沿革と研究史とは? わかりやすく解説

沿革と研究史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 08:30 UTC 版)

天津司舞」の記事における「沿革と研究史」の解説

甲斐国志によればかつては旧暦7月19日小瀬村17戸に限って天津司舞行われており、他の家の者はこれに加わることは出来なかったと言われている。天津司舞祭事に関するもので、年号確認できる古いものは貞享元年1684年)にさかのぼり神前で垣を1本ずつ結ぶ行為甲府勤番から不浄という理由差し止められ以後70年ほど舞い絶えたという伝承残されている。その後復活し、『甲斐名所図絵』などから、江戸後期には上演されていたと考えられているが、度重なる水害等により明治維新の頃を前後して再び途絶えてしまう。ただし1898年明治31年)頃に1度だけ復活しており、この時の奉納者(供奉員)の1人であった考えられる小瀬在住古老山本権太郎による証言をまとめたものが、前述した若尾資料」である。山本幕末から明治維新期にかけ生きた小瀬地区在住古老であり、証言信憑性は高いものと考えられている。 明治31年以降長らく途絶えていた天津司舞次に行われたのは1937年昭和12年4月10日であった。これは1936年昭和11年)に刊行された『山梨県綜合郷土研究』の発刊事業携わっていた小田内通敏により、復興働きかけが行われたことによるのである小田内は『甲斐国志』、『甲斐名所図絵』、「若尾資料」などの研究により、途絶していた天津司舞復活させたが、これらの資料の中で芸態再現典拠となりえたものは、体験者の証言作られた「若尾資料」であることは明らかであり、すなわち今日奉納される天津司舞芸態は、山本権太郎体験的記憶による近世最末期から明治期天津司舞ベースしたものであると考えられている。その後太平洋戦争をはさみ一時中断した時期があったが、1954年昭和29年4月10日に再び復活した2017年現在では毎年4月10日直前日曜日に、小瀬町住民から構成される天津司の舞保存会によって行われている。 また、2005年平成17年)に開館した山梨県立博物館では常設展示のうち「取り組む」で天津司舞再現し紹介行なっている。

※この「沿革と研究史」の解説は、「天津司舞」の解説の一部です。
「沿革と研究史」を含む「天津司舞」の記事については、「天津司舞」の概要を参照ください。

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