古墳
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後世の城砦化
ヨーロッパの城砦の形態の一つである「モット・アンド・ベーリー」は、青銅器時代の墳丘墓が堀と高台を備えていることから、この地形を利用して構築されることもあった[57]。同じように、古墳も堀と高台を備えているため、この地形を利用して後の世に城砦が築かれることもあった。
城砦に利用された古墳の一覧
都道府県の記載順は ISO 3166-2:JP に準じる。
- 関東地方
- 中部地方
- 近畿地方
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- 茶臼山古墳 (長浜市) - 滋賀県長浜市東上坂町に所在。織田信長・徳川家康が陣として利用し龍ヶ鼻砦と呼んだ。
- 雪野山古墳 - 滋賀県近江八幡市新巻町・東近江市上羽田町・蒲生郡竜王町川守に所在。室町時代に雪野山城が建てられた[60]。
- 今城塚古墳 - 大阪府高槻市郡家新町に所在。享保年間(1716-1736年間)にまとめられた『摂津志』に「今城陵在郡家村永禄中城営」とあり、城として利用されていた記述がある[61]。
- 津堂城山古墳 - 大阪府藤井寺市津堂に所在。河内小山城。
- 岡ミサンザイ古墳 - 大阪府藤井寺市藤井寺に所在。
- 高屋築山古墳 - 大阪府羽曳野市古市に所在。高屋城が建てられ、戦国大名・畠山氏の本拠地として利用された[62]。
- 河内大塚山古墳 - 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘に所在。丹下城[63]。
- 一津屋古墳 - 大阪府松原市一津屋町に所在。戦国時代に一津屋城となった。
- 貝吹山古墳 - 大阪府岸和田市池尻町に所在。久米田の戦いの際に三好実休が砦として使用した[64]。
- 大仙陵古墳 - 大阪府堺市堺区大仙町に所在。国見城。堺城[65]。
- 黒姫山古墳 - 大阪府堺市美原区黒山に所在。
- 黒塚古墳 - 奈良県天理市柳本町に所在。柳本城。
- 狐井城山古墳 - 奈良県香芝市狐井・良福寺に所在。中世から近世にかけて城砦として利用された[66]。狐井塁と呼ばれていた。
- 恵解山古墳 - 京都府長岡京市に所在。山崎の戦い時の明智光秀本陣
- 中国地方
- 古墳が現存しない・発掘調査で判明しないなどの理由で確認できないもの。
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- 誉田城 - 大阪府羽曳野市に存在した。歴史に名があるが、もととなった古墳とともに現存しない。また高屋城との混同も見られる。
- 大塚城 - 大阪府大阪市天王寺区茶臼山町に存在した。古墳だと言われているが古墳とも中世の城郭跡とも明確な結論がつけにくい構造となっている。
- 城ノ山古墳 (堺市) - 大阪府堺市北区百舌鳥西之町に存在した。西村砦の比定地説が有力。
- 定の山古墳 - 大阪府堺市北区百舌鳥梅町に存在した。東村砦の比定地説が有力。
- 深井城 - 大阪府堺市中区深井中町に存在した。歴史に名があるが、もととなった古墳とともに現存しない。
- 高木大塚城 - 兵庫県三木市別所町朝日ケ丘に存在した。三木城を攻める際に織田信忠が陣を構えた。
- その他。石材の利用・弾薬庫・防空壕
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- 馬越長火塚古墳 - 愛知県豊橋市石巻本町に所在。石室に使われた石材が吉田城に使用されたという噂がある[67]他、太平洋戦争中には石室が弾薬庫として利用された[68]。
- 重定古墳 - 福岡県うきは市浮羽町朝田に所在。石室を弾薬庫として利用[69]。
- 安富古墳 - 福岡県安富天満宮境内に所在。防空壕として利用された[70]。
- ノムギ古墳 - 奈良県天理市佐保庄町に所在。防空壕・軍施設説が上がるような改装が行われていた[71]。
- 二子塚古墳 - 大阪府池田市。防空壕として利用[72]
- 乙塚古墳 - 岐阜県土岐市泉町久尻に所在。防空壕として利用された。
- 八幡観音塚古墳 - 群馬県高崎市八幡町に所在。防空壕を掘っていた時に発見された。
- 東赤坂古墳 - 高松市香川町浅野に所在。防空壕として使用された[73]。
- 梶山古墳 - 鳥取県鳥取市国府町に所在。防空壕として使用された。
注釈
- ^ 藤原明衡 撰『本朝文粋』(1060年頃)。ここでの「古墳」は「古い墓」「古人の墓」の意[9]。粤左相府、曩志内催、木幡古墳、草創新寺。 ──藤原明衡 『本朝文粋』 一三・浄妙寺塔供養咒願文(大江以言)[9]
- ^ 当時の中国語(漢語)との関係・由来についての資料は未確認。その問題とは別に、現代中国語では「古墳(簡体字:古坟)」といい、現代日本語の「古墳」とは同義語あるいは部分同義語の関係で、「古墳」や「古代の墓」を意味する[10]。
- ^ ancient tomb mounds in Japan など。
- ^ 小林の伝世鏡論の筋道は、大体において以下のようなものである。漢中期や後漢の中国鏡が永く伝世されたものであることを最初に指摘した梅原末治の見解を継承した小林は、鏡の永年伝世行為は単なる秘蔵ではなく、鏡(宝器)の伝世こそは首長が宗教的信望を獲得し、その権威を保証されるという目的に使用されたと推測した。また、それは古墳が出現する前の時代の状況を表していると推定した。そしてこのように大事な鏡(宝器)を古墳に埋納するようになったのは、もはや鏡のもつ神威によって首長の権威が保証される必要がなくなったからであり、古墳の発生は新しい権威の象徴・表徴であると捉えた。
- ^ 同じ原形または同一の鋳型から鋳造された鏡。
- ^ 年輪年代法によって棺材料に使われたコウヤマキの実年代が確定すれば、被葬者の没年に近い年代を求めることができる[21]。現在、コウヤマキの暦年標準パターンは西暦22年から741年まで完成している[21]。
- ^ このセクションでは、許可を下ろす側が主体ということで、「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)」などといった、考古学的視点とは異なる皇族視点の記載方法を執った。
- ^ 例えば、かつての交野郡・現在の枚方市の地理的にも近い牧野と禁野にある車塚古墳と車塚古墳。例えば、かつての滋賀郡・現在の大津市の地理的には遠い膳所と木の岡にある茶臼山古墳と茶臼山古墳。ほかにも、枚挙にいとまがない。
- ^ 例えば、高崎市の倉賀野町と中大類町と柴崎町にある浅間山古墳と浅間山古墳と浅間山古墳は、後2者が元から同じ旧・大類村域にあった(※ただ、江戸時代には中大類村と柴崎村という別の村であった)ところに加えて倉賀野町が高崎市に編入されたことで、市内に「浅間山古墳」が3つも存在することになった。もっとも、倉賀野町の前身である倉賀野宿も、中大類村と柴崎村も、江戸時代には群馬郡西部の、上州高崎藩領内の集落で、その意味では最初からこの地域に重複して存在していた。
出典
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