おいらく‐の‐こい〔‐こひ〕【老いらくの恋】
老いらくの恋
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老いらくの恋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:49 UTC 版)
1939年に妻を脳溢血で亡くし、1944年から、元京都帝国大学経済学部教授・中川与之助の妻で歌人の鈴鹿俊子(中川夫妻は既に3子をもうけていた)の作歌指導にあたる。川田と中川は旧知の間柄であったが、俊子に「新古今集」研究の手伝い等をつとめてもらう中で、川田と俊子の交際は人目を忍ぶ仲へと発展、俊子との仲は中川の知るところともなる。川田は俊子との別れを中川に誓うが、結局逢瀬に再び身をやつすこととなり、1948年8月、中川夫妻は離婚に至る。しかし川田は自責の念に苛まれたことなどから、同年11月30日に家出、12月1日に亡妻の墓前で自殺を図った。一命をとりとめたが、川田が家出の際に谷崎潤一郎たち友人に宛てて遺書を、新聞社に告白録などをそれぞれ送っていたことから、自殺未遂の顛末が報道され、俊子との交際が公になり、いわゆる“老いらくの恋”として騒がれることとなる。この事件は志賀直哉の戯曲『秋風』、辻井喬の小説『虹の岬』のモデルとなった。翌49年に川田は俊子と結婚、再婚後は京都から神奈川県に転居、俊子の2人の子を引き取って同居生活を送った。1963年日本芸術院会員。1966年1月22日、全身性動脈硬化症のため東京大学医学部附属病院で死去。戒名は泰順院殿諦道博文大居士。
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