ヒッピーの歴史・1965年-1974年
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「ヒッピー」の記事における「ヒッピーの歴史・1965年-1974年」の解説
それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。 —ボブ・スタッブス、『Unicorn Philosophy』 1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家ケン・キージーとそのサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ(陽気ないたずらっ子たち)」がカリフォルニアで共同生活をはじめた。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、ニール・キャサディ、スチュワート・ブランド、ケン・バッブス(英語版)らがふくまれていた。その生活は作家トム・ウルフの『The Electric Kool-Aid Acid Test(英語版)』という書籍にまとめられた。 1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちにグレイトフル・デッドはメリー・プランクスターズのバス旅行について、『That's It for the Other One(英語版)』という曲をかいている。 この間、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは「フォークソング」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜行われる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端のサイケデリック体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、ネバダ州バージニアシティの孤立した旧鉱山街のレッド・ドッグ・サルーン(英語版)でのパフォーマンスも後援した。 1965年夏、伝統的なフォークとサイケデリック・ミュージックを融合したそれまで聞いたことのなかったグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレイン、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、ザ・シャーラタンズなど実験精神に満ちたバンド群が現れた。彼らの個性的なスタイルと、ビル・ハム(英語版)による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆の間での明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(またはアメリカ先住民族)の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初のサイケデリック・ロック・バンドとなった。 1966年、カリフォルニア州はLSDの拡大を見て、この薬物を非合法化した。「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる「サイケ・ロック」コスチュームダンス、および「ライトショー」が組みあわされたライブを行った。ジェファーソン・エアプレインをはじめ、グレート・ソサエティ(英語版)、マーブルズ(英語版)が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日-23日、サンフランシスコの「ロングショアマンズ・ホール」で「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。ケン・キージーやスチュアート・ブランドらが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。 1966年2月までにファミリードッグは主催者チェット・ヘルムスのもとでファミリードッグ・プロダクションとなり、のちに有名なプロモーターとなるビル・グレアム(英語版)との共同作業をはじめ「アバロン・ボールルーム(英語版)」「フィルモア・ウエスト(英語版)」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、ラルフ・J・グリーソン(英語版)は「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。 最初期のサンフランシスコのヒッピーは州立大学の元学生であり、発展するサイケデリック音楽シーンに興味をそそられていた。