伝説の自販機本『Jam』で再デビュー
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「蛭子能収」の記事における「伝説の自販機本『Jam』で再デビュー」の解説
1979年、高杉弾(メディアマン)と山崎春美の依頼により、伝説的自販機本『Jam』4号(1979年6月号)掲載の『不確実性の家族』にて再デビューを果たす。またこの時に漫画家としての収入を初めて得る。なお同誌では「天才漫画家・蛭子能収 Jamでカムバック!」という異色の触れ込みで紹介され、蛭子を編集長の高杉弾に推薦した山崎春美からは「天才漫画家の呼び声高くガロ以来久々に再登場したダスキンのセールスマン。生活の地獄より抽出されたかと見まごう極致の作品には、世紀末自暴自棄の止揚が見られる。とか何とかなにせ解釈不能」と評された。 それ以降も『ガロ』3代目編集長の渡辺和博との交代を挟みつつ隔月で同誌に作品を発表。後継誌『HEAVEN』(アリス出版/群雄社出版)でも引き続き連載を持つ。また支払われた原稿料も1頁4000円と高額であり、当初は半信半疑だった蛭子も銀行に振り込まれた16頁分の原稿料6万4000円を手にして「プロの漫画家として人生をやり直すことができるかもしれない」と希望を抱き始める。1980年1月には『Jam』終刊号(特別ゲリラ号)に自身の代表作となる『地獄に堕ちた教師ども』を発表する。 なお漫画家人生の転機となった『Jam』という雑誌は、創刊号で当時人気絶頂だった山口百恵のゴミ漁りを決行し、学校の答案用紙(妹28点・百恵67点)から使用済み生理用ナプキンまで「芸能人ゴミあさりシリーズ」と題して大々的に公開した伝説の自販機本として知られ、その他にもパンク・ロックやドラッグ・カルチャーの紹介に加えて皇室、臨済禅、神秘主義、現代美術、カルトムービー、接写ヌード、プロレス、オカルト、ビートニク、スーフィズム、サイケデリック、ニュー・ウェイヴ、フリーミュージック(英語版)までカウンターカルチャーを縦横無尽に取り上げ、それまでの雑誌の常識を蹂躙するパンクな誌面を展開したことから今日に至るまで神話のごとく語り継がれている。しかし当の蛭子本人は雑誌の内容を全く理解できず「自分の漫画が認められたことは大いにうれしかったが、その本は中味も何が何やら、さっぱり訳が分からないので、どうせ自分はこんなところでしか扱われないのさ、という自分に対して嘲笑のうずを巻いた。しかも、その本は自動販売機でしか売られていない、と言った。しかし、だからこそ自由な本造りができるんだ、とも言った。自動販売機の本なんか私は見たこともなかった。あんな自動販売機で本を買っている人の姿なんて見たことがない。しかし『Jam』という本には(当時『ガロ』編集長の)渡辺和博さんの漫画が載っていた。これだけが唯一、私には救いだった」と当時置かれた心境を回想している。 また高杉と山崎の第一印象についても「ヒッピーらしき風貌の人と、目の釣り上がったインテリらしき若い二人連れで、私が今まで付き合っているサラリーマン風な若者とはまるで違っていて、私は何やら胡散臭いなと思った」と回想するなど、決して好印象を与えるものではなかったというが、蛭子はこの二人の編集者に対して「オレの漫画に初めてお金を払ってくれた人生の恩人」「『ガロ』に作品が掲載されたものの、まったくの無名だったオレをプロの漫画家にしてくれた」と感謝しており、のちに蛭子は「そこで初めて原稿料らしい原稿料をもらったんですよ。隔月でキチンと締め切りもあったし。それでこの二人を信用するようになったんです。その二人に『会社を辞める』ということを話したら、『それなら他の編集者も紹介しますよ』と言ってくれて、出会いが広がっていって、定期的に漫画の収入が入るようになったんです。だから『Jam』の編集さんに会っていなかったら、漫画家になってなかったかもしれないんで、すごく感謝しているんです」「私は、この高杉弾と山崎春美という二人のおかげで、ついに夢であった漫画の仕事へ就くことができたのである。そして不当に扱われている自動販売機の本がいとおしくなった」 と述懐している。
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