概説・歴史
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1962年9月、地元の地方紙である岐阜新聞社(当時は岐阜日日新聞社)により完全子会社ラジオ岐阜として設立。同年12月24日に全国45番目にラジオ放送を開始した。 きっかけとなったのは、1959年に発生した伊勢湾台風以降に、当時存在した県域ラジオ局の「ラジオ東海」 が、三重県域のラジオ局「近畿東海放送」(旧・ラジオ三重)と合併し、中京圏広域ラジオ局である東海ラジオ放送(1960年4月開局)となったことや、NHK岐阜がNHK名古屋から配信されている番組をそのまま放送していたため、大規模な自然災害などが起きた時に岐阜県を主体とした報道機関がないことへの不安からと言われている。その後、1968年8月にテレビ放送事業を開始するにあたり、現在の岐阜放送に改称した。 1992年4月より、岐阜テレビ・岐阜ラジオというテレビ・ラジオごとの新たな呼称が採用された。後にラジオは、系列の岐阜新聞社も出資するエフエム岐阜(FM GIFU)を意識してか、「AM岐阜ラジオ」に呼称を変更している。 2005年には、開局以来初のマスコットキャラクター・はちゃ丸が登場。 2007年には、開局45周年を機に、岐阜市今小町(市役所などが立ち並ぶ岐阜市中心街。岐阜新聞社の隣)からJR東海岐阜駅前に建設された再開発ビル「岐阜シティ・タワー43」(2007年10月13日オープン)の4階フロアへ本社を移転。同年11月11日の11時11分11秒より放送を開始した。これに先だち、同年10月1日より同局の通称をぎふチャンとし(社名は変更なし)、テレビ・ラジオの番組表での表記も変更された。ただし、現時点では正式名称の「岐阜放送」が放送局名として番組で使用される例もみられる。また公式サイトも一新され、トップページのミニ画面で「ぎふ100%」などのCMが視聴出来る他、一部アナウンサーの日記を掲載し始めるなど、以前よりも内容が充実した。 2011年7月24日の地上デジタル放送完全移行を機に、新キャラクターの「UPるんチャン」が登場した。 2013年4月1日、テレビ・ラジオ兼営民放局だった中部日本放送が、ラジオ放送事業をCBCラジオに分社したため、中京広域圏における唯一のテレビ・ラジオ兼営民放局となった。 2013年12月9日には堀江博海が代表取締役社長に就任したものの、同じく就任した岐阜新聞社での騒動により4日後に辞任に追い込まれ、約1年間社長職は空席になっていた。しかし、2014年12月8日に常務だった森田順子が社長職に昇格させる人事を発表したことで終息した。なお就任当初、森田は全国の民放連加盟テレビ局の中で唯一の女性社長だった。 以上の経営上の混乱を収束させる過程で、長らく競合関係にあった中日新聞社が資本参加している。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}テレビとAMラジオの事業者としては珍しく、報道局を持っていないため、岐阜新聞社に報道取材の委託をしている。そのため、ニュース番組とニュース速報は、必ず岐阜新聞の製作協力であることの旨が添えられている[要出典]。 GBSラジオの業務のほとんどが関連企業の岐阜新聞岐阜放送クリエイトに業務委託されていて、GBS社員がラジオの業務に関わるのはアナウンサーと管理責任者のみである。 放送エリアの岐阜県は南北に広いため、本社以外に高山市にもラジオ・テレビ兼用のスタジオを置いている。前者では独自に番組も制作されており、以前は専属のアナウンサーを配置していたが、後にひだ高山総局長が務めることになった。
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概説・歴史
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「野球朝鮮民主主義人民共和国代表」の記事における「概説・歴史」の解説
1974年7月に、キューバ代表を招いて7試合(平壌市、沙里院市、新義州市の各都市で2試合、南浦市で1試合)を戦った。この時点では、全国に15チームが存在し、その中からナショナルチームが組織されていた。南浦には、北朝鮮初の野球場が建設されていた。このキューバ代表との対戦で、北朝鮮代表はホームラン2本(二塁手のキム・ウォンシク、投手のユン・チャラン)を含む37本のヒットを放った。また、キューバ代表を1安打に抑えた試合が2試合あったものの、どちらの試合も1安打がホームランであり、北朝鮮代表は7戦全敗であった。 初めて国際大会に参加したのは、1991年新潟で開催された第1回5カ国野球大会で、1勝3敗の成績を残した。漢陽大学校に1-16の7回コールド負けなどを喫したが、当時の北朝鮮チームは「適応力が良くて、力が強い」という評価を受けた。 1993年にはオーストラリアで開かれたアジア野球選手権大会に出場。韓国代表と対戦したが、0-11の7回コールドで敗退している。 それ以降は、現在まで主要な国際大会への参加が見られていない。