これらの元学生は、ヘイト・アシュバリー地区の大規模で安価なビクトリア朝アパートで共同生活しながら、彼らが愛するバンドにくわわった。全米の若いアメリカ人がサンフランシスコにうつりはじめ、1966年6月までに約15,000人のヒッピーがヘイトに移住した。グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレーン、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、クイックシルバー・メッセンジャー・サービス、ザ・シャーラタンズらはこの時期にヘイトに拠点を移した。活動は、自発的なストリートシアター、アナーキズムアクション、アートイベントをアジェンダの中で組み合わせて「自由都市」を創造するゲリラのストリートシアターグループ「ディガーズ(英語版)」を中心にされた。1966年後半まで彼らは無料の食料を提供し、無料のドラッグを配布し、金をあたえ、無料の音楽コンサートを組織し、政治的なアート作品を披露する店舗をひらいた。 サンフランシスコ・オラクル(英語版)の共同設立者であるアレン・コーエン(英語版)によれば、集会の目的は、LSDが違法にされたという事実に注意をはらい、LSDを使用した人々が犯罪者でも異常でもないことを証明することだった。彼は「わたしたちは違法薬物を使用しているのではなかった。宇宙の美しさ、存在の美しさを祝っていたのだ」と主張した。 1966年から1970年代初頭にかけて、カリフォルニア州ハリウッド(LA)のサンセット・ストリップでおきた若者と警察との衝突は「ヒッピー暴動(英語版)」とも呼ばれた。1966年、地区内の住民や事業主は「厳しい門限」(午後10時)と若いクラブ客の混雑に起因する交通渋滞を緩和する法律を推進した。これにたいして、11月12日、ヒッピーたちはその日のデモ招集のフライヤーをくばった。 ロサンゼルス・タイムズ紙によると、ジャック・ニコルソンやピーター・フォンダなどの有名人を含む約1000人ものデモ隊が門限の抑圧的行使にたいして抗議し、逮捕された。この事件は、1967年の低予算の十代向け映画「サンセット通りの暴動(英語版)」のモチーフとなり、バッファロー・スプリングフィールドの名曲「フォー・ホワット・イッツ・ワース」などの複数の曲にインスピレーションをあたえることになった。 1967年1月14日、アーチストのマイケル・ボーエン(英語版)が企画したゴールデン・ゲート・パークでの野外フェス『ヒューマン・ビーイン』は、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークに3万人のヒッピーをあつめ、米国内のヒッピー文化の急速な普及をうながした。 ニューヨークでは、3月26日のイースターにあわせた『セントラル・パーク・ビーイン(英語版)』が催され、ルー・リード、イーディ・セジウィックらのロックミュージシャン、モデルとともに10,000人ものヒッピーたちがセントラルパークにつどった。 6月16日から6月18日まで開かれたモントレー・ポップ・フェスティバルでは、ロック・ミュージックが幅広い聴衆に紹介され、いわゆる「サマー・オブ・ラブ」のはじまりとなった。スコット・マッケンジーが歌うジョン・フィリップスの曲「花のサンフランシスコ」はアメリカとヨーロッパでヒットした。彼は「サンフランシスコに行くなら、かならずあなたの髪に花を飾ってください」と歌い、世界中の何千人もの若者たちがサンフランシスコを訪れ、時には髪に花を飾り、通行人たちに花をくばって歩いたりした。やがて彼らは 「フラワー・チルドレン(花の子供たち)」とよばれるようになる。 1967年6月、前述のジャーナリストのハーブ・カーン(英語版)は、なぜヒッピーがサンフランシスコに引きよせられてゆくのかを「Distinguished Magazine」に寄稿した。 彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の紙面にヘイト・アシュベリー地区のヒッピーのインタビュー記事を掲載した。カーンは、彼らはその音楽以外ではストレートな世界を承認することに対して、あまり関心がないと判断した。いっぽうで、カーン自身は、サンフランシスコの街がヒッピーの文化とコントラストをえがくほどストレートだと感じていた。 7月7日、タイム紙は「ヒッピーたち、サブカルチャーの哲学」の特集記事を組んだ。記事は、以下のようなヒッピー独自の倫理規定にまつわるガイドラインを提供している。 「あなたがそれをしなければならないとき、あなたがそれを望むとき、いつでもあなた自身のことをしましょう。 すでに、あなたが知っているように、ドロップアウトし、 社会を離れてみる。