かわだ‐じゅん〔かはだ‐〕【川田順】
川田順
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川田 順(かわだ じゅん、1882年(明治15年)1月15日 - 1966年(昭和41年)1月22日)は、日本の歌人、実業家。住友総本社常務理事。
- ^ a b 『行動する異端: 秦豊吉と丸木砂土』森彰英、ティビーエスブリタニカ, 1998、p88-89
- ^ 服部徹也 (2018). “帝大講師小泉八雲ー講義「読書論」「創作論」「文学と輿論」を中心にー”. ヘルン研究 3.
- ^ 山口日太郎『メガバンク学閥人脈』新風舎、2006年、167頁。
- ^ a b 田中康二「幕末勤皇歌研究と時局」『神戸大学文学部紀要』第39巻、神戸大学文学部、2012年3月、1-41頁、doi:10.24546/81008293、hdl:20.500.14094/81008293、ISSN 02885808。 “(1942年の)選定委員は佐佐木信綱、斎藤茂吉、北原白秋(途中で没)、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、折口信夫、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、土屋文明、松村英一の12名である。”
- ^ 『朝日新聞』1942年4月14日(東京本社発行)朝刊、3頁。
- ^ 主治医であった高折隆一(橋本関雪の娘婿)が手当をした。渡辺千萬子『落花流水 谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』(2007年、岩波書店)p. 26
- ^ “余録:<老いて今ひろった…”. 毎日新聞. (2020年11月30日) 2020年11月30日閲覧。
- ^ 新発見の川田順書簡一通(上) 鈴木良昭、国語研究4、1986-03-15
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)107頁
- ^ 細川力蔵か?
- ^ 『葵の女―川田順自叙伝』講談社 (1959/1/1)p3
- ^ 川田順『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『葵の女―川田順自叙伝』p69
川田順(教え子)
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東京帝国大学では学生の信望が厚く、解任のときは激しい留任運動が起きた。川田順は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科した。後年この話の真偽を尋ねられた川田はそれが事実であると答え、後任の夏目漱石についても「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と言った。
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