ヒッピー・コミューンからカルト指導者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 02:57 UTC 版)
「チャールズ・マンソン」の記事における「ヒッピー・コミューンからカルト指導者へ」の解説
1960年代後半のサンフランシスコは、ヒッピー文化に浮かれていた。町には長髪の若い男女があふれていた。若者たちはベトナム戦争への徴兵を忌避することに熱をあげ、ハイト・アシュベリー地区では、LSDとコカインを楽しむヒッピー文化が盛んだった。マンソンは街角で歌いながら、図書館司書のメアリー・ブルンナーと知り合い彼女のアパートで同居するようになる。言葉巧みに若い女たちに同情して、ドラッグも与えて心を掴みアパートへ連れていき同居した。1968年にロサンゼルスのハリウッドに数十人のメンバーと移り、ドラック売買、物乞い、クレジットカード泥棒で生計を立てながら言いなりになった女を使って男もメンバーに加えた。 ロック・バンド、ザ・ビーチ・ボーイズのメンバーデニス・ウィルソンは、ヒッチハイク中のファミリーの少女を乗せた縁でマンソンを紹介された。親しくなったファミリーは彼の屋敷に居候することとなる。紹介されたミュージシャンでプロデューサーのテリー・メルチャーのプロデュースによってマンソンはシンガー・ソングライターとしてデビューする予定だったが、結局テリーが約束を守らずにマンソンのデビューの夢は流れた。 1968年5月、ウィルソンが転居したため彼の屋敷から出たマンソン一行はカリフォルニア州チャッツワースにある西部映画撮影用のスパーン牧場を知り、この地のオーナーである盲目の老人、ジョージ・スパーンから馬の世話と日々の雑用をするかわりにファミリーが移り住むことを認めさせた。ここでは量販店から廃棄食料を調達し、たいていの時間はドラッグで陶酔するかセックスをして過ごしていた。
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