乙塚古墳とは? わかりやすく解説

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乙塚古墳
附 段尻巻古墳

名称: 乙塚古墳
 附 段尻巻古墳
ふりがな おとづかこふんつけたりだんじりまきこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 岐阜県
市区町村 土岐市泉町久尻
管理団体 土岐市(昭141226)
指定年月日 1938.12.14(昭和13.12.14)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 西北ヨリ東南ニ向ツテ突出セル臺地上ニ築造セラレタル圓型ナリ直徑九十六尺高約二十七尺南面石槨ノ孔口ヲ露出セリ石槨羨道玄室ノ二ニ分レ羨道入口高約八尺五寸幅約八尺四寸東壁ノ長約二十二尺、西壁ノ長約十九尺五寸玄室ノ高約八尺中央ニテ八尺七寸奥壁ニテ六尺五寸、東壁長十七尺西壁長約十六二寸アリ全部花崗岩切石ヲ以テ築キ天井石玄室三枚羨道ヨリレリ其ノ大ナルモノハ幅七尺長約八尺ニ逹ス側壁石材最大ナルモノハ長約八尺幅約四尺アリ石材ハ孰レモ大形ノモノヲ用ヒ隙間ニハ小石充填セリ 規模大ナラザルモ構造見ルニ足ルモノアリ
乙塚ノ西北二十間ニ當リ高約十二尺徑約四十二尺ノ圓型アリ南及西側封土一部鑿取セラレタルモ尚墳型ヲ見ルニ足ル南面石槨ノ孔口ヲ露出セリ構造ハ乙塚古墳ト同一ニシテ羨道玄室ノ二ヨリレリ其ノ總長二十一尺アリテ規模總テ乙塚ヨリナリ

乙塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/02 09:53 UTC 版)

乙塚古墳

墳丘・石室開口部
所在地 岐阜県土岐市泉町久尻1332(字勝負)ほか
位置 北緯35度21分55.93秒 東経137度10分51.35秒 / 北緯35.3655361度 東経137.1809306度 / 35.3655361; 137.1809306座標: 北緯35度21分55.93秒 東経137度10分51.35秒 / 北緯35.3655361度 東経137.1809306度 / 35.3655361; 137.1809306
形状 方墳
規模 一辺27.4m×26.1m
高さ5.8m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
出土品 鉄製品・須恵器土師器
築造時期 7世紀前半
史跡 国の史跡「乙塚古墳 附 段尻巻古墳」
地図
乙塚古墳
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乙塚古墳(おとづかこふん)は、岐阜県土岐市泉町久尻にある古墳。形状は方墳。付近の段尻巻古墳と合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「乙塚古墳 附 段尻巻古墳」)。

概要

段尻巻古墳(左)・乙塚古墳(右奥)

岐阜県南東部、土岐川北岸の河岸段丘縁辺部(標高約150メートル)に築造された大型方墳である。地元では八坂入彦命(第10代崇神天皇皇子)の娘の弟姫の墓として伝承される。2002年度(平成14年度)以降に発掘調査が実施されている。

墳形は方形で(平成14年測量調査以前は円形とされた)、南北27.4メートル・東西26.1メートル・残存高さ5.8メートルを測る。墳丘外表で段築・葺石は認められていない。また墳丘周囲で周溝は認められていない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南南東方向に開口する。石室全長19.2メートルを測り、美濃地方では最大級の規模の大型石室として注目される。石室内の副葬品のほとんどは失われており、鉄製品片・須恵器片(鳥形のつまみが付いた装飾付須恵器含む)・土師器片がわずかに検出されている。

築造時期は、古墳時代終末期7世紀前半頃の築造と推定され、段尻巻古墳とはほぼ同時期の築造とされる。東美濃地域では代表的な大型古墳であり、当時の刀支評(土岐郡)を治めた有力首長の墓と想定される[1]。方墳の採用には畿内ヤマト王権との関わりが示唆され、ヤマト王権による地方の領域再編・支配の実態を考察するうえで重要視される古墳になる[1]

