沿革など
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1980年代初めまでは主に夕方から夜間にかけてしか放送を行わなかったが、1982年4月から早朝の情報ワイド番組『おはようびわこ』の開始を皮切りに7:00 - 8:30(後に9:30前後まで)の朝の部の放送を開始し、中断を挟んで17:00頃から夜の部を再開するという形態で放送していた時期があった。 1990年代までは、小学校3年生を対象とする学校向けの教育番組(『まほうのちず』など)が放送されていた。毎年7月から翌年3月にかけて放送され、何度も再放送が行われていた。また、学校では事前に小学3年生にこの番組についてのテキストが配布されていた。 1980年1月1日の未明(1:00)には、『ゆく年くる年』(東京12チャンネル)に続く新春特番『'80年未来をこの手に!』(東京放送、ライオン油脂とライオン歯磨の合併記念として同社提供)が本局を含む民放テレビ全局で放送される予定であったが、本局のみ放送を中止した。本局では当初、担当の広告代理店である電通からの打診に対し一旦ネットを了承したものの、後になってネット受けを拒否した。これは当時琵琶湖の環境問題でリンを含んだ合成洗剤が問題になっており、「洗剤メーカーがスポンサーの番組を放送すること」に大株主である滋賀県が難色を示したためとされている。当時の民放界では「たった1局の反乱」と呼ばれた。 1971年(昭和46年)5月14日 - テレビ放送予備免許交付。 1971年(昭和46年)5月22日 - 会社設立。 1972年(昭和47年)4月1日 - テレビジョン本放送開始(呼出符号:JOBL-TV)。日本テレビ・フジテレビ・日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の準キー局未ネット分を中心に番組を編成。同日には、同じ独立放送局のテレビ神奈川(tvk)も開局している。 1975年(昭和50年)3月31日 - 1969年(昭和44年)10月1日以来東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の番組をネットしていた毎日放送(MBS)が、ネットチェンジにより番組を打ち切る。以来、現在にいたるまでテレビ東京(TXN)系列の番組を中心に編成しているが3局の番組のネットもわずかながら継続している。 1980年(昭和55年) - 特別番組『よみがえれ琵琶湖』で日本民間放送連盟賞受賞。 1982年(昭和57年) - 朝の情報番組『おはようびわこ』開始で、早朝の放送を開始。 1986年(昭和61年) - 『びわ湖ほのぼの大賞』スタート。 1990年(平成2年)頃 - 音声多重放送を開始(呼出符号:JOBL-TAM)。 2006年(平成18年)8月1日 - アナログ放送・デジタル放送統合マスター(東芝製)に切替。同時に地上デジタル放送の試験放送開始。 2006年(平成18年)10月1日 - 地上デジタル放送開始(呼出符号:JOBL-DTV)。デジタルテレビ放送では珍しい1920×1080のフルハイビジョン放送。 2008年(平成20年)3月11日 - 自社制作番組でのハイビジョン放送を開始。それに伴い、スタジオ設備、副調整室の機材が新調される。 2008年(平成20年)10月1日 - デジタル放送でウォーターマークを表示開始。 2009年(平成21年)1月12日 - アナログ放送で、常時「アナログ」とウォーターマークの表示を開始。フォントは他局とは若干異なる太ラムダ体で、サイズも他局より一回り小さい(NHKよりもさらに小形で、近畿圏では最小である)。 2009年(平成21年)3月下旬 - 天気予報システムを現行のハイビジョン対応のものに更新。 2009年(平成21年)10月1日 - ステーションキャッチコピー「アミンチュてれびBBC」を制定。 2011年(平成23年)7月24日 - 12時(正午)をもってアナログ放送終了。
