 米原には礎石や石畳があったとも伝わる。『肥後国誌』ではこれらを涼の殿・月見櫓・玉屋敷・蔵床など米原長者の屋敷跡と述べており、耕作の邪魔になるため正徳年間に取り除かれたという記述がある。同書では、団粉土と焦米(炭化米)が出土することにも触れている。一方で炭化米について、この場所には不動倉(飢饉対策に米を備蓄する倉)があった名残りという文もあるが、江戸時代には渋江松石が編纂した『菊池風土記』にて、この不動倉が米原長者の屋敷跡と断言された。
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伝説の起源
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2種類のオリフラムの再現。また、これらの他に単に赤の無地の旗も存在していたとされる。 歴史的に王の旗として、初めてオリフラムが言及されたのは11世紀の古フランス語叙事詩(武勲詩)シャンソン・デ・ローラン(Chanson de Roland:仏) (vv. 3093-5)である 最初の呼び名はロメイン(Romaine)で、その後、モンジョワエ(Montjoie)と名を変える。伝記によれば、カール大帝(シャルルマーニュ、Charlemagne:仏)が黄金のランスを持った騎士がサラセンを聖地から焼き尽くし追放するという預言に基づき、聖地に持参したとされる これは当時、騎士や王公貴族が馬に乗って戦うこと、ランスが馬上槍であること、そして騎兵の存在がフランク王国/中世フランス王国にとって、戦場での、ないし、戦場でなくても彼らの存在意義そのもののちからと尊厳の象徴であることから、ランスの存在が重要であったことが伺える また、その旗よりランスの方が重要性が高いことを踏まえると、旗自体は専らランスの飾りであり、「オリフラムの旗そのもの」ではなく、「オリフラムを携えたランス」に特別性があった。故に、「オリフラムの旗そのもの」が重要となるのは、時代と共に騎兵以外に戦場での雌雄を決する戦法が数多く増え、ランスの象徴性が薄まることで、旗そのものの意味合いが強まる後の時代のことと考えられている。
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伝説の起源
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この慈善事業の存在は1656年には有名になっていたにも関わらず、ビデンデンのおとめたちの伝説についての文章は最も古いものでも1770年8月に出版された「ジェントルマンズ・マガジン」の記者が無署名ながら残した文章がある程度である 。この記事によれば双子の身体でつながっているのは腰の所だけで、肩については触れられておらず、伝説よりも幾分長生きをしたことになっている 。そして彼女たちの名前は記録がなく、「ビデンデンのおとめ」とだけ知られているとはっきり述べられていた 。匿名の記者は教区で毎年のように供されたその地のビスケットにまつわる物語を並べたて、この催しが非常に古くからあると書きながら、一方でそれが全く確かなことであることは疑う余地がないものだとしている 。1790年以前の習わしについての文章に共通することだが、記者は近代まで伝えられていた1100年生まれだということやチャルクハーストという姓については語らない。こういった細かな情報がはじめて見られるのは1790年に発行されたブロードサイド(片面刷りの判型の大きな印刷物)である。1775年のアンティーク・レパートリーが姉妹は「言い伝えにあるように250年前に生を営んでいた」と述べている 。この一文に添えられたビデンデンのビスケットに描かれているのは、おそらくは身体のつながった、二人の女性だということがわかる。しかし名前も、生年月日や年齢も不明なままだった。 歴史家のエドワード・ヘイステッドによる1798年に出版された大著「ケント州の歴史と地誌学的調査」はビデンデンの伝説はとるに足りない言い伝えだとしている。パンとチーズのくにはプレストンという名の二人の女性が寄贈したものだと書かれ(しかし別の箇所では地所を「誰が寄贈したのかは定かではない」と述べている) 、またビデンデンのビスケットに2人の女性が象られるようになってまだ50年に過ぎないとヘイステッドはいう(つまり1748年ということだ)。そしてこの絵柄は「慈善事業を行っていた人々の一般的なイメージであるところの2人の貧しい寡婦」を表そうとしたのだと続く。