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概説・歴史
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「Jリーグアフターゲームショー」の記事における「概説・歴史」の解説
2007年シーズンよりスカチャン(放送開始当初はスカパー!はパーフェクト・チョイス、e2 by スカパー!(現スカパー!e2)はスカチャン!)で放送。 当日開催された全試合のハイライトのほかに試合直後の監督や選手の声を伝えたほか、試合終了直後の会場と中継をつなぎ、当日出演した解説者や選手が出演したりする場合があった。 番組は2007年8月11日放送分をもってリニューアル。放送開始時間が35分早くなり(19時開始のゲームがあるときは従来21時50分開始だったのが21時15分開始に変更)、番組放送時間も60分から75分に拡大された。 オフシーズン中には、「週刊JリーグアフターゲームショーPLUS」を毎週日曜日 21:00 - 22:00に生放送していた。 2012年2月に放送された開幕直前スペシャル番組において番組終了と、新たに『マッチデーJリーグ』が編成されることが発表された。
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概説・歴史
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「SONY MUSIC TV」の記事における「概説・歴史」の解説
洋楽のプロモーションビデオを中心に紹介していた番組である。当時プロモーションビデオは無償で入手することができ、日本各地で各局がプロモーションビデオ紹介番組を制作していた。 タイトルよりソニーの一社提供で、開始当初の放送時間は200分(3時間20分)だった。この放送時間は、自社製品のVTR、ベータマックスのプロモーションを兼ねており、放送と連動して200分テープ・L-830が発売された。当時のVHS標準モードは最長120分(2時間) - 160分(2時間40分)で1本のテープに録画できないことから、ベータ方式の優位性をアピールすることができた。しかし、ソニーがVHS方式のVTRを発売開始した1989年春の改編で放送時間が2時間に短縮。1993年頃にはさらに短縮され、90分枠での放送となった。 番組スタート時にはTVKとKBS京都の共同制作であったが、1984年頃にTVKで音声多重放送(この場合はステレオ放送)が開始され、それを受けてTVKの単独制作へと切り替わった(実際の番組制作を担当したのは、番組制作会社のインプットビジョン)。ネット局はTVK・KBS京都・サンテレビの3局。後に千葉テレビ、テレビ埼玉、テレビ愛知へとネットが拡大した。基本的には同時ネット番組であったものの、テレビ東京系列であるテレビ愛知は、編成上の都合から60分遅れネットとなり、サンテレビでは阪神戦中継が延長の場合に限り、放送時間を繰り下げて対応していた。 一度、放送日が大晦日になった1993年12月31日放送分のみ、横浜市内の海の見えるカフェバーから生放送の独立UHF放送局年末特番として独立UHF放送局にフルネットされた。これは『民放テレビ版のゆく年くる年』終了後、独立UHF放送局ではTVK制作で毎年フルネットの年越し特番を放送していた(1989/1990年から1998/1999年まで)ことから、この年の大晦日がちょうど金曜日だったための措置である。なお、この回は独立UHF局11局(当時)同時ネット(スポンサーもネット全局がソニーの1社提供)となった一方で、通常時のネット局であったテレビ愛知では、テレビ東京系列の特別番組及び編成が優先されたため放送されなかった。 当時、パーソナリティを置く洋楽ビデオ番組は他にも存在したが、期首期末など特別企画時を除き、司会者やゲストなどは一切なく(それ以前に収録のためのスタジオも使用せず)、オープニングに続いて1本目のビデオ・クリップが流れ、時の新作、ヒット曲を中心としたビデオが、時折ロゴのアニメーションやソニー製品のCMを挟みつつ、終了時刻まで淡々とオンエアされるという、番組であった。