沿革と研究史
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『甲斐国志』によれば、かつては旧暦7月19日に小瀬村17戸に限って天津司舞は行われており、他の家の者はこれに加わることは出来なかったと言われている。天津司舞の祭事に関するもので、年号が確認できる古いものは貞享元年(1684年)にさかのぼり、神前で垣を1本ずつ結ぶ行為が甲府勤番から不浄という理由で差し止められ、以後70年ほど舞いが絶えたという伝承が残されている。その後復活し、『甲斐名所図絵』などから、江戸後期には上演されていたと考えられているが、度重なる水害等により明治維新の頃を前後して再び途絶えてしまう。ただし1898年(明治31年)頃に1度だけ復活しており、この時の奉納者(供奉員)の1人であったと考えられる小瀬在住の古老、山本権太郎による証言をまとめたものが、前述した「若尾資料」である。山本は幕末から明治維新期にかけ生きた小瀬地区在住の古老であり、証言の信憑性は高いものと考えられている。 明治31年以降、長らく途絶えていた天津司舞が次に行われたのは1937年(昭和12年)4月10日であった。これは1936年(昭和11年)に刊行された『山梨県綜合郷土研究』の発刊事業に携わっていた小田内通敏により、復興の働きかけが行われたことによるものである。小田内は『甲斐国志』、『甲斐名所図絵』、「若尾資料」などの研究により、途絶していた天津司舞を復活させたが、これらの資料の中で芸態の再現の典拠となりえたものは、体験者の証言で作られた「若尾資料」であることは明らかであり、すなわち今日奉納される天津司舞の芸態は、山本権太郎の体験的記憶による近世最末期から明治期の天津司舞をベースにしたものであると考えられている。その後太平洋戦争をはさみ一時中断した時期があったが、1954年(昭和29年)4月10日に再び復活した。2017年現在では毎年4月10日直前の日曜日に、小瀬町住民から構成される天津司の舞保存会によって行われている。 また、2005年(平成17年)に開館した山梨県立博物館では常設展示のうち「水に取り組む」で天津司舞を再現し、紹介を行なっている。
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