完全に身をまかせてみる。 あなたのまわりにいるまっすぐな人の心を吹き飛ばしちゃいましょう。 それはドラッグによってではなく、美しさ、愛、正直、楽しさによって―」 1967年の夏に約10万人の若者がサンフランシスコを訪れたと推定される。さまざまなメディアが背景にあり、ヘイト・アシュベリー地区にスポットライトを当て、 ふくらむ関心とともに「ヒッピー」の呼び名を普及させた。 ヒッピーの「愛」と「平和」の理想は支持されたが、一方で「ドラッグとの結びつき」「寛大すぎる性格」については批判された。6月、ビートルズの画期的なアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』がリリースされた。アルバムは色とりどりのサイケデリックな音色のイメージでヒッピーたちにすぐに受け入れられた。 夏の終りまでに、ヘイト・アシュベリー地区の状態は悪化した。絶え間ないメディアの取材と報道に「ザ・ディガーズ」はパレードでヒッピーの「死」を宣言した。詩人スーザン・チャンブレスによると、ヒッピーたちは彼ら自身の人形や肖像を埋葬し、彼らの時代の終焉をマスメディア上で証明した。 同地区は、かぎられた居住スペースから、膨大な若者たちの流入に対応できなかった。多くのヒッピーがストリートに住み、ホームレスやドラッグディーラーをはじめた。栄養失調、病気、薬物中毒の問題が浮上し、犯罪と暴力が急増した。これらの問題のどれも、初期のヒッピーたちが構想したことではなかった。1967年末までに「サマー・オブ・ラブ」をはじめた多くのヒッピーとミュージシャンがうごきだす。ビートルズのジョージ・ハリソンはヘイト・アシュベリーを訪れ、そこがドロップアウトの避難場所にすぎないことを知り、若いヒッピーたちにLSDを諦めるように促した。 結果、ヒッピーの文化、特に薬物乱用や寛大すぎる道徳に対する嫌悪感は、1960年代後半アメリカで道徳的パニックを助長することとなった。1968年にはヒッピーの影響を受けたファッションが流行した。特に人口の多い「ベビー・ブーマー」世代の若者の一部は、コミューンや実験農場(共同体生活)に住んでいるヒッピーの動きを模倣しようとした。だが当時、ヒッピーファッションとそれらコミューンのヒッピーの間に深い繋がりはみられなかった。これは音楽、映画、芸術、文学などの方面でも同じであり、そして米国だけでなく世界各地でもその傾向があった。 新しいサブカルチャーとしてのヒッピーは様々なメインストリームとアンダーグラウンドのメディアを獲得した。ある意味でヒッピー映画は、1960年代のヒッピーのカウンターカルチャーを搾取するものであり、大麻やLSDの使用、セックス、ワイルドなサイケデリックパーティーなど、ムーブメントと関連した「状況のステレオタイプ」を描いている。例えば『ラブイン』『ジャック・ニコルソンの嵐の青春』『白昼の幻想』などの映画、それ以外のより誠実で評判の高い『イージー・ライダー』や『アリスのレストラン』もそうである。一方でまた、ドキュメンタリーやテレビ番組も、フィクションやノンフィクションの書籍同様今日にいたるまで制作されつづけてきた。 人気のあるブロードウェイ・ミュージカル『ヘアー』は1967年に発表された。 一般に人々は60年代後半におきた文化的な動きを総じて「ヒッピーの運動」と称するが、そうではないこともある。 実際、ヒッピーは「イッピーズ」こと青年国際党とは対照的に、政治に直接関与していないことが多い。 イッピーズはより政治的な運動に身を投じ、1968年の復活祭に国民の注目をあつめた。そのうちの約3,000人がニューヨークのグランド・セントラル駅を占拠し、結局、61人の逮捕者がでた。 指導者アビー・ホフマンとジェリー・ルービンは、1967年10月のベトナム戦争抗議デモで「立ち上がり、ミートボールをやめよう(戦争虐殺の暗喩)」というスローガンを掲げ、花を配り儀式によって「ペンタゴンを空中浮遊」させようとするなど風刺的(satirical)な劇場型のパフォーマンスで有名になった。また、1968年の民主党全国大会に抗議しようとして 大統領候補選に彼ら自身の候補者としてブタの「ピガスス」を指名し、広くメディアにとりあげられた。しかしながら、彼らは反戦を謳ってはいたものの、実際には米軍と戦う北ベトナムを支持していた。 英国では、毎週日曜日、ヒッピーたちがケンブリッジ公園でパーカッショニストの人々と女性運動をはじめたばかりの女性たちとつどった。米国の一部では、ヒッピー運動は、キャンパスでの反戦抗議運動に関連して「新左翼(ニューレフト)」の一部と見做されはじめた。「新左翼」は、同性愛者、中絶、ジェンダーの役割などの問題に関する幅広い改革を実施しようとした1960年代と1970年代の活動家、教育者、扇動者などを参考に、英国と米国で主に使用された用語だった。 