当日のオンエア曲目は、電話での自動音声による案内と、ネット局本社・支社などの受付での無料配布、TVK・FAXサービスでのコピー紙の無料配布によって、分刻みのかなり詳細なオンエア時刻まで照会することができた。番組詳細は小学館が当時発売していた隔週刊テレビ情報誌『テレパル』でも毎号掲載された。なお、この掲載欄の放映局紹介スペースでは、当初は併せてステレオ放送実施局の案内も毎号載っていたが、音声多重放送実施局が増えるとモノラル局の案内に変わっていた。 また、他の同種番組でよく見受けられたクリップの最後がフェイド・アウトされたり、冒頭部分がカットされるようなこともなく、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のような長いクリップなども全編ノーカットでオンエアされた。 放送100回目を迎えた週は、冒頭に「Fright Night」が流れたほかは、それまでの回で1曲目に紹介したクリップ(つまりツカミ)が放送されるという、ある種の「総集編」「回顧企画」的な構成であった。 プロモーションビデオごとに「SONY MTV」という番組の略称ロゴがテロップ(ストリーミングジングルズ)で出た。クリップの間にはアニメーションのロゴも存在した。末期には番組に八分音符の形をかたどったキャラクターも出現し、欧米風女性につかまえられるCGアニメにも登場していた。 オープニングは当初はPINKの「ZEAN ZEAN #0」、後にPINKの福岡ユタカが在籍したユニットHALOの「AMANA」原型、エンディングは当初はPINK「水の都」、後に同じくPINKの「SOUL FLIGHT」。エンディングでは独自のCGアニメが存在した。なおオープニングでは、放送期間中TVK制作の音楽番組の冒頭で共通に流れていたその時々のビジュアルロゴ(例えば「Let's feel the MUSIC TELEPATHY」「YOLIMASHI」等)も流れ、ネット局でも見ることができた(「ミュージックトマト」「ミュージックトマトJAPAN」等でも同様)。なお、「Let's feel the MUSIC TELEPATHY」のナレーション(読み)は中村真理が担当した。
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概説・歴史
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「ヴィンテージベースボール」の記事における「概説・歴史」の解説
アメリカ合衆国でプロ野球組織が設立・活動をはじめて100年が経った1970年代後半から、野球の始まった当時のルールと服装を再現した野球ゲームを行う動きが始まり、1980年代に入りこの懐古的な野球を楽しむクラブの活動が徐々に活発になっていった。ヴィンテージ・ベースボールとしての最初の試合は、1980年にニューヨークのオールド・ベスページという場所で、野球史愛好家らの手によって1860年当時のルールで試合が行われたのが最初であるとされる。 その後1995年に「ヴィンテージ・ベース・ボール協会」(Vintage Base Ball Association)が設立され、加盟クラブ間での交流試合を手助けをするようになった。この組織では1860年代のルールをもとにゲームが行われている。 また元ニューヨーク・ヤンキース等で投手として活躍したジム・バウトン(Jim Bouton)を理事長とする「ヴィンテージ・ベース・ボール連盟」(Vintage Base Ball Federation)は1880年代のルールをもとに、住民参加の町おこしも兼ねて各地でゲームを行っている。2004年7月3日にマサチューセッツ州のピッツフィールドで開かれたヴィンテージベースボールのイベントでは、6000人もの観客が詰め掛けた。 ヴィンテージ・ベース・ボール連盟等の資料によると、クラブは現在アメリカ合衆国全土とカナダ(オンタリオ州)などに数百あると言われ、中にはかつて19世紀にメジャーリーグベースボールに加盟していたチームと同じフランチャイズで、同名を名乗って活動しているクラブも見られる(例:ニューヨーク・ミューチュアルズ、プロビデンス・グレイズ、ハートフォード・ダークブルース等)。 なお『ヴィンテージベースボール』の綴りは、19世紀当時のそれにならって、"Base"と"Ball"を別々の単語で書くのが正しい記述だそうである。 また、日本においても、松山 市など各地で「古式野球」が行われている。