古墳域は1938年昭和13年)に国の史跡に指定されている(指定名称は「乙塚古墳 附 段尻巻古墳」)。現在は史跡整備のうえで公開されているが、石室内への立ち入りは制限され、毎月第2日曜日に公開されている。

遺跡歴

  • 安土桃山時代-江戸時代、陶工によって工房等として再利用。
  • 江戸時代、陶祖神・山神を祀る場として信仰(天保5年(1834年)に陶祖神石祠の建立)。
  • 明治初年、塚の南に所在した乙塚庵が廃寺(昭和3年の小川栄一報告)。
  • 1927年昭和2年)、文献上初見[2]
  • 1928年(昭和3年)、小川栄一による報告[2]
  • 1938年(昭和13年)12月14日、国の史跡に指定(指定名称は「乙塚古墳 附 段尻巻古墳」)[3]
  • 2002年平成14年)、測量調査。方墳と確認。
  • 2002-2005年度(平成14-17年度)、保存目的の発掘調査:乙塚・段尻巻第1-4次調査(土岐市教育委員会・土岐市埋蔵文化財センター、2007年に報告)。
  • 2014-2015年度(平成26-27年度)、史跡整備に伴う確認調査:乙塚・段尻巻第5-6次調査(土岐市教育委員会・土岐市文化振興事業団、2017年に報告書刊行)[2]
  • 2017年(平成29年)10月13日、史跡範囲の追加指定[3]
  • 2018-2021年度(平成30-令和3年度)、史跡整備に伴う確認調査:乙塚・段尻巻第7-9次調査(土岐市教育委員会・土岐市文化振興事業団、2023年に報告書刊行)[4]
  • 2019-2023年(令和元-5年)、史跡整備。

埋葬施設

石室俯瞰図
石室展開図

埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南南東方向に開口する。石室の規模は次の通り[1]

  • 石室全長:19.2メートル
  • 玄室:長さ5.1メートル、幅1.9-2.7メートル、高さ2.7-3.0メートル
  • 羨道:長さ5.4メートル、幅2.3-2.6メートル、高さ2.4-2.7メートル
  • 前庭部:長さ8.1メートル、幅2.6-4.2メートル

石室の石材は、主に近辺で産出する花崗岩の割石で、間詰石・礫床にはチャートを使用する。玄室の平面形は胴張形。奥壁は巨石1枚の上に小石材を詰め、側壁は3段積みである。玄門部はまぐさ石・立柱石によって構築される。床面は玄室の一部で礫床が検出されており(現在は本来の床面よりも20センチメートル程度上面で復元)、羨道から前庭部では小礫を詰めた排水溝が認められる。天井石は、玄室では3枚、羨道では4枚[1]

石室内の副葬品のほとんどは失われており、発掘調査では鉄製品片・須恵器片・土師器片がわずかに検出されている。特に須恵器のうちでは、鳥形のつまみ(鳥鈕蓋)が付いた装飾付須恵器が出土例の少ないものとして注目される[1]

文化財

国の史跡

  • 乙塚古墳 附 段尻巻古墳 - 1938年(昭和13年)12月14日指定、2017年(平成29年)10月13日に史跡範囲の追加指定[3]

関連施設

脚注

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『土岐市史』 第3巻(近代社会・土岐市の文化財)下、土岐市、1974年。 
  • 『平成16・17・18年度 土岐市市内遺跡発掘調査報告書 -乙塚古墳・段尻巻古墳・熊野神社3号墳範囲確認調査』土岐市教育委員会・財団法人土岐市埋蔵文化財センター、2007年。 
  • 牛丸岳彦「乙塚古墳と段尻巻古墳について -岐阜県土岐市所在の二古墳の調査-」『専修考古学』第6号、専修大学考古学会、1996年10月28日、59-65頁。 

関連項目

外部リンク



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