1969年4月、カリフォルニア州バークレーにある「ピープルズ・パーク(英語版)」が国際的な注目をあつめた。カリフォルニア大学バークレー校は競技場と駐車場を建設するため、キャンパスそばの2.8エーカー(11,000m2)にわたる建物を解体した。ながい遅れののち、数千人のバークレー市民、自営業者、学生、ヒッピーたちが自分たちの手で問題をとりあげ、木々、潅木、花や芝生を植えて、土地を公園にかえた。 1969年5月15日、ロナルド・レーガン知事がその公園を撤去するよう命令をくだし、カリフォルニア州警備隊によって2週間の占拠が行われ、大きな対立がおこった。ヒッピーたちは「1000の公園に花を」というスローガンのもと、非服従する市民の運動に参加し、バークレーの至る所に花を植えた。 1969年8月、ニューヨーク州のベテルでロックの大祭典『ウッドストック・フェスティバル』が開催され、同時代の多くの人たちにとって、ヒッピー文化のベストを証明した。 50万人以上の人たちが、リッチー・ヘヴンズ、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、グレイトフル・デッド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、カルロス・サンタナ、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジミ・ヘンドリックスなど当時のもっとも有名なミュージシャンの演奏をきくためにあつまった。ヒッピーが唱えた「愛(love)」と「みんな仲良くしよう(human fellowship)」の理想は当時の世界の表情をとらえているようだった。 同様のロックフェスティバルは、アメリカ全域でなされ、広大なアメリカ大陸にヒッピーの理想を広める上で重要な役割を果たした。 1969年12月、サンフランシスコの東約45kmにあるカリフォルニア州オルタモントで、無料のロックフェスティバルが開催された。最初は『ウッドストック・ウェスト』と名づけられ、正式名称は『オルタモント・フリーコンサート』とよばれた。ローリング・ストーンズやクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、ジェファーソン・エアプレインらをきくために約30万人もの人びとがあつまった。 そこで警備をまかされていた暴走族のヘルス・エンジェルスは、ウッドストックの警備よりもずっと暴力的な警備をした結果、18歳の黒人メレディス・ハンター(英語版)は、ストーンズのパフォーマンス中に、酔ったヘルス・エンジェルスのメンバーによって殴打された後、刺殺された。ヒッピーの文化を生んだ1960年代の中心的な人物たちは、1970年代には活動が停滞したように見えた。 オルタモント・フリーコンサートの殺人事件はヒッピーや多くのアメリカ人を戸惑わせ、1969年8月にはチャールズ・マンソンと彼のファミリーによってシャロン・テート殺人事件がおき、さらなる衝撃を米国社会にあたえた。にもかかわらず、カンボジアの爆撃やジャクソン州立大学とケント州立大学の国家警備員による銃撃など騒然とした政治的な空気はなお人々を結びあわせていた。この銃撃は、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの曲『What About Me?(英語版)』にインスピレーションを与えた。彼は「あんたが人を撃ったとき、オレはオレの数字に追加しつづける」と歌い、同じようにニール・ヤングは「オハイオ」でオハイオ州立大学での州兵の発砲による大学生虐殺と、ニクソンのベトナム戦争に抗議した。 チェンバース・ブラザーズ(英語版)や特にスライ&ザ・ファミリー・ストーンのようなサイケデリック・スピリットのグループは、ジョージ・クリントンとPファンクに影響を与えた。ヒッピーの多くは、1970年代を通じてアメリカ主流社会に組みこまれていった。大規模ロックコンサートは1967年、KFRCファンタジーフェアとマジックマウンテンミュージックフェスティバル(英語版)、モントレー・ポップ・フェスティバルを経て、1968年の英国ワイト島フェスティバルで基準となり、その過程でスタジアムロックに発展した。ロックがその規模を大きくする歩みはちょうどヒッピーや反戦デモの盛りあがりと重なっている。ロックにある種の時代の刻印を見るのは、あながち間違ってはいない。反戦運動は、1971年、ワシントンDCでのメーデー抗議集会において、12,000人以上の逮捕者をだし、ピークに達した。ベトナムで空爆を実施していたニクソンは後に失脚する。
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