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1998年(平成10年)3月21日、大塚国際美術館開館。 2007年(平成19年)、館長の大塚明彦がローマ教皇庁より聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章。(日本国内におけるキリスト教の文化・伝統の紹介、その認知度を高めた功績によるもの) 2009年(平成21年)、羽生善治と深浦康市による第58期王将戦第1局がここで行われた(57期の第6局で対局する予定だったが、第5局で決着がつき翌期に持ち越された)。美術館での対局は将棋界初。このとき羽生の提案もあり最後の審判をバックにタイトル戦としては初めて対局開始から終局まで公開対局で行われた。以降も、第59期、第60期王将戦の第1局が行われた。 2009年(平成21年)より毎年、システィーナ・ホールにおいて松竹により歌舞伎の興行(『システィーナ歌舞伎』)が行われている。これまでに片岡愛之助や上村吉弥らが主演をつとめている。 2010年(平成22年)の夏に開催した「FNS27局対抗!三輪車12時間耐久レース O-1グランプリ2010」ではこの大塚国際美術館をも含めた「飛鳥IIで行く2011新春・四国こんぴら初詣クルーズ」が賞品となり、チームヘキサゴン(クリス松村・南明奈・小島よしお・田中卓志・RYOEI)が優勝してこの賞品を獲得した。 2011年(平成23年)10月、1998年の開館当初から、土地や建物の不動産登記が行われていなかったことが、開館から13年後に判明した。同館は「直ちに登記手続を行う」としている。 2011年(平成23年)12月、旅行クチコミサイト「トリップアドバイザー」が発表した「行ってよかった美術館&博物館ランキング2011」で大塚国際美術館が1位に選ばれた。 2012年(平成24年)4月1日より、財団法人大塚美術財団は、一般財団法人大塚美術財団に変更となる。 2012年(平成24年)4月より、大人気コミックの「テルマエ・ロマエ」とタイアップし、週に1回程度ツアーを開催している。古代ローマ時代の絵画を中心に案内。館内のショップでは、原作コミックの販売も行われている。 2013年(平成25年)1月21日より、津波発生時の地域住民・観光客の一時的な避難場所となる。鳴門市と大塚国際美術館が結んだ協定で、津波発生の危険性が高いとき、市から美術館への要請にて開放される(※避難場所として開放されるのは、正面玄関 / 地下3階エントランスホール / 地下4階搬入車両・関係車両専用駐車スペース / 地上1階庭園の4か所で、営業時間内の対応が前提。4か所であわせて5,600人が避難できると試算されている。いずれの避難場所も海抜8〜40mで、県の浸水域想定には入っていない。開放期間は大津波警報や津波警報が解除され、安全が確認されるまでとされている)。 2013年(平成25年)3月21日、開館15周年を迎える。 2013年(平成25年)4月2日、美術館の公式Twitterを開始。 2013年(平成25年)5月17日、美術館の公式Facebookを開始。 2013年(平成25年)8月7日、来館者300万人達成。大阪府から来た夫婦へ、記念品として生涯有効入館券(陶板製)と美術館図録が贈られた。 2014年(平成26年)5月31日より、映画『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-』とタイアップし、館内にあるルーヴルの複製画六点を巡り、観察眼と推理力でキーワードを導き出す鑑賞ラリーを開催。 2014年(平成26年)6月、第二次世界大戦時の大空襲で焼失したゴッホの「ひまわり」を陶板画で再現するプロジェクトを開始。ゴッホが7枚描いたとされているひまわり絵のうち唯一現存しない作品である。展示開始は10月1日から。 2014年(平成26年)9月、旅行クチコミサイト「トリップアドバイザー」が発表した《トラベラーズチョイスアワード》「人気の美術館・博物館トップ10(日本国内)」で大塚国際美術館が8位に選ばれた。 2015年(平成27年)1月、前館長で、大塚ホールディングス初代会長でもあった大塚明彦氏が2014年11月に亡くなったため、美術館でお別れ会が開催された。 2015年(平成27年)5月、世界最大の旅行クチコミサイト「トリップアドバイザー」が、優れたサービスを提供する施設に与える 《2015年エクセレンス認証》 を発表。大塚国際美術館は5年連続で「エクセレンス認証」を獲得したとして、継続的に優れたサービスを提供し続ける「殿堂入り」施設として認定された。。 2016年(平成28年)12月~2017年3月31日限定で、綾部祐二(ピース)が美術館の広報部長に就任。 