だがそうなると言い伝えにあるパンとチーズのくにを教区へと遺贈した結合双生児が20年代に亡くなったはずだが、ヘイステッドによればそれも「土俗の昔話」ということになる。 ヘイステッドの主張を大筋で認めていたのが影響力の強かった歴史家ロバート・チェンバースであり、やはり彼女たちの物語は概して民俗学的な昔話として扱われている 。1869年発行の「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」に寄稿された文章が指摘するところでは、そのような姓をもつ人間は12世紀のケント州には存在せず、当時の英語は1と5の書法が紛らわしいため、正しい生年は1500年である可能性があることになる 。ある時からビデンデンのおとめは結合双生児であるという考えが徐々に広まりはじめ、とりわけチャンとエンのブンカー兄弟が身体のつながった双子としてある程度の年齢まで生き、わりあい平凡な人生を送ったことが知られるようになってから顕著な傾向がみられた。「ノート・アンド・クワイアリー」誌は1866年にビデンデンに関する資料を綿密に調査し、編集者はヘイステッドの下した結論が「非常にあいまいで不十分」かつ「エリザとメアリ・チャルクハースト」という名前がどうしてペストン家を記念したビスケットのデザインにつけられているのかと疑問を投げかけている。だがさらに踏み込んだ調査は行われなかった。
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伝説の起源
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1122年にインド大司教ヨハネと称する人物がローマを訪れ、教皇カリストゥス2世に対して自分の職権の承認を求めた。ヨハネは教皇に対してピション川の側に立つフルナという大都市のキリスト教徒、郊外の修道院と聖トマスの名前を冠する大教会について語ったことがランス僧院長のオドらによって記録されているが、このインド大司教を称する人物は教皇の権威を利用しようとした詐欺師の類だと考えられている。このインド大司教ヨハネのローマ訪問の記録は、しばしば後世に成立するプレスター・ジョンの伝説と混同して語られる。 12世紀のドイツで記された、フライジングのオットーの年代記内の1145年の条が、プレスター・ジョンに関する最古の記録と考えられている。1145年にシリアのガバラ司教ユーグは教皇エウゲニウス3世に謁見し、中東のキリスト教勢力がイスラーム教勢力との戦闘で苦境に陥っている戦況と共に東方に現れたプレスター・ジョンの情報を伝え、謁見の場に居合わせたオットーはユーグの言葉を書き残した。ペルシア、アルメニアの東方に存在する広大な国の王プレスター・ジョンがメディア、ペルシアを支配するサミアルドスを破り、メディアの首都エクバタナを占領したことが、オットーによって記されている。エルサレムに向かったプレスター・ジョンは道中でチグリス川に行く手を阻まれた。チグリス川の北では水が凍結すると聞いたプレスター・ジョンは北進するが川は凍結せず、やむなく帰国したと伝えられている。オットーは戦況の報告に続けて、プレスター・ジョンが新約聖書に登場する東方三博士の子孫であり、エメラルド製の笏を用いているという伝聞を付記している。 オットーが記録した報告は、東方に伝わっていたネストリウス派がウイグルの一部で信仰されていた点、西遼(カラ・キタイ)の皇帝・耶律大石がイスラム教国に勝利を収めたことなどに起因すると考えられている。オットーの年代記に現れるペルシアの王サミアルドスは、1141年のカトワーンの戦いで耶律大石に敗れたセルジューク朝の王アフマド・サンジャルに比定される。西遼の支配層である契丹人は遼の時代に仏教徒に改宗しており、12世紀初頭に耶律大石に率いられて中央アジアに移住した一団も仏教信仰を保持していたが、ヨーロッパに誤ってキリスト教徒と伝えられたと考えられている。しかし、耶律大石自身は仏教を信仰していたが、彼の軍内にはネストリウス派の信者が含まれていた可能性も指摘されている。 プレスター・ジョンの戦果の報告の後に書かれたオットーの情報には、聖トマスのインドでの布教を述べた『聖トマス行伝』に現れるインド王グンダファル(Gundaphara)からの影響が指摘されている。ほか、当時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がオットーの記述のモデルとなった人物の一人に挙げられている。
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