伝説の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 13:55 UTC 版)
神橋の伝説は、日光の旅行ガイドブックには必ずと言っていいほど掲載されており、知名度の高いものである。この伝説の元になった話は『補陀落山建立修行日記』に記載されており、同書は勝道の弟子4人が勝道没後の弘仁9年(818年)に著したという奥付があるが、実際には平安時代末期から鎌倉時代にかけての間に成立したと見られる。神橋の伝説は「伝説」である以上真実ではないが、何らかの事実を含んでいると見ることができる。伝説の中から何らかの事実を読み解く上で、神橋がなぜ現在位置に架橋されたのか、深沙大王・ヘビ・橋がそれぞれ何を象徴するのかを考える必要がある。 藤井万喜多は、神橋の伝説が仏教徒と日光の先住民(狩猟民・マタギ)が親和的な関係になったことを示す寓意的表現であり、新たな宗教である仏教が持ち込まれたことに対する仏教徒と日光の先住民の動向を反映したものであるとの説を立て、広く支持された。日光東照宮禰宜の高藤晴俊は、藤井説を補強し、勝道の名に仮託された新米の仏教徒らが大谷川の水神を祀る集団から日光への入域を認められたことを象徴する表現であったとの説を提示した。高藤は藤井説で十分に説明できない橋・ヘビの意味、神橋の位置について次のように説明した。橋は聖と俗、神と人の世界を結ぶ境界であり、祭祀の場である。また『古事記』の誉津別命や『太平記』の藤原秀郷の渡河にかかわる物語に水神としてヘビが登場し、橋の上に現れるという共通性から、深沙大王とヘビは大谷川の神であり、神橋は川の神を祀る祭場であったと考えられる。さらに神橋より8 - 9間(15 m前後)上流にさかのぼった場所に高座石があり、この石が川の神の神体であったと見なせば、その祭祀場として神橋を現在地に架けたのは自然なことである。ただし神橋で祭祀が行われていたという文献記録は存在しない。 高藤は山菅の蛇橋の「山菅」について、神事の際に草を敷物として使うことから、草の敷物には特別な意味があり、橋の名にしたという説を提示した。
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