2017年(平成29年)11月28日、2018年3月21日より開館20周年事業として、ゴッホが描いた全7点のヒマワリを陶板で原寸大に再現し、7点全てを一堂に展示すると発表。 (現在7点のうち2点は既に展示済み)。 2018年(平成30年)3月21日、開館20周年記念事業として、ゴッホが描いた全7点のヒマワリを陶板で原寸大に再現し、7点全てを一堂に展示。式典で大塚一郎館長は「世界でも例がない画期的な試み。色あせない陶板での再現は、文化財の記録保存と活用に寄与する」とあいさつした。 2018年(平成30年)12月31日、第69回NHK紅白歌合戦で米津玄師が歌唱を行った。 2020年(令和2年)3月から6月、新型コロナウイルス対策で休館・閉鎖。この間、市川紗椰が進行役を務める『世界で一番近い名画たち-市川紗椰が会いに行く10人の美女- 』と所蔵絵画を毎週一点ずつ紹介するミニ番組がBSテレ東で放送された。
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大倉孫兵衛と息子の和親によって、東京市蒲田区(現・大田区)で大倉陶園が設立された。なお、創業日は工場の地鎮祭を行なって起工した1919年5月15日である。孫兵衛は万国博覧会で鑑賞した西洋陶磁器に刺激を受けて、日本では当時製造されていなかった硬質な白磁の製造を目指したとされる。 しかし硬質磁器の高級洋食器の製造は困難であり、製品を出荷したのは大倉孫兵衛の死後の1922年であった。1924年に三越と取引を開始して市販を始め、1929年には紋章入りディナーセットを海外へ出荷している。また、1932年に在アメリカ合衆国日本国大使館にディナーセットを納入している。 1943年の東久邇成子(昭和天皇の長女)の成婚では食器調達を受け持ったが、1945年4月15日に空襲で工場が全焼してしまう。 しかし翌年には製品の出荷を再開し、1948年にはディナーセットを作製できるまでになった。税制改革などの影響で1950年5月には法人化し、株式会社大倉陶園となった。1952年に大倉陶園販売株式会社も設立したが、朝鮮戦争による好景気が一段落した1955年にこれを閉鎖して日東陶器商会(現・ノリタケテーブルウェア)に販売を委託した。 1959年の皇太子明仁親王と同妃美智子の成婚時には晩餐会の食器を納め、以後も日本の皇室御用達窯となっている。なお、この年横浜市戸塚区で新工場の建設に着工している。翌年には戸塚に移転し、長野県軽井沢町に夏季直営店を開いた。 1974年の迎賓館(赤坂離宮)改修時に納めたディナーセットは、大倉陶園の代表作の一つである。これは数種類のセットからなり、まず150人揃の正餐用食器がある。これは国賓が主催して天皇などを招くリターンバンケットに用いられるもので、一人当たり十数点の食器があり、金彩などを施した豪華な作風になっている。次に250人揃の歓迎会用食器があり、これはビュッフェスタイルのレセプションで用いられる。レセプションは大広間で行なわれ、正餐を行なう重厚な大食堂と違ってロココ風の雰囲気のため、食器もこれに合わせた軽やかな明るい仕上がりになっている。この他に、国賓や随員の朝食などに使う60人揃の個室用食器があり、藍一色の月桂樹とオリーブが描かれている。 1995年には組織を改変して製造と業務部の2本立てとするとともに工場・画工場を設置し、現在に至る。
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沿革など
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「鳥の巣 (岡山県の食堂)」の記事における「沿革など」の解説
ぬいぐるみの置かれている一般的な椅子の席のほか、座敷も用意されていた。座敷に続く壁や引き戸にはテレビ取材を受けた際の著名人の写真やサインが多く掲載されている。岡山県道703号備前柵原自転車道線(通称片道ロマン街道)が付近を走っているため、サイクリング客が多く見られた。 定休日は火曜日で、土日祝日は営業時間を平日よりも3時間拡大して午前11時から午後6時まで行っていた。2019年8月までは営業が確認されていたが、2020年6月までに閉業していたことが確認された。
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