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概説・歴史
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「TOYOTA WEEKLY ALBUM TOP10」の記事における「概説・歴史」の解説
1994年4月2日、土曜日15:00-16:55の枠で『TOYOTA WEEKLY ALBUM TOP30』(トヨタ・ウイークリー・アルバム・トップサーティー)として放送開始。『KOSE カウントダウン・ジャパン(現:JA全農 COUNTDOWN JAPAN)』『コスモ ポップス ベスト10』に続く第3のランキング番組で、この時からカウントダウンステーションが確立する。 初代パーソナリティは市川博樹(現:ARCHE)と原田直美。東京・渋谷パルコにあるTOKYO FM渋谷スペイン坂スタジオからの生放送で、邦楽(J-POP)・洋楽それぞれの最新CDアルバムのランキングを発表し、アルバム収録曲を紹介するほか、毎回ゲストが1組登場して最新アルバムについてのトークを展開するのも魅力の一つであった。もちろん『カウントダウン・ジャパン』などと同様に、ゲストによってはスペイン坂スタジオ前にファンが殺到することも多かった。 当初は2時間番組で、30位までランキングを発表していたが、1994年10月1日、16:30-16:55の枠で『ONIX ゴールデン・ヒッツ』が開始されたことで、放送時間が16:25までに短縮される。その後はランキングが10位までとなり『TOYOTA WEEKLY ALBUM TOP10』に改称される。 1998年9月26日の放送を以て原田が卒業。翌週10月3日より放送時間が15:55までに短縮、1時間番組となる(『WONDA THE GOLDEN HITS』の時間拡大に伴う措置)とともに、クリステル・チアリが新パーソナリティとして登場(市川は続投)。 1999年6月26日、番組開始から務めた市川が卒業。同時にチアリも卒業し、番組史上初めてパーソナリティがそろって交代となる。7月3日の放送から、川上真二(現:SINJI)と有坂来瞳のコンビが登場する。 2000年3月、TOP30時代を含めた番組シリーズは6年間の歴史に幕を下ろした。 なお、カウントダウンステーション第3部のトヨタ一社提供枠は後番組の『TOYOTA SUPER WORLD COUNTDOWN』とその後の『TOYOTA SOUND IN MY LIFE』まで続くこととなる。また、SINJI・有坂コンビは『SOUND IN MY LIFE』初期までの3番組に亘ってTOKYO FM土曜午後3時台を支えた。 なお、当時のJFN加盟各局中FM三重では最後までネットされなかった。
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概説・歴史
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「森永ミルクキャラメル」の記事における「概説・歴史」の解説
キャラメルの販売自体は森永製菓の前身の森永西洋菓子製造所が1899年(明治32年)に創業した頃から行われてきたが、現在の商品名になったのは1913年(大正2年)からである。発売当初、高温多湿の日本の気候に合わずキャラメルが溶けてしまうという性質から、森永太一郎が改良を重ね、1914年(大正3年)、携帯用のミルクキャラメルが発売される。 初期はブリキ缶1斤に1粒5厘のばら売りで販売されていたが、容器代などに経費がかかり、高級菓子となってしまったため、その後、現在まで続く黄色い図案の紙容器となった。大正末期から昭和20年代にかけては帯封をしていたが、その後廃止された。 1935年(昭和10年)から第二次世界大戦終戦までは帯に「祈武運長久」の文字が入れられていたり、またブリキ缶による慰問用のミルクキャラメルが発売されたりと、戦時色の濃いものもあった。 12粒入りミルクは森永製菓の全商品中、現在も唯一昔のエンゼルマークを使用している。なお、箱入り商品は箱内部の中舟と呼ばれるキャラメルを乗せている部分の裏側に「懐かしの風景」というコーナーが印刷され、大正・昭和時代の世相や懐かしの遊びを挿絵とともに紹介していた。現在は簡単3Dアート。
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