高一涵とは? わかりやすく解説

高一涵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/29 21:24 UTC 版)

高一涵
『最新支那要人伝』1941年
プロフィール
出生: 1884年光緒10年)[1]
死去: 1968年
中国北京市
出身地: 安徽省六安州
職業: 政治家・政治学者・ジャーナリスト
各種表記
繁体字 高一涵
簡体字 高一涵
拼音 Gāo Yīhán
和名表記: こう きりく
発音転記: フアン ジールー
ラテン字 Kao I-han
テンプレートを表示

高 一涵(こう いちかん)は中華民国中華人民共和国の政治家・政治学者・ジャーナリスト。

事跡

日本に留学し、明治大学政治科で学ぶ。1916年民国5年)に帰国し、『晨鐘報』の編輯(編集員)となる。翌1917年(民国6年)、章士釗に招聘され、『甲寅日報』で論説委員となった。1918年(民国7年)からは『毎周評論』の編集を担当し、あわせて国立北京大学教授となる。1919年(民国8年)、雑誌『新青年』において、陳独秀らと共に輪番制編集者の1人となった。

1925年(民国14年)、教育界公理維持会に参加し、『現代評論』の論説委員となった。同年、中国国民党に加入したが、翌年には中国共産党に転じている。1927年(民国16年)、武漢に赴き、国立武昌中山大学政治学教授となる。同年に上海クーデター(四・一二政変)が起きると、共産党を離党し、その後、私立北平中国大学政治系主任、私立上海中国公学社会科学院院長を歴任した。

1931年(民国20年)2月、国民政府において監察院監察委員に任ぜられた。1935年(民国24年)4月から監察院湘鄂区監察使、1940年(民国29年)8月から監察院甘寧青区監察使と歴任している。1946年(民国35年)11月、制憲国民大会代表に当選し、翌年4月、糧食部湘鄂区徴糧督導団主任委員に任ぜられた。

中華人民共和国建国後は大陸に留まり、中国民主同盟中央委員に選出され、また南京大学法学院院長兼政治系主任も務めた。1959年、中国人民政治協商会議第3期全国委員会委員に選出され、続く第4期も連続選出された。

1968年、死去。享年85。著書に『欧州政治思想史』、『政法学綱要』、『中国内閣制度の沿革』、『中国御史制度の沿革』などがある。

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1286頁、劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』1811頁による。「高一涵生平」鳳凰網は、1885年生まれとする。

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高一涵」の関連用語

高一涵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高一涵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高一涵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS